連続と不連続

今日のテーマは、すごく簡単に言うなら、「江戸時代の眼差しで近代を見る」っていうことでした。
従来の教育学という教育史というか、そういうのって、「起源は明治」「欧米型の教育が入ってきた時を起点として考える」みたいなとらえ方でした。それに対して、今やっているメディア論は江戸時代の教育の再評価というか、近代の教育のありようは江戸時代からの連続性の中にあるという観点が通奏低音として流れています。
で、その時に大切な観点は「今」から江戸時代を見るのではなく、江戸時代の眼差しで江戸時代を見、さらには江戸時代の「次の時代」を見ることであるとしています。
なぜなら、「今、ここ」にいる人間にとっては、「未来」は「今」の眼差しでしか見ることができない。それに対して、近代の教育の起源を「明治」ととらえる観点は、「未来」から「今」を見る見方である。で、そうではなくて、江戸時代からの明治時代への移行をとらえようとするならば、明治時代(未来)を江戸時代(今)の眼差しでとらえないとわからないということなんですね。
で、そうやってとらえると、江戸時代からの連続性の中に近代の教育はあるし、近代の教育のありようを考えるためには江戸時代にさかのぼらないといけないということになります。
ただ、この本、常に「現代はメディア革命の時期で、教育のありようが根底から揺さぶられている時代なんだ」っていうのが出てくるんですけど、それはどうかなと。
まぁ、今日の論議はそのあたりを中心に進みました。というか、進めました(笑)。

なんというか。
常に「今」って激動期であり転換期な気がします。それは、10年前の「今」がかつてそうであり、10年後の「今」もきっとそうであろうという意味で、です。そして、激動期・転換期は、常に「ここが不連続点なんだ」という主張とつながります。
でも、わたしは「歴史は連続と不連続を併せ持ちながら進行していく」んじゃないかなと思うのです。そして、その連続と不連続の間には「きしみ」がある。そのきしみをもって「転換点」との主張がされる。でも、それはいつだってある。

こういう話に対して、「「不連続」という主張がなされる時、きっとそこには「そこを不連続」ととらえる「意図」がある。実は注目すべきことはそこなんじゃないか」という指摘がセンセからありました。
これ、すごく納得します。
「誰が、どのタイミングで、なにを不連続というか」ということへの問いかけこそが大切である。でも、ついついそれを忘れてしまう。

そうそう。
わたしがこういうものの考え方というかとらえ方というか、そういうことができるようになったのは、まぎれもなく「部落史の見直し」に触れたからなんですね。
例えば、敗戦前後の連続(行政や経済構造・政治構造)と不連続(一部の法律)。あるいは明治維新期の連続(民衆の意識)と不連続(支配体制や社会構造・経済構造)。その中で部落はどのような眼差しで見られてきたのか、あるいは地区改善への意欲はどうであったか。そんなことを考えるきっかけをもらいました。
まさに、歴史に触れることによって歴史のとらえ方が変わり、そのことがものの見方の変化へとつながったわけです。

もう一つの論点は「稽古と反復練習の違い」でした。
おそらく「反復練習」は練習課題の習得のためにやるのですが、意図は明確であり、練習する側も「意識化された課題をより早く正確に」するためにやる。
ところが「稽古」は、練習課題が明確なのかどうなのか。もちろん「内容」は明確なのですが、なぜやるのかというと「身につける」ため。じゃ、「身につける」って?おそらくそれは「身につける」としか言いようがない。あるいは「行為を身体化する」。「稽古」って、「なぜこれをするのか」を超えたところにある。
で、そういう方法って、あるんだけど、学校の中ではカリキュラム上にはあらわれない。つまり「表のカリキュラム」の不連続と「隠れたカリュラム」の連続があり、そういう意味では、近代以降の教育のありようは、その「きしみ」の中にあった/あると考えることができる。

で、その「きしみ」の中からもうひとつのテーマ、「学力観の転換」が出てきます。
不連続点には「価値観の転換」みたいなのがあって、教育をめぐる価値観の転換は、「学力観の転換」につながるように思います。
ただ、これ、「連続・不連続」の話と通じるわけですが、「誰がいつどのタイミングでなにを不連続というか」と密接にかかわっています。
そういう意味では、「今」、「学力観の転換」が叫ばれているのですが、果たして今は「不連続」なのか「連続」なのか。「不連続」であるならその中身はなんなのか。そして「不連続と連続が同居」しているなら、なにが連続しておりなにが不連続なのかを今一度見つめ直さないと、「誰か」の意図に乗せられてしまうことになってしまう。
そんなことでしたかねぇ。

おべんきょの前は疲れてたんですけど、おべんきょが終わったら、妙に元気になってましたとさ(笑)。

研究者って人間だなぁ

今日のテーマは「古典的条件づけ」です。「レスポンデント条件づけ」ともいいます。
すごく簡単に言うと、「パブロフの犬」の話です。
これまでの話は「オペラント条件づけ」といわれるもので、スキナーが考え出したもので、スキナー以前という意味で「古典的」と言われています。
レスポンデントとオペラントを比較すると、前者は「先行刺激によって反応が生じる」「生物学的基礎を持つ反応」「対提示(餌とベルみたいなペア)」がキーワードになるのに、後者は「結果事象によって増減する」「強化経験によって獲得」「行動と強化の随伴性」がキーワードになります。
つまり、レスポンデント条件づけは、いわゆる「条件反射」なわけで、ベースになっているのは「無条件反射」なわけです。
で、行動療法のおもしろいところは「一定の法則で関連づけられたものは消去できる」ってことです。
これが発揮されるのは、「恐怖症」の治療みたいです。
恐怖症は、元来恐怖を感じないもの(中性刺激)に対して「無条件刺激(無条件反射を起こさせるもの)」がセットになることで(対提示)、元来「無条件反応」だったものが、「中性刺激→条件刺激」となり「無条件反応→条件反応」と関連づけられることにより起こります。
なので、それを消去(レスポンデント消去)すればいいということのようです。
で、消去の方法はめっちゃ簡単で、「段階を追って慣れさせる」です(笑)。
なーんだって結論なんですけど、でも、経験的に正しさを感じるのではなく、理論的にそれが正しいと言えるっていうことこそが「治療」につながり、そのことによって治療が「よりよい方法の模索」へといくわけですから、やはり意味があるんでしょうね。

にしても、ところどころではさまれるエピソードが…。
生後11ヶ月の「アルバートくん」にレスポンデント条件づけの実験をしてすごい成果をおさめた「ワトソンさん」は、助手と不倫して大学をクビになったとか、とある心理学者は自分の子どもが生まれた時に、ついレスポンデント条件づけの実験をしてしまったとか。
ま、研究者って、あまりにも人間なわけです(笑)。

「今」とはいつで、「日本」とはどこか

で、夜はいつものおべんきょです。
今日の内容は「日本教育史の成立」をめぐる話でした。
もともと日本において、教育学の一ジャンルとしての教育史はなんのためにあったかというと、教職者に「よい教育の伝達」としての必要性があった。なので、教職課程のひとつとして、文部省が必要としていた。で、当時(明治期)の教育史は、江戸期を切り離し、西洋から輸入されたものを「正式な教育」ととらえ、それを認定していた。
ところが、大正期に入って、江戸期に注目する教育学者が登場してくる。ペーパーにはその代表として3人とりあげられました。
で、それぞれに主張は違ったり対抗したりするんですけど、おそらくはナショナリズムみたいなものがあったのではないかと。それは、例えば「日本の教育の本質は教育への情熱で、それは江戸期にすでに見られていた」とか、「明治維新から半世紀にも満たない短期間で欧米諸国をうわまわる教育制度をつくり実現したことを考えると、西洋の教育の輸入だけでは論じられなくて、江戸期(寺子屋)に遡らなくちゃならない」みたいな主張が出てくるわけです。
で、筆者は、近代から近世を見つめるのではなく、近世の目で近世や近代を見つめる必要があるみたいなことを提起して、とりあえず終わったわけですが…。

たぶんこれって、いつの時代も同じことがあるんだろなと。制度改革をしたものは、「これこそが正しい」「これを正史とする」みたいなことを考えてしまう。でも、時代が過ぎていく中で、歴史の重層性みたいなものに着目して「もっと遡らなくちゃ」みたいな論議が出てくる。部落史の見直しも同じ論議ですよね。
ま、そんなことを考えてました。

で、センセからの提起は「では、いま、みなさんが「今の日本の教育」という時の「今」とはいつのことで「日本」とは何を指しているのか」でした。

はじめは、おべんきょ仲間からの「今の日本の教育といった時、受験偏重へと舵を切って以降」みたいな話からスタートして、例えば、「キャリア教育をしろといわれるけどそんなんできない」みたいな話が出てきました。
で、わたし、困っちゃいました。というのは、例えば京都の高校だけを考えても「学校」とか「教育」という一括にはできない多様性がある。例えば、キャリア教育は特別支援学校ではやっているわけです。でも、そんなもの、みんな知らない。なぜなら、特殊である。あるいは伝達する価値のないものとして、知らされていないからですよね。
で、「知らされていない人」って、そういう非常に限られた情報の中にいるのに、あたかも「知っている」かのような錯覚に陥らされている。
それは、教育再生実行会議も同じですよね。てか、より性が悪いです。
それと「今」と言った時、ひとつはまさに「昨日今日のレベルでの今」なんだけだ、もうひとつは教員として働いてきた29年間の「流れ」を今と捉える。まぁ、そんなことを考えていました。

あと、「教育」と言った時、その範囲はどこで誰が担うのかという問題もある。
例えば、高校進学率がさほど高くない時は「学校」を通過しなくても職につくことができた。で、そういう子どもたちの教育はおおざっぱな意味での「社会」が担っていた。ところが、98%あたりになると、「学校」を通過しないと職につけなくなった。すると、「教育」は学校にのみ押し付けられる、社会は関与しなくなる。しかし、学校をコントロールしたい勢力はあるわけで、必然的に素人が自分が責任を追わない形でコントロールすることになる。
あと「なぜ社会への関心を失っていくのか」みたいな問題提起がセンセからされて。
そこで、センセが紹介してくれたのがハンナ・アーレントでした。privateの語源は「なにかを失った状態」をあらわし、その「なにか」とは、「他者から関心を持ってもらうこと」である。で、privateが居心地のいい人は他者から関心を持ってもらわなくてもやっていける人であり、そういう人は強者である。でも、強者が権力を持つ限り、privateな社会へと移行するし、そこで格差は拡大していく。
そう言えば、「組合」って、privateとは真逆の存在です。で、この「組合」ってものの存在は法律によって保障された労働者の権利なんですよね。これ、厚生労働省が作成している労働者の権利にかかわるパンフレットにも書いてあります。でも、privateの広がりの中で、労働者自身が「組合」へと拒否感を持ってしまっている。なーんてことも、ふと思いました。
まぁ、そんなあたりまで話が広がって、さらに大阪市の小学校教員から大阪市の赤裸々な実態が話されて、なかなか「今」につながる話がてんこ盛りのひとときでした。

今日の内容は「行動の記録」についてでした。
ターゲットにする行動のありようによって、「単純に頻度を測る」「秒に区切ってそのインターバルの間に行動があれば一回とカウントする」「分単位でカウントする」。あるいは「行動の持続時間を測る」「行動がはじまるまでの時間を測る」など、さまざまな計測方法があります。
あと、常についてまわるのが信頼性と妥当性です。とりわけ信頼性をあげるために、どの計測方法を選択するのかということと同時に、ターゲットとする行動の定義を厳密にしていく必要があります。
で、実際にインターバル法である行動の回数をカウントしてみたのですが、おべんきょ仲間と比べっこすると、案外あわないもんなんですね。
おべんきょの中ですらこんなんですから、実際の観察の現場では、当然あわせるのはもっと困難みたいです。基本的には一人では信頼性に問題があるので、二人ペアでやるみたいなんですけど、観察する人は相当訓練を積んで観察に臨むみたいです。
てことで今日の内容はおしまいなんですが…。

「思想」を誰のものとするのか

今日は「石田梅岩」と「石門心学」が題材でした。とはいえ、石田梅岩の「思想」がテーマではなく「伝え方」がテーマでした。
そもそも儒教というか朱子学というか、そういうのって「読む」ことからはじまります。はじめは意味がわからなくてもとにかく読む。そして、言葉を身体化させて、思考の言葉を身につけていく。で、そうやって身につけた儒教の話をやりとりできる相手は、同じ言語を身につけた人なわけです。であるからこそ「素読」からはじまる儒教の習得の仕方が決められていた。
ところが、石田梅岩は、メインストリー厶の儒学の勉強をしていないんですね。でも、「体得」してしまった。体得してしまったけど、メインストリームの儒者からはぜんぜん相手にされない。でも、体得した限りは「伝えたい」と思う。で、「一番伝えなくてはならないのは?」って考えた時、それは儒者ではなく一般大衆であると考えます。一般大衆とは、例えば「第一次産業ではないがゆえに差別されていた商人」であり、あるいは「女性」であるわけです。そういう人たちに伝えるためには「文字」ではなく「講話」のほうが伝えやすいわけです。
そこから、「いかに伝えるか」という試行錯誤がはじまり、やがてそれは「道話」という石門心学の「伝え方」へと結実していきます。
それまでの儒教との一番大きな違いは、「Mass・rogue」であること。それまでは「Dialog」、すなわち一対一で「思想」を師匠から弟子へと伝えていたのを、大人数を相手にした伝え方へと変わっていくわけです。
そこで例えば、「高座」みたいなものを用いることで劇場的要素を取り入れる。あるいは日常の言葉を使う。普通に起こる出来事を取り入れる。オノマトペを取り入れる。そうすることで、梅岩の思想は大衆に広がっていきました。
で、従来の思想史の考え方としては、梅岩はまぁいいとして、弟子たちは梅岩の思想をどんどん薄めていったと捉えられていたんだけど、そうではなくて、そういう「伝え方」をとったことそのものを評価すべきではないかという問題提起でした。

で、これを読んだわたしは大爆笑です。
まさにわたしが「お座敷」でやっていることそのままです。わたしの「お座敷」は劇場的でありパフォーマティブであると、わたし自身は思っています。そしてそれは、わたしの数学の授業にもあてはまります。

でも、ふと考えます。それは前回のテーマとも重なりますが、「批判的であることを身に着けていない人に「わかりやすく」伝えた時、学問としては死ぬ」ってことです。
「上手な伝え方」は、そのまま下手すると「洗脳」あるいはそこまではいかないまでも「だまし」につながってしまう。
じゃあ、そうではなく「自ら深めよう」とする伝え方との差はなにかというと、やはり「批判の芽をつまない」というところかなと思いました。そのためにはどうするか。そこで、「学びへの参加」が大切になるんじゃないかなと思うのです。
「参加」というと、つい「アクティビティ」と捉えられがちだけど、身体は止まっていても、心や頭が活動する「参加」ってある気がします。
つまり「正しいことをうまく教えるために伝える」のではなく「学びへの誘い」としての「伝える」です。たぶん、そういうことが必要だし、そういう「伝え方」を広げていくことが、社会全体が「洗脳」「だまし」に向かいつつある今、そういう流れに抗う一つの方法なんじゃないかな。そんなことを考えました。

で、とって返して

で、おべんきょ場所へ移動、行動分析のおべんきょです。
いままでは「行動の理論」についてやってきましたが、ここからは実践編になるみたいで、今日は「観察」についてでした。
最初に駐車場でぐずる子どもの映像を見せてもらったんですが、これはえぐいわ。にもかかわらず、おかぁちゃん、
「やれやれ^^;;」
って表情。慣れた感じです。なんでも、行動分析を知ってる人らしいです。なるほど、まさに「実践知」って感じですね。
で、今日のテーマは、その子をどう見るかってことです。
最初にすべきことは、ターゲットになる行動(回数を減らしたい行動)を決めるってことです。
で、どんな行動がターゲットになりうるかというと…。
自他に迷惑をかける・自他に危険を及ぼす・非行につながるなど、ま、困る行動ですね。それを「ひとつ」決める。そしてそれを、分析的に見られるように具体化する。
例えば、「暴れる」じゃなくて、「人を叩く」みたいに。かつ、観察可能であり、回数や時間がカウントでき、客観的であるように具体化する。
そうそう。大切なのは、「○○しない」だけじゃなくて、かわりとなる「適切な行動」を決めることのようです。
そんなことを教えてもらって、再び駐車場のグズりを見ると、あら不思議。いろんなことが気になりはじめます。つまり、おそらくはそれなりにではあるにしろ、「分析的に」見るようになっているんでしょうね。
で、今日は、とりあえず自由に観察して、ターゲットになる行動を考えるあたりで終了でした。

しかし、例えば授業中の私語に対して「生徒同士の私語」を減らして「授業への参加としての発言」を増やすなんてことはいつもやっていることなんですけど、ほんとにそのことを理論的にバックアップしてもらったというか、逆に自分が漠然とやってきたことをもう少し理論立ててできることにより、より効果的にできるようになるきっかけやなぁという気がしました。

なにを選び、どう伝えるのか

今日のネタは、日本における朱子学の系譜みたいな話でした。
ペーパーを一読して、まず感じたのは「ふーん」でした。つまり「系譜」ってのをそれだけで捉えると「ふーん、そーなん」な話なんです。でも、「系譜」っていうのは、実は「解釈の試行錯誤」とか「葛藤」とか、まぁ、学問の学問たる所以というか、その軌跡とでもいうものかな。とてもダイナミックで、まさに、それぞれの人が自分の存在をかけて打ち込む姿が浮かびあがるわけです。
ところが、今日の話で言うなら、そこに幕府(政治権力ですね)が絡み、中国の科挙とまではいかないまでも、「武士のたしなみ」みたいなものがうまれ、やがてそれが「正当な朱子学」みたいなものがうまれる。そして、それが印刷技術の発展により、それが一般民衆に広まっていく。一般民衆はそれを正当なものとして受け入れていく。そんな中で、「学問」としての瑞々しさとかドロドロさとか、そういうものが失われてしまい、やがては朱子学儒教をよりよく理解しようと苦心惨憺して書かれた渾身の本が「試験のための参考書」とか「朱子学のノウハウ本」に成り下がっていく。
ま、そんなあたりの話でした。

でも、これって、考えようによっては、今もまったく同じだったりしますよね。で、そのあたりが今日の論議のテーマでした。

まぁ簡単に言うならば「教科書を教える」のか「教科書で教えるのか」ということ。それから「(教科として)なにを教えるのか」という、選択の問題。そして、それをどう「評価する」のかということ。
そう言えば、小中では「主要5教科」とか「副教科」なんていいまわしがありますよね。高校ではそういう言い方はしませんけど。で、例えば、数学なんかは「主要5教科」に入っているんですけど、常々
「なんでだろう」
と思ってきました。
一般には「読み・書き・そろばん」ってところにその根拠を求めたりもするのですが、「そろばん」と「数学」はまったく異なるもので、どちらかというと数学は「ゲージツ」に近いんじゃないかと思っています。にもかかわらず、「主要5教科」…。
で、ふと思いついたのは「主要5教科の共通点は座学であること」ではないかと。で、座学の特徴は「大人数を同時に効率よく教えることが可能な教科」であるということ。ってことは…。「主要5教科に何を選ぶかという、選択の根拠はコストではないか」ってことなんです。ま、単なる思いつきなので、それが正しいかどうかは別なんですけど、「読み・書き・そろばん」なんていうのは「あとづけの理由」って可能性もあるよなって話なんです。

で、もうひとつは「観点別評価のわけわからなさ」みたいなあたりです。もうええやろと。わたしになにが評価できるねんと。「意欲」を測るものさしはなんだと。「関心」は?「態度」は?んなもん、測れないよと。てか、わたしに「測る資格」なんてないよと。
じゃ、わたしは何を測るのか。わたしにできるのは「与えた数学の問題に対する解答能力」のみであると。だからこそ「余計なものは取っ払って純粋に点数だけで」というふうに考えるのです。
で、これをベースにして、でも、クラスの状況なんかでそこに味つけをする。

ここで、体育のおべんきょ仲間とプチバトルしました(笑)。
「体育とスポーツは違う」。
「スポーツ」は「勝つ」ことに重きを置くけど、「体育」は「知・徳・体」を総合的に学ぶ「教科」であるということです。なるほど。で、「知」に重きを置くわけではなく、例えば、「徳」の側面からも「評価」するも。
そういう意味では、わたしの数学の評価のしかたは、たぶんに「スポーツ的」なんだと思います。
ちなみに、バトルの内容は「評価の中身(なかよくしたら評価が高いとか)」にかかわることで、そのあたりは「ムニャムニャやなぁ」と思っていまして。
「いや、ヘイトスピーチやってるヤツらには「なかよくしよう」って言いますけど、職場になかよしがいないわたしは評価低いですよね(笑)」
みたいな。
このあたり「効率のよい主要(笑)5教科」と「そうではない教科」との違い、あるいは小学校と高校の評価のありようの違いなど、いろんな違いがあるでしょうから、まぁ、評価は可能かもしれません。わかりませんが…。

そうそう。もうひとつ思ったことは…。
ひとつの学問というか領域がメディアによって「わかりやすさ」を獲得することの怖さですね。そこにどんな意図が働くのか。あるいは批判的な見方を身に着けていない人がそれを見た時、あるいはその学問が「わかりやすさ」を身につけた時、学問として死んでいくということ。これまた、巷に溢れかえっているよなぁと。
そんなことを考えた1時間半でした。

日常を分析的にフィードバックする

今日のおべんきょは「シェイピング」と「チェイニング」です。
まずは「シェイピング」。
これは、やったことがない行動を身につけさせたり、忘れていた行動を回復させたりする方法です。「少しずつ行動を近づけ」ながら、「特定の行動のみ強化する」。ま、簡単に言うなら、いろんな行動をやらせて、最初は「遠い」けど「まぁ…近いか」みたいなのをとりあえずほめておいて、そのうち段々近いのだけをほめて、特定の身につけさせようとする行動へと誘導していくって感じですか。
で、「チェイニング」は、「ひとつの行動は細かい行動の連鎖で成り立っている」ってことです。逆に言えば、「ある行動ができない」ということはすべてができないのではなく、「あるステップのみ(複数かもしれないけど)」ができないだけであると考える。すると、その行動ができるようにすれば、全体ができるようになる。
で、チェイニングを身に着けさせるための方法として「順行チェイニング」「逆行チェイニング」「全課題提示型」がある。
「順行チェイニング」は、チェイニングの順を追うので、わかりやすいんだけど、結果が遠いので「見通しがたたない子」には厳しい。に対して、「逆行チェイニング」は結果の提示が伴うので、「見通しのたたない子」にも優しい。けど、プログラミングをしないといけない。
で、「全課題提示型」は、普通の授業の感じ。ただ、当然できない子がいるわけで、「プロンプト(口頭のヒント)」や「ガイダンス(身体的な手助け)」を使ってサポートしながら、少しずつサポートを少なくしていく。
で、「チェイニング」の一部ができないときは、「プロンプト→ガイダンス」の順に試していって、それでもダメなときは「シェイピング」で身につけさせる。

なーんてことをやったんですが…。
ほんと、普段の授業やスキーのインストラクションでやっていることそのままなんですよね。
ひとつの問題をいくつかのステップに分析して、それらのどこでつまづくかを予想して、適宜プロンプトを入れて、できない子については一緒に解いて。あとは宿題には解答をつけて、穴埋めにしてみたいな。全課題提示型と逆行チェイニングの混合型。
あるいは、答えは出せるけどどうやって出しているのかわからなかったり、途中のステップが書けない子がいたりもします。そんな子にとって、逆行チェイニングは有用でしょうね。
逆に言うならそういう手間をかけると、定着することが、行動分析の側面から言えるってことですね。
いや、ほんとにおべんきょになりましたよo(^^)o

テキストを身体化する

今日のおべんきょのテーマは「素読」ってやつでした。
とにかく声に出して覚える。完璧に覚える。意味なんてどうでもいいから覚える。そういう学習方法だそうです。
で、なぜそんなことをするのか。
おそらくは江戸期の儒学者にとって、漢文は外国語であると同時に「思考のための言語」「論議のための言語」であった。そういう言語を後天的に習得するためには、とにかく声に出して、リズムとともに覚え、身体化させる。そうしないと「言語」とはならない。なので、近世の儒学者はそういう方法で身につけていったようです。
で、現在も「素読」はあるんですけど、随分と意味が変質しているんじゃないかっていうあたりが、今日の論議の内容でした。
でも、今の素読も、おそらくは同じような意味はあると思うんですよね。というのは、意味はわからずとも、「そのリズム」で、とにかく読むことによって「その世界」が伝わってくる。例えば「平家物語」と「枕草子」。文字を追い声に出すことで「その時代・文化的背景」さらには「その世界」が目の前に広がる。
ただ問題は「よいリズム」で素読ができない。伝える側も「よいリズム」を知らない。そこに問題がある気がしました。

で、さらに論議は「いま、教員として何を伝えようとしているのか」ってところに行きました。

で、わたしの答は「世界の見方」でした。

おそらくわたしにとっての数学は、「わたし自身」なんでしょうね。そういう「数学が身体化された人間」が見ている世界の見え方を伝えるのがわたしの仕事かなぁと思っているんです。
もしかしたら、子どもたちにとって「いつきちゃん、なんでそんなふうに思うの?」ってなることはよくあるんじゃないかと思うのです。もちろん、トランスであることや、さまざまな人との出会い、あるいは育ち方など、要因は複雑に絡みあっているでしょうけど、少なくとも数学教員としては、「数学」という側面からそのわたしの世界観を伝えることで、「世界の見方の一方法」を伝えているのかなと、ふと思いました。

こわさ

今日のおべんきょのテーマは先行子操作。簡単に言うと、行動を起こす前の状況を操作することで、結果としての行動をコントロールするということのようです。
これ、すごく簡単なことで、例えば
「禁煙しようと思っているけど、ついタバコに手を出してしまう」
みたいな時に
「タバコを見える範囲から外に出す」「タバコの買い置きをしない」
みたいなことで、少なくともタバコの本数を減らすことができるということです。つまり
「そこにあると手を伸ばしてしまう」
「買いに行くのがめんどくい」
みたいなことになるわけで、こういうのが先行子操作ってことです。
この先行子操作、行動の結果に対するものではないので、あらかじめ準備がしやすくて効果的。というより、「行動」って、ほとんどがこの原理に基づいているわけで、そんなこんなを組み合わせて行動をコントロールすることができると。
話を聞きながら感じたのは…。
行動分析って、すごくおもしろいけど、ある意味すごくこわいです。このこわさをどこで前に感じたかというと、そこでエスノメソドロジーですよ!会話分析。

でも考えてみると「分析する」っていうことそのものが、おもしろさと、その裏返しとしてのこわさを持っているんでしょうね。逆に言うなら、こわいと感じない分析は、分析としてはまだまだなのかな。
そんな気がしました。