「問う」ことの勇気

月曜日の「おべんきょ」の内容が、先週からかわりました。いままでは、どちらかというと「問う」ということについての歴史的な位置づけというか、「問い」をめぐる思想史みたいなかんじだったんですが、先週からより実践的というか、今日的というか、そんな感じになった気がします。それにともなって、出てくる文献もずいぶんと変わって、今日にいたっては村上春樹が出てくるという。しかも、センセ、かなり村上春樹が好きっぽい。
というのはおいといて。
今日的な話になると、やはり歴史的に評価が定まっているわけじゃないですから、内容にスパッとしたキレがなくなります。終わってからも、なにがしかモンヤリしたものが残る。先週も、おべんきょ時間が終わってからの質問の中で内容が落ちてきた感じだったんですが、今日も同じ感じ。
終ってから、おべんきょなかまと
「なんかキレがないなぁ」
とか話していたのですが、反芻するに従って
「ん?んんん?」
みたいなことを考えはじめました。
なかでも、頭に残っているのが「「問う」ことの勇気」という言葉。
発端は、なんだったかのテレビ討論会で、平場から出された
「どうして人を殺してはいけないのですか?」
という質問に端を発した一連の出来事だったのですが…。
まぁ、それはおいておきます。
わたしは職業柄、「問い」を発することは仕事です。なので、授業の中でかなり計算しながら「問い」を出していきます。一方、子どもたちはなかなか質問してくれない。この違いってなんだろう。
おそらくは、わたしの場合は「答が用意された問い」であるのに対して、子どもたちのそれは「問いの中に問いが含まれている」からかなと。
いや、
「答えはどうなるの?」
という質問はあれですが、「わからないことを問う」ということは、かなり困難なんじゃないかなぁと思うのです。なぜなら「わからないことがわからないと問えない」という、まぁありきたりな話なんですけどね。
でも、子どもたちは、時として勇気を持って問うてくれます。
では、翻って、わたしが勇気を持って「問う」ことはあるのか。
たぶんあります。
例えば、その「問い」そのものが、なんらかのforceを内在している時。
その「問い」を発することが、もしかしたら人と人との間に亀裂をつくるかもしれない。もちろん、人と人との間に和解をもたらすかもしれない。いずれにしても、それだけの力をもつ「問い」は存在するように思います。というより、もしかしたら「問い」は、元来それだけの力を持つものなのかもしれません。
であるとするならば、少なくともわたしはその「問い」を発さなければならないと思った時、おそらくは躊躇するタイプの人間です。であるがゆえに、勇気が必要になる。そして、勇気を振り絞ってもなお、その結果を引き受けきれないと思ったら、「問う」ことを中断することもあるのではないかというふうにも思うのです。
それが正しいことであるかどうかは、とりあえずおいておきます。
いずれにしろ「問う」という言葉と「勇気」という言葉が、あんがい近いところでつながっているのかもしれないと、おべんきょのあとで反芻しながら、ふと考えたということです。