スキーの楽しみ・雪と氷の世界(3日目)

朝、空は見事に晴れ渡っています。いわゆる「ピーカン」というやつですね。今日は本気で日焼け対策をしないとヤバイ感じです。と同時に、こういう日は、朝はものすごく寒いです。いわゆる「放射冷却」です。今日の気温は10℃。ちなみに、このあたりでは「マイナス」はつけません。つける時は「プラス」なんです。
さぁ、午前のレッスン開始。ピンと冷えた空気が心地よいです。
午前で終了の3人を重点的にチェック。とりあえず「なにか」を持って帰ってもらわないといけません。それが「できたこと」であるか「できなかったこと」=「課題」であるかは、たぶん関係ないんだと思っています。
午後は残りの3人。こちらも今日いっぱいでおしまいの方々です。午前よりも少しレベルが上がったので、少し「飛ばし」を入れてみたり、はたまたコース変化を楽しんでみたり。平坦なバーンをすべるだけがスキーじゃないと、わたしは思っています。というよりも、ほんとうのスキーの楽しさは、斜面の変化にあるんじゃないかなぁ。こういう時のスキーインストラクターは、「教える」というよりも「ガイド役」なんだと思います。その人ができることを見極めた上で、その限界の少ししたあたりをねらって、ふだん気づかないような斜面に連れていく。
夜は、小学校1年生のいとこ同士で来ている子どもたちのお世話です。親もうちのスクールに子どもの頃から来ていたので、子どもたちだけにしても安心とわかってくださっています。ちょっとホームシックにかかった子どもに添い寝をしたりしているうちに、3日目も終了。

土方じゃなくても勝てないよ・雪と氷の世界(2日目)

朝、屋根裏にあるスタッフルームでふと目を覚ますと、「ゴーッ」という音がしています。ボイラーの音なのか、はたまた…。でも、窓がないから外が見えません。下に降りてスキーを出そうと思ったら…。えらい風です。
でも、ここは山です。朝、風が吹くのはよくあることです。「そのうちやむだろう」と思っていたのですが、まったくやむ気配がありません。やがてレッスンの時間。でも、やっぱり風はやみません。ゲレンデに行くと、当然のようにリフトは動いていません。どうするねん…。
しばらく集合場所で「どうしよう」と言っていたのですが、やがて、みんな動きはじめます。
リフトに乗って滑るのだけがレッスンじゃないんですね。中級者とて、はたまた上級者であっても、緩斜面でやる練習項目はあるわけです。逆に言うと、ふだんはなかなかできない練習項目ができると言うことで、こういう事態は、それはそれで「いい機会」になるわけです。てことで、斜面を登ったり降りたりしながら、短い斜面を使っての練習開始。
とはいえ、やっぱりしんどいのはしんどい。「もうやだ」と思った頃に、ちょうどレッスン終了の時間。すると、リフト小屋のおじさんがきて「上の方はリフトが動いているよ。上までシャトルバスが出ているよ。乗る?」と言われます。遅いよ…。
ということで、午後はシャトルバスに乗って上の方へ移動。すると、風もないし、見事に晴れ渡っています。山の天気はやっぱりよくわかりません。
にしても、午前半日のおかげで、完全にカリキュラムを変えなくちゃなりません。まいったなぁ…。
夜、お風呂[1]ひとり混浴状態です(;_;)から出て駐車場で空を見あげると、満天の星空です。オリオンも昴も天の川もくっきりと見えます。
あしたはいい天気だな。

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1 ひとり混浴状態です(;_;

今年も恒例の…・雪と氷の世界(1日目)

わたしの正月は1日でおしまい。ここからは、毎年恒例の「雪と氷の世界*1」がはじまります。
起床は2時半。3時には家をスタート。4時までにインターチェンジを入ると深夜割引で半額になります。途中、除雪車にじゃまされたり眠気にじゃまされたりしながらも、なんとか8時半頃には到着。みなさんにあいさつをして、スクールモードに切り換えていきます。
午前はいつもの通り、レッスンはなし。屋根のつらら落としと仮眠と足慣らしです。
午後からはレッスン。今回は中級者の担当。シュテムからパラレルをめざす人なので、けっこうやりやすい感じです。とは言え、このあたりの人、すごくクセがついているので、そのクセをほどくために、いったん滑りを解体して、再構築しなくちゃなりません。これがなかなかたいへんです。なんしか直滑降姿勢からやることにしますか…。

*1:たしかこのフレーズはずいぶん昔子どもにつけられてしまったんですよね

障碍者プロレスの衝撃

夕方からのセッションは、障碍者プロレスのスーパーヘビー級チャンピオン・鶴園さんの講演です。といっても、これまた中邑さんとの掛けあいになります。どうもATACって、そういうスタイルなようです。
ビデオを見せてもらいましたけど、あれは「ガチ」ですね。プロレスというよりも「プライド」っつぅか「K1」っつぅか。見せていただいた試合では、相手は絞め技と打撃で落ちてましたから。
「なぜ障碍者プロレスを?」という中邑さんの問いに「各闘技が好きだから」というベタな答を返しておられましたが、まぁ当たり前といえば当たり前か…。

2日遅れだけど

朝、いきなり
「ショートホームルーム、代講頼むわ」
とのこと。担任さんが休みだそうです。
てことで、職員室のレターケースから、今日、配布するプリントを持ち出して、と。
お、今日は生徒の手づくりの「保健委員会だより」ですか。ネタは「世界エイズデー」。
そういえばそうでした。
てことで、急遽手づくりのレッドリボンをつけてみました。
休み時間に廊下で出会った生徒に「ほれ」と見せます。
「かわいい*1
「うん。これ、レッドリボンやねん」
別に、わざわざ特設の時間をとって「エイズ教育」なんてしなくても、5分でつくれるリボンひとつで、いつでもどこでもできますわ(笑)。

*1:もちろん、「リボンが」です

全同教(2日目)・またまた出会い!

今日も分科会です。
他の分科会に行きたい気持ちもないわけではないのですが、もうしばらく千葉の人たちとの「時間」を楽しみたかったということがひとつ。そして、分科会を渡り歩くのはあまり好きではないということもあって、昨日と同じ分科会にとどまることにしました。
これが、結果的によかったんですよね。
まずは、三重県のレポート。
さらりと聞くと、なんのことかわからないレポートなんですが、質問をして返ってきた答を聞くうちに、学校・地域が一体となったすごいとりくみをされていることが伝わってきました。あまりにもすごすぎます。
レポートが終わったら、すぐにおしゃべりに行きました。すると、ムラのお母ちゃんが「また遊びにおいで」と暖かい声をかけてくださいます。マジで行こう。ぜったいおもしろいムラやと思います。
続いて、ご当地奈良のレポート。
さすがは奈良ですわ。もう、それしかありません。
で、お昼ご飯。
せっかくなので、三重の方々と一緒にラーメン屋へ。教員とムラのお母ちゃん、さらには地区外のお母ちゃん達が、ほんとうに信頼しあいながらとりくみを進めておられる空気を満喫させていただきました。まぁ、口は悪かったですけどね(笑)。でも、そういう口をきけるのが、信頼関係なんだと、わたしは信じています。
で、ラーメンタイムが伸びてしまったので、高知のレポートは聞けず。一緒に行って下さった皆さんすみませんでした。けっこういい討論のきっかけになりそうなレポートだったみたいなんですよね。
その後、総括討論。
なんか、あらかじめ「討論に参加する人」を聞いて、発言を許されるのはその人だちだけだったみたいなので、思わず手をあげて「参加します」。
とりあえず、昨日の「国民」の話と、わたしのかかわる2つの交流会の話を紹介して、今回の全同教も終了。
千葉の人たちや三重の人たち、それから滋賀の人たち、大阪の人たち。初めて会う人、幾度か会った人、いろんな人々と再会を約束しながら、わたしも京都へと帰ることにしました。

全同教(1日目)・誰のために語るのか?

朝、なんとか起きられたのが6時半過ぎ。まわりを見渡すと、遠来のお客さん達は皆さん起きておられます。
とりあえずコーヒーを飲んで、近所をひとまわり。「パッチギ!」ゆかりの地を軽く散歩です。その後、みなさんをお連れして、「オールロマンス行政闘争」ゆかりの地を軽く散歩→京都駅にお連れしました。
さて、みなさんをわかれて、再び東九条へ。軽く片づけを済ませた後、わたしも奈良に出発です。今回は、近くということもあって、バイクで行ってみることにしました。やっぱ、バイクで行くと楽ですね。すべて会場の近くにとめることができます。
で、全体会場へ。
中に入ったら、すでに開会行事がはじまっています。なにやら大会宣言を前で朗読しておられるのですが、突然冷や水を浴びせられたような気がして目が覚めました。なにせ、大会宣言の中に、何度も「国民」という言葉が出てくるんですから。まさか全同教の場所で、外国人や「非国民*1」を排除する言葉が出てくるとは…。
「やれやれ」と思っていると、あちこちからメールが入りはじめます。まぁいつものことですが…。てことで、三重*2鳥取*3・大分*4・奈良*5など各地のお友だちと久しぶりの再会を楽しみました。
で、昼食終了後、いよいよ分科会。
今回は「どこに行こう」とそうとう悩んだのですが、「やっぱりここ!」と決めたのが、この間お世話になった千葉の方がレポートをされる分科会。久しぶりにお会いしたかったこともあるし、なによりもあの時Yさんのお宅で聞かせていただいた話を、もう一度聞かせていただきたかったんですよね。

とりあえず、分科会開始。
まずは、滋賀県のレポート。すみません、ちょっと眠くて反応できませんでした(笑)。
続いて、熊本県のレポート。う〜ん。すごい実践をしてこられた教員生活全体を振り返ったレポートで、すごいなぁとは思ったのですが…。
なんというか、レポートって、どうしても「ある子」を通して全体を語ってしまうことになりガチです。すると、その子が主人公になり、まわりの子らが「脇役」になってしまう。全同教の場合、ともすればムラの子がその主人公になります。その中で語られる実践って、つい「ムラの子(ら)VSまわりの子」みたいな対立関係のように描かれてしまうように思います。なんというか…。
「◯◯のとりくみにむけて、子ども会で◯◯についてとりくんだ」
みたいな。
でも、実際にはそうじゃないんですよね。おそらくは、あるとりくみを通して、「まわりの子」も変わるけど、ムラの子自身も変化していく。そういう出会い→変化の場を、自分の学級なりなんなりの中でどうつくっていくかということが大事なんじゃないかなぁと思うのです。
ある子は立ち位置が不変で、他の子がその子に影響されて変わっていくというのは、おそらくは実践としてまだまだ不充分なんじゃないかな。
とりわけそれは、「語る」という行為にからまって顕著にあらわれるような気がします。
つい、ある子の「語り」を通してまわりの子が変わってしまうようにとらえられがちなんだけど、「語る」ということは、その行為を通して、自分を見つめ直し、そこから生まれた新しい「わたし」が「他者」とつながり直すこと何じゃないかと思うのです。ということは、「語る」ということは誰かのためにするのではなく、「自分」のために行うんじゃないかなぁ。
そんなことを、かつてわたしが出会ったムラの子Mのことを思い出しながら考えました。
いや、熊本のレポートを批判しているわけじゃなくて、そこから自分が感じたことなんですけどね。
で、お待ちかね。千葉県のレポート。
一言で言うならば、レポートじゃないですね、すでに。講演です。すごくいい意味で。自分の生きてきた「軌跡」を、さまざまな人との出会いや、自分自身との出会い直しを通してゆっくりと語られます。しかも、「自分の姿」と自分の親戚や友達の姿を重ねあわせながら、まわりの人の思いへとつながっていきます。そういうYさんの話を聞きながら、わたしもわたし自身と出会わせてもらった気がしました。ほんとうに、その場にいあわせていただいて、感謝です。
そうそう、討論の中で島根のお母ちゃんが発言された
「ムラの子を教材にするな」
っていう言葉は響きましたね。
で、分科会終了。
帰りに熊本のレポートにからまって発言されたAちゃんに「語ってよかった?」と聞くと、「実は語ってないんです」と笑っていたのがおもしろかったです。まぁ、分科会に参加していない人には何のことかわからないか。

*1:含む、わたし(笑)

*2:どうせ今度広島で会うけど(笑)

*3:どうせこの夏兵庫で会ったけど(笑)

*4:どうせ今度遊びに行くけど(笑)

*5:こちらこそは、ほんとうに久しぶりです

全同教・0日目

さぁ、あしたからいよいよ全同教の大会がはじまります。今年はどんな出会いが待っているのかな?
にしても、いつの間にか全同教の大会自体から何を得るかというよりも、そこでどんな人と会えるかなと言うのが楽しみになっているという^^;;
でも、考えてみたら、レポートもまた、レポートを通したその人やその地域との出会いなわけだから、それはそれで正しいのかもしれません。

てことで、今日は遠方からの前泊組の人と事前合宿。
なにせ、今年は奈良なので、半分以上無理矢理「京都で前泊して!」と誘致した次第です。
夕方、到着した方々を京都駅まで迎えに行って、荷物を置きに行く間も惜しんでタクシーに飛び乗って、向かうは「おたふく」です。なにせ、今回の主賓(笑)はムラの方。でも、小さいムラの出身の方で、町のムラ*1をほとんどご存じないとか。なので、ムラ・人・お好みに出会えるこの店が一番いいと判断したわけで。
昨日のうちに予約しておいたので、カウンターの一番いいところをあけておいてもらえました。とりあえずビール・マッコリで乾杯の後、「ホルモン煮」「スジしょうが」「洋食」「こごり」そして、もちろん「カスのお好み」を堪能します。やがて、7時ちょうどからカラオケ開始。
もう、なにがなんだかわからないままに、お店のお客さんが一体となって盛りあがるのはいつもの風景です。みなさんに味わってもらえたかなぁ…。

で、閉店後、東九条に移動。しばし呑みながら、いろんな話をして、気がつくと爆睡。
今回も「バクダン濃いめ」が効きました(笑)。

*1:変な書き方だけど、極めて正しいのですよ

オールロマンス事件の虚構と真実

今日は、京都部落問題研究史料センターの部落史連続講座第2回目です。
前回は11月7日でして、この日は川口くんや阿久澤さんと呑んでいたので行けませんでした。
で、今回のテーマは「オールロマンス事件の虚構と真実」。話されるのはオールロマンス事件の研究者として有名な前川修さんです。
わたしは今回の案内をどこかで見た最初の時から、もう、ワクワクしていました。なんといっても、京都のあるいは日本の部落解放運動というか同和行政のあり方のひとつのターニングポイントとなった「事件」ですから。
とういことと、もうひとつ前々から気になっていたことがありました。それは、
「オールロマンス事件(1950年)から行政闘争が始まったと教えてきたけど、同対審答申の1960年までの10年間なにがあった(なにをしていた)のか?」
ということなんです。これ、部落史の資料をつくる中で、どうしても気になっていたことなんですよね。中世〜近世、あるいは戦前あたりについては、それなりに「ネタ」があるんですが、オールロマンス以降については解説書レベルではほとんどないんですよね。まぁ、『京都の部落史』あたりを読めばいろいろあるんでしょうけどね。

で、ワクワクしながら会場に行って、好位置キープ。軽くお腹に者を入れていると「いつきさん!」という声。ひょいと見ると、阿久澤さんです。ありゃぁ〜、こんなところでというか、京都在住なんだなぁ。
てことで、話がはじまります。

  • オールロマンス事件とオールロマンス行政闘争はわけて考えている

「オールロマンス事件」を知っている人は多いけど『特殊部落』を読んだ人はけっこう少ないという話。たしかに差別小説としては有名だけど、これほど小説として読まれていないものは、他にはないんじゃないだろうか。
では、著者杉山清次はどういう意識で書いていたのか。
『特殊部落』に描かれている「風景」は、明らかに朝鮮人の姿*1。また、闇米のシーンなんかは部落の話。このあたりについて、前川さんは資料を用いながらていねいに解説されていきます。
質疑応答の時にも出てきたのですが、戦前から東七条への差別事件は頻発しています。こうした「世間の常識」の中で生きていた杉山清次さんの意識と、自分が職務上知り得た現実*2が一体となって、「なんかすごいところ」を暴露しようとしたんじゃないか。そして、その「すごいところ」に「特殊部落」という名前をつけた。
つまり、杉山さんにとっての「特殊部落」というのは、いわゆる「部落」をさすわけでもなく、朝鮮人の集住地域を指すわけでもなく、「世間の人々の知らない世界」みたいなものだったんじゃないかという指摘です。
ところが、これを「部落の姿」*3として、放置した行政の責任を問いながら、地区改善要求の根拠にしていった。これが、「オールロマンス行政闘争」。つまり、『特殊部落』という小説そのものや、その著者杉山清次の意識、あるいはその背後にある社会のまなざしといったものへの差別性を問うならば、それは「オールロマンス事件」といえるのかもしれないけど、それを行政闘争の契機*4にしていったという意味で、小説『特殊部落』をめぐる問題と切り離して考えるべきなのではないかというように、わたしは聞きとりました。

  • 一枚の地図はなかった

「一枚の地図」の話はあまりにも有名で、映画でも見た気がするし、わたしも教室で教えていました。でも、あれ、どこで読んだんだろう。
前川さんは、「別にあったかなかったかはどうでもいい話」と前置きしながらも、例えば『京都の部落史』の中に「地図」にかかわる資料が収録されていない理由を師岡さんの「いくらさがしても資料がなかった」という言葉をひいて「わたしはなかったと考える」と話されました。さらに、あの話の出典として東上高志さんの『差別』の一文を資料として提示しながら、「オールロマンス行政闘争」当時の京都市の部落の数と、東上さんが書かれた時の部落の数のズレを指摘したり、行政側に残された火事の件数や衛生的に問題のあるとされた地域の数と当時の部落の圧倒的な差を示されます。そこから、東上さんの文書を「あれは歴史文書ではなく啓発文書」とばっさりと切られます。
しかし、「一枚の地図」の話を否定することは、実際には解放運動側と行政側の戦前にはじまる地区改善事業への長い長いとりくみを発掘することでもあるのです。わたしたちは戦前・戦中・戦後それぞれに断絶があると感じがちですが、行政レベルで言うならば、人も計画も、すべて連続しているようです。「オールロマンス行政闘争」は、そういう息の長いとりくみの中での、とても大きいターニングポイントと捉えるべきであるという定期というふうに、わたしは理解しました。

  • オールロマンス行政闘争の功罪

わたしは「光と影」くらいにとどめているのですが、ここは「功罪」とずばりと言われました。
「功」はもちろん、同和事業の画期的な前進です。
問題は「罪」のほうです。先にも書いたように、消防局が出した危険地域の数や衛生局が出した改善を必要とする地域の数は、部落の数の10倍以上の数でした。にもかかわらず、それらの地域は放置された。その典型としてあげられたのが東九条でした。
前川さん自身、東九条の中に住み、東九条の中で働き、東九条の中で運動をしておられる方です。東九条の住宅環境を改善するための施策を京都市に要求しても、「京都市は無理である。住宅地区改良法による予算は、すべて同和対策にまわっている」という返答があったとか。実際に、東九条市営住宅が建てられたのはここ数年ですし、まだ3棟しか建っていません。そして、そういうアンバランスが、法切れ後のあまりにも強い逆風をまねていているのではないか。そういうことを「顛末」と表現されました。
なんというか、前川さんの言葉の中に、一種の「恨」を感じました。

  • どこから見るのか

前川さんの話に対していくつかの質問が出ました。
ひとつは
「オールロマンス行政闘争は、結局は、行政内部の地区改善事業をしたい人たちとしたくない人たちのヘゲモニー争いであったと考えることができるのではないか。とするならば、今もまた、逆の意味で同じことが繰り返されているのか?」
というものでした。
これ、かなり辛辣な話だなぁと思いました。でも、そう受けとることもできますよね。
で、もうひとつはムラのおばちゃんの質問というか意見です。
ひとつは、
「オールロマンス事件は、(行政側のきっかけではなく)運動側にとってのきっかけだったのだ。あそこで元気をもらって運動をやったから、さまざまな施策がなされたのだ」
というものでした。
まぁ…。なんというか…。「その時、その場所」にいる人間はこう感じるだろうし、それはそれでひとつの真実かもしれない。でも、それを歴史という形で見た時、「それだけ」がクローズアップされるとするならば、そこにはなんらかの「意図」があるんだと思うのです。その意図に対して、さまざまな方向から光をあてないと、歴史から学ぶということはできないんじゃないかなぁと思うのですが…。
さらに、話の途中で前川さんが「低位性は部落だけにあるのではない。誰かが貧困であるとするならば、その原因がどうであれ、等しく保障されるべきである」という話をされたことに対して、次のような話が出てきました。
「他の貧困はそれが解消したらそれでいいかもしれないが、部落の貧困は、解消されても差別は残る」
あぁ…。久しぶりにこのフレーズを聴いたなぁ。
これに対して、前川さんは
「そのとおりです。だからこそ、差別をなくすためにともに闘っていきましょう」
と返されたのですが、おばちゃんにその真意をわかってもらえたとは思えないですね。
部落史の見直しが提起してきたことのうちのひとつは、貧困と差別をわけて考えるということだったんじゃないかと、わたしは思っています。つまり、貧困な状態の解消は、部落であろうとなかろうとやるべきであって、どこか・誰かを特別扱いするべきではない。そして、それとは関係なく、差別と闘いましょうというラブコールを前川さんは送っているんだと思ったのですが、たぶんそのラブコールは届かなかったんだろうなぁ…。でも、それを責めることはできないんだと思うのです。だって、まさに貧困と差別の中を生き抜いてきたおばちゃんにとって、それが現実であり、そこから物事を見つめ、考え、闘うわけなんですよね。

ん〜。いろんな意味で刺激的な講座でした。
次回も楽しみ…。

*1:どぶろく工場(マッコリのこと)や砧の洗濯シーン、長キセルなど

*2:当時、九条保健所勤務

*3:糾弾要項の中に書いてあるようです。

*4:「ネタ」と言ったらいいすぎかな

交流会の朝

朝早くに生徒が起きる音がしたので「なんだ?」と思ったのですが、どうやら顔をつくりに行ったみたいです(笑)。しばらく布団の中でゴソゴソしていたのですが、エイヤッと起きあがって、朝ご飯の仕込みです。といっても、きのうの扁炉をあっためて、あまったお米をおにぎりにして、卵焼きを焼いておしまいですけどね。
ひとつだけ工夫をしたのは、扁炉の味つけのバリエーションかな。塩・唐辛子だけじゃなくて、ミソをしょうゆを入れてお湯で溶いておいたのも出して、「みそ汁ふうにもできますよ」てことにしました。お椀におにぎりを入れて、ミソをちょいとたらして扁炉のスープをかけると、かなりおいしいです。
あとは、生徒たちの話を聞きながら、ネットサーフィンなんぞやって、合宿も終了→解散です。