選別装置としての高校

またまた新しい週がはじまってしまいました。まぁそれでも、昨日の夜は10時に寝たから、少しは楽かな。とはいえ、「趣味」であるとはいえ、やっぱり自分のための時間がほしいですね。ここしばらくの土日、そしてこれからしばらくの土日を見ると、自分のための時間がまったくありません。ほんとうにヤバいです。
それでもとにかく出勤。実は、仕事そのものは別にしんどいわけじゃないです。ただ、仕事も自分のための時間ではないから、やはりつらいです。
特に、山もオチも意味もなく1日が過ぎて、夜の仕事です。
今日は「高校における格差」ですが、まずはわたしからひとこと。
今、夜の仕事で伝えたいと思っていることは、子どもを通して、その背後にある社会を意識するってことです。教員って、ついつい「その子」を見てしまう。あることができたのは、その子が努力したから。できなかったのは、その子の努力が足りなかったから。そして、努力の如何にかかわらずできなかったとしたら、「障害」を疑う。常に着目しているのは「その子」です。でも、その子は1人で生きているわけではない。家族という社会や、その家族を取り巻く社会の中で生きている。だから、その影響を強く受けている。そういうことを踏まえて物事を考えてほしいんですよね。そしてもうひとつ。実は、わたしの学校経験を通して、わたしがいわゆる「高SES層」に属する家に生まれたことは伝えています。でも、そういう人だって、「庶民的な学校の教員」はできるし、人権教育もできる。教員の仕事は生まれに依拠しないってことです。
そんな話の後、発表してもらいました。今日の発表もうまいですね。やはり、発表って、最初にする人がいちばん大変だと思います。そういう意味では、みんなどんどんうまくなっていくだろうなぁ。
しかし、高校における格差は露骨です。SESと偏差値が見事な相関関係にあります。げんなりするけど、それが現実です。現実を直視するところからしか、次には進めない。
そんなことを考えながら、みんなでホワイトボードに書き書き。
おもしろいなと思ったのは、出身高校における進路ですね。「浪人が1/3」とかいう学校があります。わたしの勤務校では考えられません。だって、浪人してでも志望校に行きたいというのは、それなりの学力があったりお金があったり、さらには親がそれを戦略として選択することができるわけですからね。
そしてもうひとつおもしろかったのが、中学校と高校の「雰囲気」の違いです。例えば「高校は合唱コンクールをがんばる雰囲気だった」とか、「高校は冷たい感じだった」とか。あるいは「中学校は情に熱い感じだった」とか。行事をがんばるというのは、学校文化に親和的ってことなんですよね。そういう話をすると、「みんな学校が大好きだった」っていう答えが返ってきて、学生さんたちは納得されてました。さらに「情に熱い」についても「学校文化としてのタテマエ」に対して、対抗概念としての「ホンネ」が低SES層と親和性が高いんじゃないか」みたいな話を投げ込んでみました。
最後に、
「仮に今、小学校の同窓会があったとして、みなさんはどういう会話ができる?」
という話をすると、「あ…」みたいな表情をしている学生さんがおられて、まぁそういう選別装置として高校は機能してるんですよね。
てことで、最後は元気になって終了。と、デスクを見ると、プロジェクターのスイッチが入ったままみたいです。んー、鍵を取りに行くのはめんどくさいな。門衛さんにお願いしようかな。
ということで、学生さんと一緒に門衛さんのところに行って
「プロジェクターのスイッチが入ってるみたいなんです」
と話すと、はじめ「ん?」という感じだったので
「子牛控え室まで行くのがめんどくさくて」
というと、「あぁ」という感じで対応してもらえました。
えーと、もしかしたら学生さんと間違えれられた?

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