開戦前夜

今日は職員会議&教科会議の日です。ただ、職員会議の前はセクション長の会議があり、教科会議の前は教科主任の会議があります。なので、ヒラ教員のわたしはそんなに多くの時間を拘束されません。
実は昨日ゲンコを「煮詰まった」と言って投げてしまったところ、I田さんが受け取ってくださったので、突然緊急にやらなきゃならないゲンコがなくなりました。この解放感。いや、あるのはあります。毎月のゲンコとか新しい人権学習のネタとか、はたまた日曜午後のお座敷とか、なにより「本丸」とか、あるのはありますが、とりあえず、あの切迫感が軽減されました。
なので、昨日概ねできていた「人権教育だより 第2号」を完成させてみたり。ただ、「第1号」は今日の職員会議が終わらなきゃ配れません。なので、今日の最後の仕事になりますね。
そんな感じで各種会議に淡々と参加。
会議が終わって教務に行くと、時間割担当の人がパニクっておられます。この時期、時間割担当はほんとうにたいへんです。なんか、突然新採研が入ってきたり、施設関係でトラブってしまってたり、てんやわんやです。ちなみに、わたしが頼んでた「ムリ」は忘れられてたみたいで
「ごめんなさい」
って言われましたが、そこは
「いやいや、ムリを頼んでたからぜんぜん大丈夫です。こちらでなんとかしますから」
というとメッチャ感謝されて、それは違うぞと思ったり。
時間割ってタイトな時間の中で、ものすごくいろいろな条件をクリアしながらつくっていくものなので、メッチャたいへんな仕事です。
かつて「教務なんて」と思ってたけど、教務がいなかったら学校はまわりません。はっきり言って、生徒指導部とか進路指導部とか、もっと言えば担任すらなくても学校はまわります。が、教務がなければどうしようもありません。
なかでも、時間割はみんなが休んでる春休みにガンガンに仕事されてます。だからこそ感謝の気持で話をしなきゃならんと、わたしは思ってます。そして、そういう気持ちで話をすれば、教務の人もグチを言ってくれたりしてくれる。
まぁ「力がある」教員は、たぶん「自分がいなければ」って思うだろうし、若ければなおそうなりがちなんじゃないかな。わたしは「力のない」教員だから、いろんな人の働きの上で学校がなりたってると思います。
そしてそれは、「いま」だけではなく、「過去」も含めてです。うちのガッコのような底辺的校は、つい「過去」を否定的に捉えてしまう。でも、あのワチャワチャした過去の営みの延長線上に「いま」がある。ついでに言うなら、その「ワチャワチャ」は、その時の教員のせいではなく、例えば京都であれば京都の入試制度の中でつくられるし、さらには日本社会の中でつくられていく。
学校とか教育って、そういうふうに捉えながら、そういう歴史や社会の限界の中で「いま」「ここで」「自分は」なにができ、なにをすべきであり、なにを拒否するかを考える。そういうものだと思ってます。まぁ教育社会学ってことです(笑)。
で、若い衆と「人権教育だより」を配りに行ったり。第1号と第2号を同時に配ったら
「早いな」
とか言いながら笑われました。これがいい。レターケースに入れたのではもらえない反応がもらえる。そして小さな対話をする。
それは職員室だけでなく、教室でもやることです。若い衆にはそんなことを伝えたい。教員の仕事って「強いストレートパンチ」一発ではなく、「小さなジャブ」を手数多く打つものだと思ってます。それもまた「力のない」教員であるわたしの考え方です。もしかしたら「力のある」教員にとってはひとつひとつのパンチは小さく見えるだろうし、「自分のほうができる」と思うかもしれない。でも、そういうものではないと、わたしは考えています。
さてと。5時がきた。帰りましょう。帰りにウトロに寄って少し話。今日はウトロでコンサートがあるけど、パスさせてもらいましょう。
来週から長い長い39回目の闘いがはじまります。今日はその前夜です。