そうか、ヤツらも…

なんでも東京で働いている「ボリポン人*1」がこちらに帰ってきているとかで、集合がかかりました。
集合をかけたのは、暴走機関車です。集まったのは、T国流の核弾頭とか、KよぽんとかK淵さんとかOぎちゃんとかBんちゃんとか。まぁ、いつものメンバーというか、K野さんがいないだけというか…。ちなみに、暴走機関車からは店の予約とマダンセンターの予約を頼まれていて、もうこれは完全に「やる気満々」ということですね。
で、今回は単に集まったというだけじゃなくて、なにやら報告があるとか。聞いてみると、ふむ、めでたい話です。
よかったよかったと祝いながらも、どこかに一抹の寂しさがあることも確かです。パートナーができ、子どもができ、「守るもの」ができることは、もしかしたら人を成長させることかもしれません。でも、それと引き換えに置き去りにしてしまうものもまたあるような気がします。
わたしは…。
たぶん成長しそこねてるな(笑)。わたしがクズ人間であるゆえんです。でも、そのおかげで置き去りにしなかったものがある。
さて、どっちがいいんだろう…。なんてことは考えるまでもないことか…。
そんなことをぼんやり頭の片隅で考えながら、予想通りそのまま東九条へ。みんなで合宿です。
にしても、まだ余裕で帰れる時間だったのに、なんでわたしも一緒に合宿してるんだ?

*1:ボリビア生まれの日本人というか、ボリビアと日本の二重国籍というか…

肉体労働→ダラダラ

なんか、母親から実家の庭のいらなくなった木の根を起こしてほしいというリクエストがあったので、上の子どもと一緒に出動。
雨上がりのせいか、虫がやたら飛んでるし、湿度もけっこう高いようです。長袖を着なくちゃまずいけど、汗だくになるパターンです。
それでもけっこうサクサク進んで、二時間ばっかで終了。
いい汗かきました。
帰りに王将のギョウザと「もやしもん」を買って、上の子どもとプチパーティー。おいしいビールを飲んだあとは、「もやしもん」を読みながらダラダラ。
いい連休の一日目ですわ。

実験結果

この間
「やりたい」
と言っていた実験は、グループ学習のことでした。
テーマは一日目は円の方程式。二日目は円の接線の方程式。
円の方程式については定義を考えればすぐにわかるし、普段の授業なら10分で終わるところを40分かけてみようと。接線の方程式については、まともに導入すると面倒なところもあるけど、具体的に接線を書かせることで気づかせてみようと。
とにかく教えない。サジェスションとなるお題を与え続けることで、そこへ導いていく。
おそらく「導く」ところで邪道なんだろうけど、「理想的な学びの共同体」が目指すところではなく、考えることによって理解を深め、それをグループ内でシェアするところから全体の底上げをはかろうという「現実解」としてのグループ学習なので、まぁええやろと。
で、やってみての感想は…。
グループの設定が難しいのは予想していたのですが、予想通りでした。
とにかく学力差がはげしいし、数学苦手&低意欲な子が一定数いるので、それらの子が固まらないようにしなくちゃいけないのですが、そうするとグループ数が増える。さらに、全員が数学苦手だとにっちもさっちもいかなくなるので、そこそこ得意な子も割り振らなくちゃならない。ついでに言うと、得意な子も二種類いて、とにかくコツコツ勉強して点をとるタイプとセンスでとっていくタイプがいます。この手のことをしようとすると、やはり後者の子がほしい。
まぁ、狙いのところまでいったのは、半分以下ですね。
でも、子どもたちの感想を読んでいると、それなりに楽しんだ子もいるようだし、ガチでやりきった子もいたし、0点くらいはつけられるかなぁ…。

「問う力」による自己形成

この間、「木曜センセ」に、このブログ&エントリの存在をバラしちゃったしなぁ…。
まぁええか。
今回はいよいよ大詰め。自己形成にかかわる話です。
まずは、「問いの徹底性」という話。答えを求める問は、徹底性という要素を持ちようがありません。なぜなら答えが出た時点で終了だからです。しかし、「問い」そのものをつきつめていくと、「なにを」「どのように」「問うのか」ということは、徐々に意味をなさなくなるとのこと。
なぜなら

わたしは「xを」問う
→「わたしは「xを」問う」を問う
→「「わたしは「xを」問う」を問う」「わたし」を問う

と、問うことを進めていくと、問う内容はどんどん入れ子の中に入っていって、「問うことそのもの」や「問う主体」へと問う内容が移っていく。そして、その内容を深めていくことこそが、reflectionであると。
こうやって、自分自身を深めていくことこそが、自己形成であると。
ただ、このreflectionをするには、一定の「成熟」が必要とされる。自己形成が成熟を目指すものであるなら、トートロジーに陥ってしまいます。そこで必要なのが「教育」ですよ!
教育の果たす役割は、おそらくは「なにかを教える」ことではなく、その行為を通して、うしろからチョイと「自己形成という奈落(笑)」へと子どもたちを誘うことなのかな。
いや、なぜ「奈落」かというと、やっぱり「奈落」でしょう。だって、内省のない人生は、おそらくは自己肯定(≠自尊感情)と自己弁護の世界で、そこでは「わたしは絶対」な王国ですから。そこから「内省」へと踏み出すことは、一見、自己否定を伴うわけです。
まぁこのあたり、「批判と文句の違い」みたいな話と共通しているかな。
ただ、これだけではいけない。そこには「他者」の存在を必要とすると。
ただ、「他者」と言ってみたけど、実は、その他者は自己でもあると。「自即他、他即自」と。
あるいは、対話は必要なんだけど、対話は一般的には「dialogue」と捉えられるけど、「monologue」もまた「自己との対話」であると。
こうした営みは、学齢期に終わるものではなく、生涯続くものであると。
すなわち、「人間とは学ぶ動物である」と。そして、そこにこそ尊厳(自己肯定感や実感など)があると。
で、結びは
「問い→学び→尊厳」

うーん、今日はすごく格調が高かった。でも、フィナーレにふさわしい内容でした。ここまでの長い長いおべんきょ内容が、一本の道筋でつながった感覚がありました。
このあとカーテンコールが続きますが。

新システムの導入!

一年生の授業は「二次不等式」へと入っていきます。
一次不等式は一次方程式と同じように解けますが、二次方程式は、連立一次不等式の考え方を使うなり、グラフを使って考えるなり、なんしか導入のところでハードルがあります。もちろん最後はパターン化していまうので、なんということもないのですが、導入のところでひっかかってしまうと、そこでストップしてしまう子がとても多い現状では、それでは切ないなと。
で、今回新規に導入したのがジャン!

不等式理解システム!
横に数字の書いてある帯がx軸です。そして、緑色のグラフがあります。今回は二次関数です。
「<0っていうのはx軸より下にあるのはどこ?って聞いているんだよ。だから、このグラフを下からみてみようね」
ジャン!

「>0っていうのはx軸より上にあるのはどこ?って聞いているんだよ。だから、このグラフを上からみてみようね」
ジャン!

使ったのは緑のビニールでコーティングしてある針金と、段ボール、白紙、マジックのみ。総工時間10分。チープです。
でも、脱原発の時代、電気を使わずプレゼンできる能力が求められている(のか?)。そこに必要なのは、ソフトを使いこなす能力ではなく、工夫する能力です(か?)
まぁ、子どもたちが楽しんでくれたらええやん(笑)

いつきのトリセツ

昨日、とあるイベントの役割分担をめぐって、ひと悶着しました。で、そのことを通していろいろ考えましたが…。まぁ、項目別にしましょうか。

  • 形式的平等主義?

ひとつ、ものすごく違和感を感じたのは
「みんな役割を持っているからあなたも」
だったんです。で、その役割が必要かどうか、わたしにはわからない。というより、そのことについて話し合っていないし、わたしは不要だと思ってる。
にもかかわらず、その役割をわたしにあてようとしたのは、さきほどの言葉の通りじゃないかと。つまり
「みんな」→「あなたも」
でも、それって本当に必要なのか?みんながやっているんだから、不要(とわたしには思える)役割をつくって平等な気になることって必要なのか?
実はこれ、学級経営なんかで、わたし自身やってきたことかもしれません。
ただ、最近あまりとらわれなくなってきました。そこの不公平感は、結局不信感の裏返しのような気がしてならないからです。つまり「役を与えないとやらない」ってことです。そして、このような不信感からスタートしたグループは、その構成メンバーから自発性を奪ってしまうと思うからです。
「だれかこれやって」
「はーい」
これでいいとわたしは思います。いつも「はーい」の人は、どうしてもできないときは、他の人にふればいい。
「わたし、ちょっとできひんし、だれか他の人、頼むわ」
信頼感で構成されたグループであれば、いつも特定の人が引き受けていることはわかります。だから
「いつもあんたやってくれてるから、今回はわたしがやるわ」
となるはずです。
信頼感で構成されたグループでは、自分がやっていることを主張せずとも、みんなが動く。逆に言うなら、そういうグループに育っていくことが大切だと思うのです。

  • 隙間は誰が埋めるのか

ひとつのイベントをするとき、現場では役割と役割の間に隙間ができることがよくあります。
この隙間を埋めるひとつの方法は、より完璧な役割分担をすることです。でも、それは無理だと、わたしは思います。
もうひとつの方法は、役割分担をゆるめて、相互に乗り入れられるようにすることです。でも、これもまた大規模になると混乱のもとになることが往々にしてあります。
もうひとつの方法は、役割のない役割をつくることです。そうすることで、その役割を担う人は、自由に隙間を埋める仕事ができるようになる。でも、そんな役割をつくるためには「仕事をしてくれる」という信頼感がなければ不可能です。

  • いつきのトリセツ

で、わたしの感じた違和感は、なぜあえてわたしに役割をつけようとしたのかということです。おそらくはそこに「不信感」があると感じてしまった。つまり、「いつきは役割をつけないと仕事をしない」って言われてると感じてしまったっことです。これ、20年くらい前にさんざん言われて、たぶん過敏になってるんですね。で、つい「もうクリアした話のはずだったのに、まだそうか」と思ってしまったんですね。
わたしは、うちの職場でほとんど唯一名指しで仕事があたる人なんです。たいていは、仕事の役割分担はセクションごとに割り振られますが、「放送」だけは名指しなんです。逆にいうと、どのセクションにいても、そのセクションの仕事はわたしにはきません。
ちなみに、放送の仕事はわたしにしか割り振られません。なので、仕事上のペアはいない。常にひとりです。
こういう割り振りをしてくれることで、わたしはとても柔軟な仕事のしかたができます。他の人がいろんな役割をしてくれている裏側で、断線したコードの修理をしたり、とんだヒューズを買いにいったり、その他さまざまなトラブルに対応してきました。
ついでにいうと、一見まったく無関係な仕事(イベント)であっても、わたしは「自分がその場に必要だ」と感じたら、役割がなくても勝手にいってやってます。そして、たいていそれは結果として必要であったことがよくあります。
たぶん、わたしはジョーカーです。ババ抜きにおいては、誰ともペアを組めずに最後まで残るやっかいものです(笑)。でも、そのジョーカーがいないとゲームは成立しません。「大富豪」においては、ジョーカーはなににでもなりえます。でも、使ったらそれまで。そして、最後の一歩手前までに使わなきゃ負けちゃいます。とてもめんどくさいヤツです(笑)。
でも、うちの職場はそんなわたしに対して信頼感をもって接し続けてくれています。とても幸せなことだと思います。だから、その信頼感に応えようとも思うのです。そこには形式的な平等主義はありません。

でもなぁ…。
これって、かなりな甘えだよなぁとか、完璧にわがままだよなぁとか、いろんなことを思う瞬間もよくあるんですよね…。
自分でも自分の取り扱い方法がよくわからん…。

わからなさを求める

今日は月曜日のセンセとおたふく。
いや
「日本一おいしいお好みが京都にある」
と言ったら
「食べたい!」
と言われたので、
「じゃぁ行きますか」
となったという…。他のおべんきょ仲間も誘ったのですが、みなさんおべんきょ時間だったみたいで、残念!
で、いろんな話をして
「へー、ほー」
という感じだったんですが…。
「文章を読んでいて、違和感があるところにオリジナリティがうまれる」
ということをめぐって、わたしの不安感を話してみました。
「つい、理解しようとして、とりあえず理解しちゃうんですよね。特にいま読んでいる文章は」
基本的に、わたしは小器用なんですね。それがたぶんジャマする。安易に理解するんじゃなくて、たとえ小さくてもいいから、感じた違和感をきちんと育てることが大切なようです。
「いっそ、ぜんぜんわからない文章を読んでみたら?」
「あー、じゃ、やっばりニーチェとか」
「そうね、でもニーチェはわからなさを主張しながら、実は「わかって!」って言ってるのよね」
どうやらニーチェツンデレみたいです。じゃぁ、そいつ、つきあってみますか…。

なんじゃ?こりゃあ!

今日は午後から出張。ところが、予定していた時間直前にめんどうなことがいくつか。けっか、予定していた時間を大幅にオーバー。急がなきゃ会議に間に合いません。
てことで、駅まで走れ走れ!
時間はちょうどお昼時。お天道様は真上にあります。日陰はほとんどなし。駅についたときには汗だくです。というか、とまった瞬間ですね。汗が吹き出すのは。
で、電車にのって、もよりの駅までついたら、再び走れ走れ!
会議の会場は丘の上です。会場についた瞬間、再び汗だくです。
ったく!夏ってヤツだぜ!

15の夏

いや、単にきのうが「19の春」だったので、こんなタイトル。
今日は下の子の15の誕生日です。てことで、おべんきょが終了したら急いで帰って、◯ンマルクで晩ごはん。
うちのみなさん、出てきたパンをつい頼んでしまうみたいです。なんだかんだと話をしながら、いっぱい食べてしまって、みんな家に帰ってから苦しんでました。
てことで、ケーキはあしたまでお預け。それでもプレゼントをもらって大喜びなのは、幸せなやつやなぁと。
ちなみにプレゼントはソニックのアメコミです(笑)。なんでも翻訳しているそうな…。

研究者の本の読み方

月曜日のおべんきょの楽しさは、本を読み進めながら「知る」ことにもありますが、それにも増して、センセがたまに生き生きと話す余談?にもあります。
「なに?どこがわからないの?」
「いや、ここが」
「あなたはそこをどう読むの?」
「できるだけ主観を排して読むようにはしているんですが、ここは…」
「主観は排さなくていいの!国語の授業だったら、もしかしたら主観を排した正解があるかもしれない。でも、研究は違う。著者が正しいなんて誰も思ってない。主観を持ちながら、違和感を抱くことに意味があるの。そこにオリジナリティが出てくるの!」
センセの言葉を聞きながら、楽しさと驚きと恐れが同時に押し寄せてきます。
なぜなら、逆に言うなら、主観を持って読み進めないと、研究にならないということでもあるからです。主観なしに、単にその本の意図を探ることは正解を探すことでしかなく、そこにはオリジナリティはあらわれないとしたら、「思索の時間や深さ」が不十分なわたしにとって、それはかなり厳しいことだと思います。それを補うのは、もしかしたら「経験」なのかもしれません。が、その経験も、今日的な「経験」となっているのか、単なる「体験の寄せ集め」でしかないのか。
もっと内側を掘り下げていかないと…。