アイデンティティは「単独」で存在しうるのか?

「自分はなにものであるか」ということに突きあたった時、どうやってそれを表現するんだろう。もちろん、まったく新しい概念で自分を規定することができる人もいることだと思います。でも、わたしにはそんな力量はない。なので、まずはじめに、既存の言葉を援用するところからスタートするわけです。
では、どんな形で「既存の言葉」を選び取っていくのか。
小学校の頃のことを思い出すと…。おそらくわたしは、まわりにいた人たちの姿や、マスコミで流れる情報と自分とを比較しながら、「あ、同じ」「あ、違う」と考えながら、ひとつひとつ自分をあらわしそうな言葉を選んでいったんじゃないかと思うのです。もちろん、ある言葉を選ぶこと=肯定じゃないです。否定的な言葉を選ばざるを得ないこともあります。また、比較しようにも「比較の対象としての具体的なモデル」がないこともあります。そうした時は、比較の対象は自分の持つ「常識*1」になります。
で、わたしにとっては、小学生の頃はじめて自己規定をした言葉が「変態」だったわけです。でも、さすがに小学生のわたしには、これは荷が重かった。そのあたりが、子どもの頃の自分の「悩み」だった、と。たしかに、あの頃は日常を楽しみながらも悩んでいたよなぁ。

*1:これもまた、世間とのかかわりでつくられてくるわけですが

誰がわたしをそう呼ぶのか

なんていう意味深なタイトルをつけてみましたが…。わたしがそんなややこしいことを考えることなんてあるはずもないわけで(笑)。
ただ、最近遭難所で「立ち位置」のことが少し話題になって、ずいぶんと考えさせられました。なかでも、「玖伊屋を運営しているいつきがGIDっていうのはどうよ」みたいな話があって、正直言って「きびしいなぁ」とか「でもなぁ」とかいろんな考えが頭の中を駆けめぐりました。
で、わたしの考えをまとめるための補助としていくつかのキーワード(キーセンテンス)をこれから数日かけてメモしておこうかと。