で、リハビリ(笑)

で、午後は実践発表会。その後撤収→機材を学校に取りに行く、なんてことをして、いったんお家へ。その間、ずっと板東さんがわたしのサポートをして下さいました。講師なのにすみません、すみません。
で、京都駅へ。ここで今日の参加教員+なぜかA久◯さん+うち学校の若手教員と合流。駅前の居酒屋へ。
もちろん、呑みです。
やっぱり、話をしてもらった後、もしも時間の都合がつくなら、こういう感じで感想を返す時間が必要なんでしょうね。
と思っていたら、まずはわたしのところに質問が集中。
「体調悪そうやけど、なにがあった?」
「なんで今日スカートやねん」
そりゃそうだ。
「いや、ちょっと、いまズボンはけませんねん。実はゴニョゴニョ」
「ほー、とうとうゴニョゴニョしたんや」
「はい、しましてん」
みたいな話。
わたしは職場にはハレーションを嫌ってスカートでの出勤はしていません。ほれ、わたし、ノンカムですから(笑)。
いや、藤野千夜さんのインタビューかなにかを思い出すんですよね。

髪の毛が伸びようが、胸がふくらもうが、キュロットをはこうが、そこまではいい。でも、2本の足がひとつの筒の中に入った瞬間、バッシングがはじまる。

たぶん、そこが転換点なんでしょうね。だからこそ、東で冷やし中華をはじめた人は、それなりに準備に準備を重ねて、とても慎重かつステディにことをすすめられたんじゃないかと思うわけです。で、わたしは
「RLEをやっているかどうか微妙」
と、かつてある人から言われている状態なわけで…。
ところが、今日の研修会、いろいろめんどくさいので、スカートで参加をしたんですよね。まぁ今日の研修会のメンバーなら大丈夫だろうと思ったというのは大きな要素です。でもまぁ、みんなかなり引いてはりましたね(笑)。慣れるのにずいぶんと時間がかかったみたい。午後くらいになって、ようやく慣れたみたいです。そこからは会話もあったりして(笑)。
で、なにがうれしいかというと、そこであったとまどいなんかを、酒の席とは家、ストレートに聞いてくれる。やはりそこには人間関係があるからなんだろうなぁと思います。違和感を語り、それに答えという相互作用の先に、居心地のいい場所があるんでしょうね。
かといって、別にこれからずっとスカートで行く気はぜんぜんなくて、痛くなくなったら、きっとジーンズにもどりますけどね(笑)。

その話がおわったところで、あとは板東さんを囲んでいろんな話。みなさん
「あまり呑ますな」
と言われながらも、やっぱりお酒も進むというものです。気がついたら、みんないい気分。いやあ楽しかった!
てか、明日以降に向けて、いいリハビリになりましたよ。

ムラの子だけどブラクミンじゃない(かもしれない)わたしと解放運動

今日は人権教育研究会の夏期研修会。午前は元IMADR職員の板東さんです。今日のタイトルは、その講演のタイトルです。
内容は、かなりプライベートなことなので、ここには書きませんが…。
ほんとうにいろいろ考えさせられました。まぁ結論的にいうと、アイデンティティ的には「辺縁群がおもしろい」ということです。
考えてみると、「部落内居住者」って、いろんなパターンがありますね。まずは「純ブラ*1」「半ブラ*2」「ノーブラ*3」(by 角岡さん)と、とりあえず3つのパターンがあります。で、それぞれに対して、例えば「運動をしているか」「出自を語っているか、隠しているか」「パートナーは部落民か否か*4」「進路はどうか」「階層はどうか」など、さまざまな要素があります。そこに部落外居住者まで含めると、もうなにがなんだかわからなくなります。なにが言いたいかというと、それぐらい「部落民」は多様であるということです。
ところが、こうした中で「部落内居住の純ブラ」は、アイデンティティのゆらぎがあまりない。まぁ「中核群」ってことですか。しかも、この人たちは、他の要素についてあまり問われない。まぁ大切な要素として「被差別体験」というのもあるんですが、若年層においてはどんなものだろう…。で、さらにこうした「中核群」は、「部落民とは誰か」ということを分別する基準を持っているみたいです。
こういうことを考えるたびに、かつて聞いた朴実さんの講演のあるフレーズを思い出します。

ある朝鮮人の集まりにいった時、日本名を名のる韓国籍の人から「お前は朝鮮人ではない」と言われた。そこで「朝鮮人とはなにか?」と問い返すと「それは国籍だ」と返された。
しかし、日本名を名のり朝鮮人であることを隠している韓国・朝鮮籍の人間と、日本国籍ではあっても民族名を名のり、民族文化を取りもどそうとしている人間のどちらが朝鮮人であろうか。
(こんな感じだったと思う)

きっと朴実さんに
朝鮮人とはなにか?」
と問うたら、
「それはなぁ…」
と言いながら、その後は延々と語るか絶句するか。少なくとも、ひとことで言いあらわせるものではないということだけは伝わってくるような語り口になるんじゃないかと思うのです。でも、そこにこそ「アイデンティティ」があるような気がしてならないのです。結局延々と語り続ける以外ないということなんだと思います。でも、だからこそ、人間の存在はおもしろい。
まぁ、こんなこと「運動」にはならないんですが、でも、「人を変えるのは内圧」と考えるわたしにとって、「人(含むわたし)を変えること」=「運動」なわけで、やはりこのあたりを避けて通ることはできないと思うわけです。
てなことを考えさせてくれる、とてもいい講演だった気がします。

*1:両親とも部落民(ここで、その「部落民」ってなに?っていうのは、とりあえずおいておきます

*2:片親が部落民

*3:両親とも部落外出身

*4:以内というのも含めて