自主的に…

最近雨続きなもので、どうしても通勤は車になってしまいます。
バイクだとipodをつないで適当な曲をかけているのですが、車の時はFMをかけています。かつては、某京都つながりの局をかけていました。行きの時間帯は、低音が響く人がキャスターをしておられるのですが、ん〜…。まぁいいや…。帰りの時間帯は、やたら元気のいい人がキャスターをしておられるのですが、こちらのほうはジェンダーバイアスは入りまくりで「お腹いぱーい」という感じ。なので、最近は無難なところでNHKを選択しています。
家を出るのがだいたい7時過ぎ。15分までは全国のニュースがかかっていて、20分まではローカルニュースがかかっているので、ちょうどいいです。
で、最近気になったニュース。
保険庁の職員全員にボーナスの50%〜5%を「自主的に返納」するように求めるというのです。なんでも、返納しやすいように分割も認めて、全員が自主的に返納するように促すとか。
もう、あまりにもムチャクチャですよね。んなもん、明らかに「強制」ですよ。
最後の一人になった日にゃぁ「君が自主的に返納したら全員だ」みたいなプレッシャーをかけるんでしょ?あまりにもおかしすぎますよ。
そうそう、そういえば、この国ではボランティアも全員にさせるんでしたっけ。まっとうに翻訳すると、「全員強制のただ働き」ってやつですか。やらされるほうもいい迷惑だし、受けいれさせられる方ももっといい迷惑ですよ。で、誰が満足するのかというと、強制した人間だけ、と。で、その人たちが満足する結果が出なければ「これほどやっているのに成果が出ないのは、現場の責任だ」とくるんでしょ?
いや、こんなもん、絵空事じゃないです。いままでさんざんやられてきましたよ。あたしたちゃ。
数学においてすら、迷走する学習指導要領のもと学習指導の筋道をずたずたにされ、その結果「学力低下」と断定されて、「免許の更新」とか「授業時数増」とか言われているわけですがな。
まぁ、この国にはこの国独自の「美しい自主性」があるんでしょうから、その自主性にのっとって「任命責任をとる」とか「領収書の公表」とかやりゃぁいいのにね。あ、このあたりで「自主性」を発揮すると除外診断になるか…。

年月を感じる…

今日は、朝から某在日外国人教育関係の会議。
午前は事務局会議なので、ウダウダと午後の会議の準備。適当なところで切り上げて、近所のラーメン屋さんに行って昼ご飯のビール(笑)。今日はなんかビールの味がおかしいので、店の人に「おかしいんだけど」と言ってみると、たしかにおかしかったらしいです。よかった。味覚がおかしかったわけじゃなかったんだ。で、ビールを交換してくれました。ちなみに、いっしょに行った人たちのうち数人はすでにビールを飲み干していましたが、なんか、ジョッキ半分くらいまた入れてもらっていましたよ。ええ店や…。
午後は運営委員会。ここで本格的に会議がはじまります。さすがに、各県から代表できておられるので、ひとつひとつの話はすごいです。状況への分析力もさることながら、情報量がすごい。このあたりはさすがだなぁと思います。ただ、たまに「え〜と、なんだったっけ…」などとど忘れする人が年々多くなっているので、そのあたりのフォローがわたしの役目です。ネットで関連するところを検索して「これこれですね」「そうそうそう」みたいな。ま、平均年齢50歳を突破しているので、しゃーないですわ。
で、夕方から飲み会。
みなさん、会議がメインか飲み会がメインか、よくわかりません。でも、とても楽しそうに飲んでおられるので、それはそれでよしとしましょう。いや、なんか今回は、そんな気がしたのですよ。ちなみに、飲み会も2部構成なんですね。もっとも、昼間とは逆に、コアなメンバーが後半残るわけですけどね。久々だったので、わたしも2次会に参加。みなさん、年金の話で盛りあがっていました。ふぅむ…。
1時間ほど飲んだところで、ちょうどお酒がなくなりました。どうするのかなと思っていたら、とりあえず店を出るそうな。こりゃ3次会突入か?どうするか?と考えたところで、「京都駅方面に行く人?」とか言っています。ありゃ?おひらきか…。時計を見ると、まだ8時です。
この人たちとは10年以上前からのつきあいです。かつては、11時になって「もう帰りましょう」といっても、「もう一軒」とか言って、ガンガン飲みまくっていた人たちが、8時に帰る…。なんだか、少しショックです。しかたないんだろうけどね。

大声

今日、10年ぶりぐらいに、マジで怒りました。まぁそれはそれでいいのですが…。
大声を出して怒ると、わたしの場合その反作用で、ストレスが逆にたまります。なので、ぜんぜんすっきりなんてせずに、いろいろ考えてしまいました。
それにしても、大声を出す時ってどんな時なのかなぁ。
職場にいると、たまに教員の大声とか生徒の大声とかが聞こえてきます。
教員の大声って、まぁたいてい「生徒を怒る時」です。で、生徒の大声は「反抗する時」と「遊んでいる時」かな。
生徒の方はともかく、教員の「怒る」ってどんなときなんだろう。たいてい、校則にどこかでふれたり、その他いろいろあって、そこに別の要員がプラスされた時に「怒る」んじゃないでしょうか。で、わたしはというと、そういう時、あんまり怒らないんですよね。せいぜい「注意」をする程度。つまり大声を出さないんです。じゃぁ、なぜ今日は怒ったんだろう…。
実は、「生徒の人権が踏みにじられた」と思ったんですよね。だから怒った。
そんなことを考えているうちに、「大声」には2種類あるような気がしてきました。
教員が生徒を怒る時って、たぶん生徒を威嚇しているんじゃないかなぁ。そうか、「威嚇のための大声」。
じゃぁ、生徒たちが遊びながら出す大声ってなんだろう。もしかしたら、感情が表面に出た時なのかな。そういえば、すごくうれしい時って、大声を出します*1。つまり、「感情表現のための大声」。
じゃぁ、人権が踏みにじられているのを見た時って、どういう時なんだろう。そう考えていて、気づきました。そうか、「痛い!」っていう声なんだ。だから大声が出たのかなぁ…。

*1:「必ず」ではないですけどね

授業をはじめる前に…。

授業をはじめる前に…。
どうやらいま、この国では「力」というものがまかり通っているようです。
ところで「力」には「権力」と「暴力」があります。いずれも、人を支配するための方法です。そうそう。この教室の中にも、実は君たち生徒とわたしたち教員の間に「権力関係」があります。そのことを忘れてはいけませんね。
では、「力」と対になる言葉は何でしょう?それは「言葉」です。そして、「言葉」と「言葉」をつなぐ営みが「対話」です。わたしは、君たちとの間に「権力関係」があることを意識しながらも、一緒のこの教室の中でできるだけ権力に頼らない「対話」をするように心がけているのですが、それはなかなか難しいものです。
ところで、昨日、「イラク特措法延長法」と「教育関連3法」が与党による強行採決で通りました。この「強行採決」という手法は、「対話」の対極にある方法、すなわち「暴力」であると、わたしは考えます。そして、こうした法律を通すことで、この国は着々と「戦争」への道を準備しています。この「戦争」も「対話」の対極にあるもの、すなわち「暴力」です。
では、「戦争」から何が生まれるのでしょうか?
「戦争」とは、限りない「消費」です。そこから「生産」されるものは何もありません。そして、その「消費」によって潤う一部の人たちがいます。では、その「一部」以外の人たちは?
「戦争」をするためには、莫大なお金が必要です。しかし、国家の総予算は決まっています。そうすると、なにかのお金をへつることで、戦争のための「予算」をつくりださなくちゃなりません。
そうそう、防衛庁が防衛「省」になりましたね。あれも、このための布石ですね。
この国では、「教育」と「福祉」のお金をへつって戦争へまわす選択をしました。
いま、「教育の再生」が叫ばれていますが、教育を再生(この言葉も変ですが…)するためにもっとも早い方法は、教員数を増やすことです。逆に言えば、一学級の人数を減らすことです。ところが、この国は、そういう方法をとりませんでした。できるだけお金をかけずに自分たちの意志を通すための「改革」を行いました。それが、「教育関連3法」です。
福祉については、もう言うまでもありませんね。
ところで、教育も福祉も、その対象となるのは、子どもや老人、そして障害のある人、さまざまな理由で貧困という状態に落とし込められた人。いわゆる、社会的「弱者」とされる人たちです。
いまから5年後、世の中はどうなっているでしょうか。おそらく「こんなはずじゃなかった」という世の中になっていることだと思います。たしかに、一部の人たちの消費によって、あたかも総消費はあがっているかのように見えることと思います。そして、それが「豊かさの象徴」であるかのような報道がされることと思います。しかし、それは社会的弱者との格差の拡大に他なりません。
そして、10年後、おそらく戦争の中にこの国はいると思います。
もしも君たちがそういう未来を迎えたくないならば、常にいまこの国で何が起こっているかということについて敏感である必要があります。そして、敏感であるためには、新聞やテレビといった報道に頼らないアンテナを、高く広くあげることが大切です。できれば、自分自身の力で情報にじかにふれること。それが無理でも、情報にじかにふれた人から情報を仕入れること。
昨日、わたしのある友だちは国会の前に座り込みをしに行きました。そして、参議院の傍聴をし、強行採決される様を自分自身の目で確かめました。そして、その情報がわたしのところにやってきました。
自分が動けない時は、自分とつながる人たちから情報を仕入れること。そして、そこから、「いま」「ここ」で自分が何ができるかを考えること。そして、それをすること。
いまわたしにできること・しなきゃならないことは、いま、ここで語ることです。やがて、こういうことができなくなる時が来るでしょう。でも、その時まで語り続けようと思っています。そして、もしも君たちの中でわたしと思いを同じくする人がいたら、仲間になってくれるとうれしいです。
10年後、わたしは教員をしているだろうか。わかりません。もしかしたら、居酒屋の女将をしているかもしれない。そんなときは、またなにかの方法で「店を開けたよ」という情報を流しますので、飲みに来て下さい。そして、語りあいましょう。
じゃぁ、授業をはじめましょう。教科書◯ページをあけて下さい。

いま、わたし(たち)は、強烈な不信感と憎悪の中に立たされています。そのことをひしひしと感じます。かつては真綿で首を絞める感じでした。しかし、いまは荒縄で首を絞められている気分です。
でも、今日も授業をしなくちゃ…。子どもたちと授業をきっかけにしながら対話を続けていくことが大切なんじゃないかなぁと思います。そうした淡々とした日常の営みから、反撃のチャンスを狙う以外、いまのわたしには方法がないような気もしています。
でも、これで負け続けてきたからなぁ…。

「研究授業」考

この時期、学校は「教育実習」の季節です。で、それに並行して、教員も授業を公開する、いわゆる「研究授業」があります。
これ、わたしはさほど抵抗がないのですが、いやがる人が多いんですよね。まぁたいていの場合は「見られるのが恥ずかしい」なんだと思います。で、「恥ずべき授業をしているか」というと、ぜんぜんそういうのじゃありません。それぞれの教員は、それぞれの経験にもとづいて自分の創意工夫をこらして授業をしています。あたりまえです。プロですから。たぶん、学校の中というより「美しい国(笑)」の「美しい価値観」として、そういうことは「一歩引いて…」というのがあるんでしょうね。で、「美しい価値観」を持っていないわたしみたいな人間が「抵抗ないけどなぁ…」と引き受けてしまうわけです。
ただ、いやがる気持ちがわからないわけではないです。というのは、めんどくさいんですよね。「授業展開案」というペーパーを印刷しないといけないんです。そこに「この教科の目的は〜」とか「この単元の目的は〜」とか「このクラスの生徒の情況は〜」とか、まぁさまざまなことを書かなくちゃなりません。たぶん、そんなの誰も読んでいないのにね(笑)。だって、同じ教科の人間だったらそんなもの書かなくてもわかるし、別の教科の人間だったらそんなもの書いてもわからない。さらに、「生徒の情況」なんて、同僚であれば書かなくても誰もが知っているわけです*1
たぶん、「展開案」というやつは、「お前書いてみ」みたいな感じのものであり、生徒の状況を知らない人に向けて書くものなんだと思います。つまり、「外部の人間に指導を仰ぐ*2」ためのものなんですね。まぁ、そういうのはわたしもキライです(笑)。
わたしが「ええやん」と思う研究授業(公開授業)は、そういう格式張ったものではなくて、互いに気軽に授業を見に行けるもの。他の人の持っているテクニックに学び、自分の持っているスキルを他の人にも公開するもの。そうすることによって、みんなのスキルアップがはかれると思うのです。で、もしも授業を批評するとするならば、生徒の「学びの状況」にもとづいて、それをどう引き出したか(あるいは、引き出すのに失敗したのか)というあたりを論議をする*3
わたしが考えるもっとも非効果的な研究授業のパターンはこういうのです。

  1. 授業案を書くためにたんまり時間をかける
  2. よそいきの教員とよそいきの生徒→よそいきの授業*4
  3. 終わってからの格式張った授業研
  4. 中身は、まずは担当者から一言
  5. 続いて沈黙(笑)→しかたないので順番にあてる→すると意見が出てくる*5
  6. 最後に指導主事からの「助言」

あー、時間がもったいない(笑)

*1:知らなければ、それは知らない教員のほうが問題

*2:たとえば、教育指導主事とかね

*3:このあたりは、佐藤学のパクリです(笑)

*4:お客さんがいるから、多少はしゃーないですけどね

*5:最初から意見を言おうよ!

歴史に残る日々

ぜったい変だと思います。今までだったら、とうてい考えられない。
この半年間で、いったいぜんたい何回「強行採決」をしてきたことか。
そりゃ、絶対的多数を与党がとっているんだから採決したら通るわな。でも、それって民主主義か?たんなる「議会制主義」でしかないんじゃないっすか?

この半年〜1年は、きっと「日本の戦史」に残ると思いますよ。

なんだかなぁ…

「人の死」にいろいろコメントをつけるのはあまり好きではないのですが…。それにしてもなんだかなぁ。
個人的には「政治的な殺人」だという気がしますねぇ。
でも、この死を利用しようとする勢力はきっとあるだろうな。
そうそう、I原ってどないかならんのか?「彼もやっぱり武士だった」っていう、あのコメント。

在日外国人教育セミナー

最近、いわゆる「新渡日」の人たちの状況や話を聞く機会が増えつつあるのですが、今日のセミナーは在日朝鮮人の人の話。
やっぱり、自分の出発点はここにあったよなぁと思うと同時に、20年前にはじめたころと何もかわっていない状況をあらためて感じさせられました。
話そのものは、まぁ「何度も聞いた」と言えば言える*1わけです。でも、帰り道に友だちと話をしていたのですが、「何度も聞くことが大切なんだよね」ということなんだと思います。それは、聞くわたし(たち)の態度の問題なんだと思います。「もう聞き飽きた」と受けとめるのか、「やっぱりそうなんだ」と受けとめるのか。日々の生活の中で、ともすれば薄れてしまいがちな思いを新たにしてくれる*2という意味で、「聞き続ける」ということが大切なんだろうな。
てことは、同時に、「語り続ける」こともまた、大切なんだろうな。

*1:もちろん、新しい話もいっぱいあるし「へ〜」と思うこともいっぱいあるのですが

*2:まぁ、そんなふうに搾取しちゃいけないんですけどね