ムラの子だけどブラクミンじゃない(かもしれない)わたしと解放運動

今日は人権教育研究会の夏期研修会。午前は元IMADR職員の板東さんです。今日のタイトルは、その講演のタイトルです。
内容は、かなりプライベートなことなので、ここには書きませんが…。
ほんとうにいろいろ考えさせられました。まぁ結論的にいうと、アイデンティティ的には「辺縁群がおもしろい」ということです。
考えてみると、「部落内居住者」って、いろんなパターンがありますね。まずは「純ブラ*1」「半ブラ*2」「ノーブラ*3」(by 角岡さん)と、とりあえず3つのパターンがあります。で、それぞれに対して、例えば「運動をしているか」「出自を語っているか、隠しているか」「パートナーは部落民か否か*4」「進路はどうか」「階層はどうか」など、さまざまな要素があります。そこに部落外居住者まで含めると、もうなにがなんだかわからなくなります。なにが言いたいかというと、それぐらい「部落民」は多様であるということです。
ところが、こうした中で「部落内居住の純ブラ」は、アイデンティティのゆらぎがあまりない。まぁ「中核群」ってことですか。しかも、この人たちは、他の要素についてあまり問われない。まぁ大切な要素として「被差別体験」というのもあるんですが、若年層においてはどんなものだろう…。で、さらにこうした「中核群」は、「部落民とは誰か」ということを分別する基準を持っているみたいです。
こういうことを考えるたびに、かつて聞いた朴実さんの講演のあるフレーズを思い出します。

ある朝鮮人の集まりにいった時、日本名を名のる韓国籍の人から「お前は朝鮮人ではない」と言われた。そこで「朝鮮人とはなにか?」と問い返すと「それは国籍だ」と返された。
しかし、日本名を名のり朝鮮人であることを隠している韓国・朝鮮籍の人間と、日本国籍ではあっても民族名を名のり、民族文化を取りもどそうとしている人間のどちらが朝鮮人であろうか。
(こんな感じだったと思う)

きっと朴実さんに
朝鮮人とはなにか?」
と問うたら、
「それはなぁ…」
と言いながら、その後は延々と語るか絶句するか。少なくとも、ひとことで言いあらわせるものではないということだけは伝わってくるような語り口になるんじゃないかと思うのです。でも、そこにこそ「アイデンティティ」があるような気がしてならないのです。結局延々と語り続ける以外ないということなんだと思います。でも、だからこそ、人間の存在はおもしろい。
まぁ、こんなこと「運動」にはならないんですが、でも、「人を変えるのは内圧」と考えるわたしにとって、「人(含むわたし)を変えること」=「運動」なわけで、やはりこのあたりを避けて通ることはできないと思うわけです。
てなことを考えさせてくれる、とてもいい講演だった気がします。

*1:両親とも部落民(ここで、その「部落民」ってなに?っていうのは、とりあえずおいておきます

*2:片親が部落民

*3:両親とも部落外出身

*4:以内というのも含めて

ムラの子だけどブラクミンじゃない(かもしれない)わたしと解放運動” に10件のコメントがあります

  1. あー、藤野さんの言葉。すごくストンと腑に落ちた。
    そうなんですよね。スカートって事に何故そんなに抵抗があるんでしょうね。私は遠い昔にカムして移行した時もスカートは絶対にダメって言われました。

  2. なるほどなぁ。
    わたしも「ここまではいけるかな?」「ここまではどうかな?」とやってきた最後の一線なんですよね。
    生徒も教員も「はけばいい」と言ってくれるてるんだけど、どこから弾が飛んでくるかわかりませんからねぇ。

  3. うーん、なんかそこはよくわからない。
    トイレ問題は理解できるけど。

  4.  私は、kuroさんとは逆に、「スカート必須、パンツ不可」と言われました(お客様に直接接する職場での話。実験するような職場は、逆に純女もパンツ必須スカート不可。実験しないしお客様にも接しない職場は、どちらも可みたい)。こういう職場は、kuroさん曰く「マレ」だそうですが。そうですか?西日本では?それとも全国的に?統計を知らないので、私はちょっと分かりません。

     ちなみに、上記「スカート必須」を言った人事部のヒト(女性)曰く
      「女性のフォーマルはスカート。パンツはカジュアル。職場に
       カジュアルな格好で来るなっ!皆さまに失礼」
    だそうです。

     ま、服装はその場の習慣に合わせよ、ということですね。

  5. > 冷やし中華屋さん、樹村さん
    もしかしたら「完全移行」だとそうなるのかもしれませんね。特に誰かとあわなきゃならない場合は、逆に女性のジェンダーコードをきちんとまとったほうがいいのかもしれない。
    kuroさんやわたしの場合は、たぶんそういう移行のしかたじゃないのかもしれないです。言ってみれば、「男か女か」という2者択一を迫られていないので、中途半端に移行している。すると、男性の痕跡を残しておいた方が、まわりは安心できるのかな。
    て感じがしますが…。

  6. いよいよ、まんまるでスカート姿が拝見できるんですかー
    記念撮影しないと駄目ですね!

  7.  えんえんと語り続けるしかない=叙述的自己表現、やっぱりそこにきましたかー! すごく普遍的なことがあのリンク先(安田さんね)には書かれているし、もっと広がっていいのになと思う。しょうがい分野にしてもそうだと思ってる。(医学的分類と、社会的経験やアイデンティティは全然違う)

  8. すごく普遍的だし、実は安田さんの指摘を待たずに、各学校で実践をしてきたことなんです。
    ただ叙述的自己表現「しか」ないと言われると、「それでは運動にはならない」という反論が出るわけで。
    叙述的自己表現というのは、ある意味ベースとなる営みであり、同時に運動を深めていく営みにもなるんだと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です