今日は子どもたちは「家庭学習日」です。かつてはすべての定期試験のあとにあったのですが、今は学年末試験のあとだけです。まぁ、子どもたちの1年が決まる会議や成績処理がある期間なので、ここも「授業」とか言われたら暴れます。てか、それ以前にやるネタがないし。
ちなみに、朝、facebookを見たら、武田緑さんの投稿にいろんな人がコメントしてましたが、なにを今さら感がひしひしと押し寄せてきました。いや、校則と学校と社会の関係についてはずっと昔に武田さんにコメントしたことがあったし、なによりここのブログでちょこちょこ書いてます。なので
「だから言ってますやん(笑)」
とコメントしたら
「どこで?見たことがない」
とのコメント。どうやらfacebookの世界のことを指しておられるようだったので、
「わたしが発信してるのはブログです」
と返事。まぁ、こういう古くさいやり方をしてたら、誰ものぞかないからこういうことになるんだろうけど、ブログって、反射神経で書けなくて、書くのにそれなりの時間をかけるし、それはタイムラインみたいに流れずにとどまってくれるから、わたしは好きなんですよね。
ちなみに、その方はご自分のマスクのことへの返信と思われたらしく、わたしのブログのマスクに関する記事を見られたらしいけど、わたしのコメントは武田さんに向けられたものなので、校則に関する話なんですが、まぁそういう早とちりもfacebookならではですね(笑)。
てことで、出勤。
誰もいない職員室で、おべんきょ成果について、あれこれ考えます。なにせ、ここで書けなければ、ほんとにどうしようもなくなってしまいます。焦ります。
ほんとは10人分の語りの分析をしようと思ってたけど、ぜったいに時間的に間に合わないので、ひとりだけの分析をこってりやろうかなと。まぁ「こってり」できるほど自分に分析能力があるとは思えないけど(笑)。
で、やろうと決めた方は土肥(2019)の時にインタビューしたけど、扱うのを断念した方です。この間書いたように、この語りがとてもおもしろい。おもしろいけど、分析が難しい。なにがあったか、本人にもわかってない。いや、「わからない」と語っている。てことは、なぜ「わからない」とし、そういう語り方をするのか。そこから謎に迫るしかない気がします。でも鉤括弧をはずしたい気持ちが強いということをあるんですよね。つまり「他者の合理性を理解する」ために「自分の解釈に変更を加える」ってことです。つまり、語ったことはあったんだと考え、そこには合理的な理由があって、それが理解できないのは「わたし」の理解が及んでいないとする。そして、解釈を変更することを通して「理解しようとする」。そのために、時代背景や社会背景の調査も用いる。
うーん。できるだろうか。
てか、たぶんこうだろうなという予測はあるのです。そして、それは「わたしに対して」だからこそ投げられた言葉だと思うからです。つまり、その言葉を使うことを通して「わかるでしょ?」と言っている。ただ、そうであるなら、それがそうであることを示すための根拠は必要だな。
いずれにしろ、「ある性別で生きる」ということは、一筋縄ではいかないというか、ひとつの方法論だけで捉えられないってことが示されるんでしょうけどね。
しかし、人々があたりまえに達成している「ある性別で生きる」ことを、これほどまでにテクニカルにやらなきゃならないことを明らかにするトランスジェンダーって、ほんとうに分析対象としておもしろい。
なんてこと考えると、「鉤括弧をはずす」どころか、エスノメソドロジーに行っちゃうじゃん。困ったものだ。
とにかくそんなことを考えながら、語りの中の使いたいところを抜粋して終わりました。まぁでも進んだな。