「提示」と「表象」

今日のテーマは荻生徂徠の教育学です。
出発点は「しつけ」をめぐる話。
しつけ…。まぁ最近では「ぶちはたきがしつけか体罰か」みたいな矮小化された形で語られますが、たしかに「しつけ」って不思議です。だって、「間違い」を糾すだけで、その前に「正しさ」を言葉では伝えない。いや、伝えてるかもしれないですが、実像とはかけ離れている。で、違うときに「違う!」という。で、なにもなければ基本そのまま。
でも、「違う」と言われることの集積の中で子どもたちは学んでいく。それを「習熟」っていうみたいです。「習熟」って、「習熟度授業」みたいに使われて、学力基準によるクラスわけみたいに使われますけど、たぶん本来の「習熟」の意味は「身につける」=「身体化する」みたいなことだったんじゃないかと。

そう考えた時、「あ、でも計算って習熟するべきものなんじゃないかな」って思いました。
子どもたちは「計算」でてんやわんやになるんですけど、あんなもんは作業でしかない。本当に必要なのは「解へといたる道の入り口に立つこと」だと、わたしは思ってます。
よく子どもたちは「長〜い解答」を見ると「難しそう」って言うんですけど、難しいかどうかは、その長〜い解答の最初の一行なんですよね。

てのはおいといて…。
で、徂徠は
「過剰に語ることはない。すべては文字に書いてある」
ってやっちゃいます。これ、闇斎の講釈への批判です。闇斎は、講釈を通して、事細かに指示をする。そこに解釈の自由はないわけです。に対して、徂徠は講釈をしない。すなわち解釈の自由がある。
このあたりのことを、センセは「提示(presentation)」と「表象・代表的提示(representation)」という形で示してくださいました。
事細かに支持を出し、反復によって模倣するのが「提示」。に対して、「例」→「バリエーション」みたいなのが「表象」です。当然、闇斎は前者で、徂徠は後者です。
でも、ここで徂徠はズルい手(笑)を使います。つまり、シカケを使ってその自由を制限する。そのシカケは「書物の権威」を持ち出すところにあります。
さらに徂徠はこうした「学び方」は武士にしか要求しなかった。で、「愚民^^;;*1」は日常生活を通して習熟を重ねればいい。逆に言うなら、日常生活を通して習熟を重ね、よりよい生活へと導けるような政治を「よい政治」とした。

ここでまた、「あ!」って思いました。
これって、クラス経営か(笑)?
「愚民」を「生徒」に置き換え*2、「政治」を「学級経営」に置き換えると
「生徒は日常生活を通して習熟を重ね、そのことでよりよい生活へと導けるのがよい学級経営」
うーん。かなりビミョーです^^;;。

でも、教育って、たぶん「提示」と「表象」の間を行ったり来たりするんじゃないかなぁ。
「模倣」を繰り返し習熟することで、それそのものが「表象」として「例示」するものへと突然変異を起こす。その時、次のステージへと進化し、またそこで「模倣」を繰り返し習熟する。
なんか、「提示」「表象」の解釈とは違うのかもしれないけど、そんな気がします。
で、「表象」には自由さがつきまとうんですけど、それを制限するシカケがある。やはりそれは「権威」なんでしょうね。その権威は、例えばかつては「学校」であったり「教「師」」であったりした。いまはそんなもんの権威は地に落ちてるというか、地に落とされてるというか、ま、そんな状況ですが、やはりそれでも「教科書」というメディアであったり、「教「員」」であったりするわけです。
シカケっていうのは、それがまるわかりになるとシカケではなくなります。
おそらくは「うまい教員」っていうのは、うまく「シカケる」人なのかな。

*1:って著者が書いてた

*2:別に「生徒」=「愚民」と言っているわけではないです

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