つぶれた

今日は午前も午後も出張です。なので、朝はほんの少しゆっくり。
午前の出張先は第2のふるさとです。ここでいろいろ情報交換をします。
この町、かつてはヤンチャな子らが生き生きと生活していました。なので、小学校も中学校もとてもファンキーな感じでした。でも、子どもたちは学校のことがめっちゃ好きで、遅刻はしても欠席はしないという感じでした。ところが最近は不登校の子どもが増えているようです。
そんな情報を聞かせてもらっているうちに、今の不登校って、かつての「荒れ」が姿を変えただけなんじゃないかという気がしてきました。同和教育は「非行は教育の宝」って言ってきました。であるならば、「不登校は教育の宝」と読み替えることはできないのかなということです。つまり、不登校という現象は、その背後にある「生活」「地域」「社会」を顕在化させるものであるという考え方です。
なんでも、不登校の子どもたちは「めんどくさい」と言うんだとか。それを「めんどくさがりの子」というふうに個人の問題で考えない。例えば、「めんどくさい」の背後には「勉強へのモチベーションの低さ」があると考えてみる。すると、その「モチベーションの低さ」は、何に起因するかというふうに問いが立てられる。例えばその理由として、「勉強と進路が結びついていない」ということがあるかもしれない。なぜ結びついていないか。例えば、親の姿を見た時に、特に高校を卒業していなくてもなんとか生活できているという現実があるかもしれない。そういう親であれば、「子どもを学校に行かせよう」という気持ちが希薄になるかもしれない。すると、教員からすると、「親の学校に押し出す力が少ない」と感じてしまうことになる。で、なぜ親が「高校を卒業していなくてもなんとか生活できている」のかと考えると、そこに地域社会のありようがある可能性がある。
こう考えると、不登校の問題を社会の問題として捉えることができるようになる。まさに先週の夜の仕事のテーマです。
なので、そんなことをつぶやいてみたり。
その後、授業参観。やはり少人数はいいなぁ。まぁ少人数なのは生徒数が少ないからなんですどね。ちなみに、クラスに書いてあった人権スローガンに「他人が嫌だと思う言葉を言わない」みたいなのがあって、ついつい近くにいた人に話。
「人権って、つい「〇〇してはいけない」という言葉になってしまうけど、そういうのって、子どもたちに「人権は自分を縛るもの」というメッセージを与えてしまう気がするんですよね。そうじゃなくて「〇〇しよう」という言葉であらわした方がいいと思うんですよね」
まぁ、この間ずっと考えていることです。
午後の会議は恒例の会議。会場は支援学校です。まずは授業参観。だんだんしんどくなってきました。と、ふと思った疑問が…。なので、参観の後で聞いてみました。
「あの、ビルメンテナンスの授業をしている人の免許ってなんですか?」
「あの人は体育ですね。その隣のクラスの人は国語かな」
マジか…。専門外じゃん。授業のために、わざわざビルメンテナンスのスキルを獲得しはるんや。なんかもう、たいへんやなぁと思うと同時に、何かが違う気がしてきます。まぁ知らんけど。
そうそう。今日は前回できなかった「部落問題学習」のプレゼンをすることになっているのでした。まぁ皆さんがどう思われるかはわからないけど、とりあえずやりますか。まぁでもあまり時間がないはずなので、ハイスピードで40分くらいしゃべりまくりました。
が、これが悪かった。プレゼンの後、だんだん声が出なくなってきて、会議が終わる頃には完全に出なくなりました。
そう言えば、昨日の夜の仕事の最中に、喉にほんの少し違和感があったのでした。そのまま放っておいたのが悪かった。まぁでも、体調そのものはそんなに悪くありません。喉だけなら「笑い」もとれるし、なんとかなるか。
さてと、実家に寄って電気工事をして、その後ビールだな。