教育は娯楽的メディアに本当に敗北したのか?

半年間の楽しいおべんきょも、今日で最終です。
今日のテーマは大きくは3つ。ひとつは「子育て」をめぐる話。もうひとつは「学校と社会の教育力の関係」をめぐる話。そして最後は「マスメディアと学校」をめぐる話。それに「プロローグ」と「エピローグ」がついてるって感じです。
プロローグの部分は近世の教育と近代の教育のあり方の比較です。近代の教育は日本の近代化のための国家の設計による国民教育制度であるということ。そこでは、子どもたちが「何を学びたいか」がメインとなるのではなく、教える側が「なにを教えなくてはならないか」がメインになる。つまり、「教える側の論理」で教育が運営される。それに対して、近世の教育は、どこの誰からいつ何を学ぶかということはもちろん、学ぶ/学ばないまでもが選択の中にある。すなわち、「学ぶ側の論理」であった。
そういう時代背景をふまえて、まずは「子育てを誰が担うのか」という話が出てきます。で、「親が担わなければならない」のは近代以降のことであって近世では「生みの親」以外に「名づけ親」など、さまざまな「親」が存在し、さらに「子守」のように大人以外も子育てに参加していた。つまり、地域が総がかりで子育てをしていた。そのことにメリットがあるのではないかという問題提起です。で、近代においても地域の教育力みたいなものをもっと使わないといけないのではないか。学校はそのための「ハブ」的要素になる必要があるのではないかという問題提起がされています。
一方、近代の学校はあまりにも多くのものごとを抱えさせられている。なので、地域からの学校支援体制が必要なのではないかという問題提起が二点目の論点です。
で、最後の論点が商業的マスメディアの蔓延により、いまや学校は転換点を迎えているのではないかということです。端的に言うならば、学校というメディアは商業的メディアの前で敗北を喫していると。そこから、近代の学校はそのありようを大きく変える必要に迫られているという問題提起です。
で、「エピローグ」の部分は、学校における教育のみを教育とするのではなく、生涯学習へという感じですか。

まぁ、こうやって書くと、すでにいくども論じられた「いまさら感」ただよう話になるのですが、近世の教育との比較の中で論じられているので、なかなかおもしろいです。

が…^^;;。
やはり、どことなくむず痒いものがあります。
例えば、子育てのことひとつとっても、近世と近代の社会のありようの違いみたいなことをかなりすっ飛ばしているかなと。
たしかに近世では地域全体で子育てをしていたかもしれませんが、その前提として、居住地の移動の自由の問題があるのではないかと思います。A地域で生まれて、B地域に引っ越して、C地域の学校に通って…。なんてことが当たり前の世の中で、子育てを地域ぐるみで行うのはとてもむずかしい。
同じようなことは学校支援体制についても言えることです。だれが支援体制を呼びかけコーディネートするのか。いどうか緩やかな地域であれば、まだ比較的実現可能性は高いかもしれませんが、出入りがひんぱんな所では、たとえつくったとしても継承できるのか。学校の教員が継承?いや、それは支援ではなく仕事増=負担になります。また、教員も転勤をするので、継承は困難。
つまり、近世においては、生活が地域に縛られている不自由さと引き換えに、そうしたものがつくれた。近代は、地域と人間を切り離すことで自由を獲得し、それと引き換えに地域となつながりを失った。そんなものの考え方ができるのかもしれません。

ところで、もうひとつ。商業的マスメディアに学校は果たして敗北しているのか。
たしかに情報コントロールを学校が担えるかというと、すでにそれは不可能になっています。また、商業的マスメディアと学校というメディアの不親和性も言わずもがなです。
しかし、それをもって敗北と言えるのか。
おべんきょ仲間から
「近世の人は、勉強したからといって百姓が武士になれたわけではない。にもかかわらず、なぜ勉強したんだろうと、半年思い続けてきました」
という発言がありました。
まさにそれ!です。
「○○のために」ではない学びをする子どもたちはいまもいます。そこがこのペーパーの著者の観点からは欠落しているように思われてしかたがありません。
わからないならわからないなりに、それでもニコニコと数学の授業を受け、ときに解けた時にうれしそうに、誇らしげに○つける子どもの姿は、商業的マスメディアへの敗北とは対象的なところにあるような気がしてならないのです。

そんなことを感じながら、半年間のおべんきょが終了しました。

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