テーマを選ぶ

10月がきたので「おべんきょ」再開です。これから1月の終わり頃まで「人権」がテーマになります。
今日は半年間の流れを聞いたあと、おべんきょ仲間みんなで自分なりのテーマ探しをしました。
にしても、わたしはなにをしたいんだろう。いろいろ考えて、最後の最後に選んだものは「ジェンダー」でした。なんだか自分でも意外な気がしました。
ちなみにそれぞれのテーマごとにグループをつくって、グループごとに研究→発表をします。他のテーマは「部落」「在日/国際理解」「障害」「GID」でした。思わず「はぁ?」です。他のものに並んで、こんなニッチなところに関心を持つ人がいるんやと。
で、わたしと同じ「ジェンダーグループ」は、今のところもうひとりだけです。でもこの人、なかなか面白そうな人です。なんというか…。「竹ぼうきさん」的なんですね。暑いです(笑)。
これから半年、楽しみです。

錆落とし

今日からおべんきょの後半戦のスタートです。とは言え、今日はおべんきょ仲間の発表を聞くだけだったんですけどね。
問題は、メッチャ眠いということです。ごく少人数なので、寝るとバレるわけですが、寝られる自信がある程度には眠いです。
さてさて、どうなるか…。
おべんきょがはじまると、いきなり眠気が飛びました。おべんきょ効果はたいしたものです。で、発表聞きながらいろいろ考えて、質問したり意見を言ったり。
と、おべんきょ時間終了直前、突然猛烈な眠気が襲ってきましました。

おべんきょから離れていたこの2ヶ月間、脳みそは完全に錆びついていました。どうやら今日のおべんきょは、その錆落としだったみたいです。でも、脳みそが動き出して、いきなり元気になって、動きはじめて、すぐにガス欠になったのかな^^;;。
ま、いいです。楽しかったo(^^)o

人権教育の研修発表会

かつて「いつかは行きたいなぁ」と研修会ですが、とうとうわたしに順番がまわってくることはありませんでした。でもいいんです。今はもっと充実していますo(^^)o
てことで、発表会へ。
まんまるの会をとるかどうかガチで悩みましたが、やはりこちらかなと。まるっぽ欠席ははじめてですが、まぁM木ちゃんに「頼む」って言ったから大丈夫でしょう(笑)。
で、発表を聞いたのですが、なんかツッコミどころが満載で…。ついツッコミまくってしまったのはわたしの悪いクセです^^;;。
でもねぇ…。
なんか薄いんですよ。もっと深く自分を掘り下げて、深く現実を掘り下げて、そこから噴き出してくるいろんな人たちの思いを言葉に載せていかないといけない気がするんです。その掘り下げ方が足りない。
まぁ、わたしがそれができているかどうかは別ですけどね^^;;。
ま、いろいろ考えさせてもらいました…。
にしても、もうちょっとおとなしくならんといかんかなぁ…。

サバイバルレース(3日目)・判断すること

今日のおべんきょはまずは肢体不自由のことについてでした。で、いきなり錐体路とかなんとか、中枢神経系の話。そっか、動かすこととなめらかに動かすことは違うんだ。一見、非合理的というか非効率的に思えるんだけど、きっと駆動系と操作系をわけるというか、エンジンとギアをわけるというか、その方が操作をしやすいんでしょうね。
あとは吸痰教室とかエピペン教室とか。
そうか、エピペンは聞き手で握り続けるのがコツなんですね。握り直した時反対になって、しかも針の側を押さえてしまうと自己注射なわけですね。
「エピペンを打とうとした人に悪影響が出ます」
と、淡々としたお医者さんのナレーションが魅力的です(笑)。
最後は音楽療法の話とか。和みます(^^)

そのあとレポート発表会。なんですが、しばらくたったら雑談界^^;;。
でも、ここがおもしろい。プロのお医者さんと臨床心理士の卵さんとド素人のわたしの会話。でも、聞いてくださるんですよね。
ちなみに、わたしは「決める」のがすんごい苦手です。特に飲み屋を決めるのが苦手です。で、そんなわたしが決めなきゃならない時はどう決めているか。
例えば、3つの選択肢があるとしたら、それを二段階にわけて決めているんじゃないかと思ったのです。
まずは、3つのうちの「これはないわ」を削除する。で、ふたつのうちの「こつわちはイマイチ」を削除する。
て考えると、例えば、100軒の飲み屋の中から、まずは「スー○ードライしかない店」を削除する。で、「今日は焼き鳥の気分じゃない」となると焼き鳥専門店を削除。そうやって、二値判断で、イマイチな店を削除するのを繰り返して判断をしているのかなと思いました。
たぶんこれなら判断できるし、最終の判断をミスったとしても、判断をたどっていけばどこで別の判断にたどりつけたかがわかる。するとそれはフィードバックの材料になって、次に活かすことができる。
のかな…^^;;?

で、これ、判断にけっこう時間がかかります。そこでお医者さんのひとこと。
「ちょっと待ってスキルを高めることが大切なのかもしれませんね」
すごい!それです。「ちょっと待ってスキル」!

すんごい有意義な三日間のサバイバルレースでした。

ムチャぶり

今日のまる一日のおべんきょ内容は知的障害の子どもをめぐる話。
もちろんはじめは病理的な内容で、自分の勘違いがわかったりして、すごくためになりました。で、肥満とかヤセの話が出てきて。基礎代謝の問題と偏食の問題があわさってるのかなぁ…。
続いて出生前検診をめぐる話。さまざまな批判はあるにしろ、とにかく知識やデータをもたないとはじまりません。ふむふむ。なるほど。ダウン症協会が反対しているところまできちんと話されました。
午後からは知的障害を持つ子どもの性教育の話。七生養護の話も当然出てきました。で、やはり現在保護者から性教育へよニーズが高いとか。そりゃそうでしょうね。にもかかわらず、いらんバッシングをしたせいで、いろんなことが後手後手になってしまった。でも、今はずいぶんと性教育をしはじめているそうな。
で、問題はレポートです。
「告知文と計画書を作成せよ」
告知文はサンプルがあるからいいです。でも、「計画書」ってなんだ?
「あの、フォーマットってあるんですか?」
「ないです」
「何を書けばいいんですか?」
「だから計画を」
計画を書くのが計画書なことは、わたしもわかります^^;;。
「いや、具体的に何をどう書けば?」
「だから、「これこれこうをこうする」みたいな」
「例えばですね、学習指導案をかけと言われたら、ちゃんと表があって、どこに何を書くかがわかるようになっているんです。で、それを埋めていけば指導案が書ける。そういうのはないんですよね?

「ないです」
家に帰ってからレポート書きはじめたのですが、やはりわかりません。それでもなんとかつくったけど、これが「計画書」として要求されていることなのかどうかもわかりません。

自分にとって「あたりまえ」で、かつ相手にとって「あたりまえでない」ことを説明するときは、具体的に何をどうするかということをていねいにしゃべることが理解を求めるためにすべき最低限のことだってことです。
で、これ、まさに発達障害の人になにか「新しいこと」を伝える時の方法なんじゃないかなと。
まぁ、実体験してそんなことはわかったものの、この計画書でいいのかという不安を抱きながら寝ちゃう夜でした。

サバイバルレース(一日目)・意識が飛ぶ

さて、今日から三日間、サバイバルレースです。といっても、免許の更新ではありません。ひたすら発達障害の話と向き合うという、単なる趣味の話です。
にしても、9時から5時まで、間に休みはあるもののずっとおべんきょは、さすがにきつい。しかも、おべんきょ仲間は一人しかいません。これはまずいです。
にもかかわらず、たまに目が閉じる→意識が軽く飛びます。こんなことは滅多とありません。
内容はメチャクチャおもしろいんです。なにせ、発達障害の病理や生理なわけで、小児科の専門医から直接こんなことを聞ける機会はまずありませんから。
なんというか、それが具体的に役にたつかどうかなんてことはおいといて、情報としてそのことを知っていることって大切なんじゃないかなと思うのです。
なのに、意識が飛ぶ(;_;)。
されでもなんとか最後までがんばりきりました。まぁ、金〜日の過ごし方がね^^;;。

家に帰って、今度はレポート書き。
いやぁ、おべんきょだらけの一日でしたo(^^)o。

教育は娯楽的メディアに本当に敗北したのか?

半年間の楽しいおべんきょも、今日で最終です。
今日のテーマは大きくは3つ。ひとつは「子育て」をめぐる話。もうひとつは「学校と社会の教育力の関係」をめぐる話。そして最後は「マスメディアと学校」をめぐる話。それに「プロローグ」と「エピローグ」がついてるって感じです。
プロローグの部分は近世の教育と近代の教育のあり方の比較です。近代の教育は日本の近代化のための国家の設計による国民教育制度であるということ。そこでは、子どもたちが「何を学びたいか」がメインとなるのではなく、教える側が「なにを教えなくてはならないか」がメインになる。つまり、「教える側の論理」で教育が運営される。それに対して、近世の教育は、どこの誰からいつ何を学ぶかということはもちろん、学ぶ/学ばないまでもが選択の中にある。すなわち、「学ぶ側の論理」であった。
そういう時代背景をふまえて、まずは「子育てを誰が担うのか」という話が出てきます。で、「親が担わなければならない」のは近代以降のことであって近世では「生みの親」以外に「名づけ親」など、さまざまな「親」が存在し、さらに「子守」のように大人以外も子育てに参加していた。つまり、地域が総がかりで子育てをしていた。そのことにメリットがあるのではないかという問題提起です。で、近代においても地域の教育力みたいなものをもっと使わないといけないのではないか。学校はそのための「ハブ」的要素になる必要があるのではないかという問題提起がされています。
一方、近代の学校はあまりにも多くのものごとを抱えさせられている。なので、地域からの学校支援体制が必要なのではないかという問題提起が二点目の論点です。
で、最後の論点が商業的マスメディアの蔓延により、いまや学校は転換点を迎えているのではないかということです。端的に言うならば、学校というメディアは商業的メディアの前で敗北を喫していると。そこから、近代の学校はそのありようを大きく変える必要に迫られているという問題提起です。
で、「エピローグ」の部分は、学校における教育のみを教育とするのではなく、生涯学習へという感じですか。

まぁ、こうやって書くと、すでにいくども論じられた「いまさら感」ただよう話になるのですが、近世の教育との比較の中で論じられているので、なかなかおもしろいです。

が…^^;;。
やはり、どことなくむず痒いものがあります。
例えば、子育てのことひとつとっても、近世と近代の社会のありようの違いみたいなことをかなりすっ飛ばしているかなと。
たしかに近世では地域全体で子育てをしていたかもしれませんが、その前提として、居住地の移動の自由の問題があるのではないかと思います。A地域で生まれて、B地域に引っ越して、C地域の学校に通って…。なんてことが当たり前の世の中で、子育てを地域ぐるみで行うのはとてもむずかしい。
同じようなことは学校支援体制についても言えることです。だれが支援体制を呼びかけコーディネートするのか。いどうか緩やかな地域であれば、まだ比較的実現可能性は高いかもしれませんが、出入りがひんぱんな所では、たとえつくったとしても継承できるのか。学校の教員が継承?いや、それは支援ではなく仕事増=負担になります。また、教員も転勤をするので、継承は困難。
つまり、近世においては、生活が地域に縛られている不自由さと引き換えに、そうしたものがつくれた。近代は、地域と人間を切り離すことで自由を獲得し、それと引き換えに地域となつながりを失った。そんなものの考え方ができるのかもしれません。

ところで、もうひとつ。商業的マスメディアに学校は果たして敗北しているのか。
たしかに情報コントロールを学校が担えるかというと、すでにそれは不可能になっています。また、商業的マスメディアと学校というメディアの不親和性も言わずもがなです。
しかし、それをもって敗北と言えるのか。
おべんきょ仲間から
「近世の人は、勉強したからといって百姓が武士になれたわけではない。にもかかわらず、なぜ勉強したんだろうと、半年思い続けてきました」
という発言がありました。
まさにそれ!です。
「○○のために」ではない学びをする子どもたちはいまもいます。そこがこのペーパーの著者の観点からは欠落しているように思われてしかたがありません。
わからないならわからないなりに、それでもニコニコと数学の授業を受け、ときに解けた時にうれしそうに、誇らしげに○つける子どもの姿は、商業的マスメディアへの敗北とは対象的なところにあるような気がしてならないのです。

そんなことを感じながら、半年間のおべんきょが終了しました。

SSTキタ━(゚∀゚)━!

今日の話は「ソーシャルスキルレーニング」についてです。
これ、去年ガッコでやらされたので、まぁ中身はある程度はわかってるんですが、プロからきちんと、それも学問的に話を聞くのは、またとない機会かなと思い、ちょっと期待が高まります。

最近のガッコのセソセイたち、「人間関係づくり」が子どもたちに不足してるって考えているみたいってところから話がはじまりました。まぁ確かにそうです。が、子どもたちに限らないかもとも思ったりしたのですが、それはおいといて…。
で、なぜ人間関係づくりが苦手かというと、人間関係づくりを必要としない環境にいるからであると。
ただ、人間の行動はつくれる。まぁ、つくれるというと語弊があるけど、平たく言うなら「影響を受ける」。これを「モデリング」というそうな。これを実験で確かめたのが「ボボドール実験」ってやつらしいです。
なんでも子どもたちを3つのグループにわけて、ビデオを見せる。共通しているのは「大人がボボドールをボコボコにする」で、その後「その大人がほめられる」「その大人が怒られる」「なんもなし」。で、ビデオ鑑賞後、ボボドールのある部屋で「好きに遊んでいいよ」ってやると、最初のグループは乱暴で、2つ目のグループはおとなしかった。
つまり「大人の行動」だけではなく、その行動がどう評価されるかが「モデリング」としての影響力を持っているわけです。で、影響を与えやすい「人」は、身近な人・権威のある人・近しい人だとか。
で、この「モデリング」と「行動分析」をあわせたものが「ソーシャルスキルレーニング」になります。
まずは「ソーシャルスキル」の定義から。

1、観察可能な学習性のスキルであること
2、効果的な働きかけと応答から成り立ってること
3、親・教師・仲間からの社会的強化を最大に引き出すこと

「○○ができない」ということを「性格・素質・遺伝」と考えると「変えられないもの」となってしまう。でも、「人づきあいのコツを知らない」と捉え直すと、それは獲得できるものになる。で、そのコツを具体的に練習することで身につけることが可能になる。そういう考え方のようです。
で、身につけるための一連の流れを「ソーシャルスキルレーニング」というわけです。
その流れは
「アセスメント→ターゲットスキルの確定→SSTの実施→SSTの評価」
となり、さらに「SSTの実施」は
「インストラクション→モデリング→リハーサル・フィードバック→定着化と般化」
となります。ここで「モデリング」と「強化(フィードバック)」が出てくるわけです。
アセスメントでは、実際の行動を観察して、不足しているスキルを検討します。で、ターゲットになるスキルをピックアップして、そのターゲットスキルの「コツ」を検討します。その際気をつけることが
1、観察可能
2、第三者からも同じように観察可能
3、主観的ではなく具体的な言葉での記述
4、否定形ではなく肯定形
で、その「コツ」の中でも対象となった人間にふさわしいものをピックアップします。
「コツ」を伝える部分がSSTになります。センセはここで山本五十六の言葉を引用されました。
「やって見せ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ」
らしいです^^;;。
インストラクションは「言って聞かせて」らしいです。つまり「なにをするか、これをすればどういういいことがあるか」ってことを伝えるみたいです。この部分、わたしはあまり好きじゃないんです。でも、「宮崎大学派」は一連の流れをカッチリやるので、ここも重要視するとか。
で、モデリングは「やって見せ」。ここで「いい例とよくない例*1」をやる。
で…。
ここで本日はタイムアップでした^^;;。

*1:悪い例とは言わないらしい

「提示」と「表象」

今日のテーマは荻生徂徠の教育学です。
出発点は「しつけ」をめぐる話。
しつけ…。まぁ最近では「ぶちはたきがしつけか体罰か」みたいな矮小化された形で語られますが、たしかに「しつけ」って不思議です。だって、「間違い」を糾すだけで、その前に「正しさ」を言葉では伝えない。いや、伝えてるかもしれないですが、実像とはかけ離れている。で、違うときに「違う!」という。で、なにもなければ基本そのまま。
でも、「違う」と言われることの集積の中で子どもたちは学んでいく。それを「習熟」っていうみたいです。「習熟」って、「習熟度授業」みたいに使われて、学力基準によるクラスわけみたいに使われますけど、たぶん本来の「習熟」の意味は「身につける」=「身体化する」みたいなことだったんじゃないかと。

そう考えた時、「あ、でも計算って習熟するべきものなんじゃないかな」って思いました。
子どもたちは「計算」でてんやわんやになるんですけど、あんなもんは作業でしかない。本当に必要なのは「解へといたる道の入り口に立つこと」だと、わたしは思ってます。
よく子どもたちは「長〜い解答」を見ると「難しそう」って言うんですけど、難しいかどうかは、その長〜い解答の最初の一行なんですよね。

てのはおいといて…。
で、徂徠は
「過剰に語ることはない。すべては文字に書いてある」
ってやっちゃいます。これ、闇斎の講釈への批判です。闇斎は、講釈を通して、事細かに指示をする。そこに解釈の自由はないわけです。に対して、徂徠は講釈をしない。すなわち解釈の自由がある。
このあたりのことを、センセは「提示(presentation)」と「表象・代表的提示(representation)」という形で示してくださいました。
事細かに支持を出し、反復によって模倣するのが「提示」。に対して、「例」→「バリエーション」みたいなのが「表象」です。当然、闇斎は前者で、徂徠は後者です。
でも、ここで徂徠はズルい手(笑)を使います。つまり、シカケを使ってその自由を制限する。そのシカケは「書物の権威」を持ち出すところにあります。
さらに徂徠はこうした「学び方」は武士にしか要求しなかった。で、「愚民^^;;*1」は日常生活を通して習熟を重ねればいい。逆に言うなら、日常生活を通して習熟を重ね、よりよい生活へと導けるような政治を「よい政治」とした。

ここでまた、「あ!」って思いました。
これって、クラス経営か(笑)?
「愚民」を「生徒」に置き換え*2、「政治」を「学級経営」に置き換えると
「生徒は日常生活を通して習熟を重ね、そのことでよりよい生活へと導けるのがよい学級経営」
うーん。かなりビミョーです^^;;。

でも、教育って、たぶん「提示」と「表象」の間を行ったり来たりするんじゃないかなぁ。
「模倣」を繰り返し習熟することで、それそのものが「表象」として「例示」するものへと突然変異を起こす。その時、次のステージへと進化し、またそこで「模倣」を繰り返し習熟する。
なんか、「提示」「表象」の解釈とは違うのかもしれないけど、そんな気がします。
で、「表象」には自由さがつきまとうんですけど、それを制限するシカケがある。やはりそれは「権威」なんでしょうね。その権威は、例えばかつては「学校」であったり「教「師」」であったりした。いまはそんなもんの権威は地に落ちてるというか、地に落とされてるというか、ま、そんな状況ですが、やはりそれでも「教科書」というメディアであったり、「教「員」」であったりするわけです。
シカケっていうのは、それがまるわかりになるとシカケではなくなります。
おそらくは「うまい教員」っていうのは、うまく「シカケる」人なのかな。

*1:って著者が書いてた

*2:別に「生徒」=「愚民」と言っているわけではないです

で、夕方からおべんきょ。
今日の内容は「認知行動療法」。最後はパニック障害の治療法までやっちゃうっていう、とても実践的な内容でした。

そもそも、ある出来事があって、それに対して感情がわきおこるわけなんですが、そこはストレートにつながっているわけではないというところが今日のスタートです。
なぜなら、ある悪い出来事があったとしても、「落ちやすい人」と「落ちにくい人」がいるからです。そこで、出来事と感情の間に「信念(belief)」があるとしたのが「エリスさん*1」みたいです。
とても簡単に言うと、エリスさんは、「落ち方向」に行く原因を「信念」が不合理な方に行くところに求めて、その「不合理な信念」に対して「論駁」することで「合理的な信念」に気づかせようとしたとか。なかなかハードです(笑)。

で、もうひとり、「ベックさん」は、その「信念」の部分を「自動思考(自然にわきおこってくる心の中の声)」と、そういう「自動思考」の背後にある「スキーマ(考えの傾向)」にわけて考えて、両方あわせて「認知」ってしました。
で、認知療法はベックさんの考えの延長にあって、「認知」全体を変える方法を考えた。ま、最近は「スキーマ」はきついので「自動思考」を変える方向でやるみたいですけど。
で、その方法として紹介されたのが「カラム法」。
「出来事」「それに対する感情」「結果としての考え」「その考えとは別の考え」「別の考えによって感情はどうなったか」というのを表にして、具体的に「別の考え」があることを実感し、身につける方法みたいです。

で、こうした認知療法と、パブロフなんかがやった「古典的行動分析」がくっついて、「認知行動療法」が出てきた。
認知行動療法の基礎的なモデルは、ある「環境」にとりまかれた時、「認知」「行動」「感情」「身体」がたがいに関連して動くってことみたいです。
で、その一例として「パニック障害」がとりあげられました。

今日紹介された治療の場合、中心となるのは「段階的エクスポージャー」と「カラム法」です。つまり「不安を取り除き」「より合理的で現実的な考え方を身につける」ってことですか。
ただ、エクスポージャーって、簡単に言うなら「慣れ」です。パニック障害起こしてる人間を、パニック起こしそうなところに連れて行って慣れさすんですから、まぁたいへんっちゃあたいへんです。なので、その前段階として、ラポールだの、治療方針の説明だの、「怖さの一覧表」をつくるだの、いろんなことをします。

しかし、完全に心理屋さんの世界になってきましたよ^^;;。でも、知っておくのは悪くないですよね(^^)

*1:どこかで聞いたなとずっと思ってたんですけど、「舞姫」か(笑)。