わたしは白鳥…ちゃうなぁ…

6時間目の授業が終わって、ヒマなので教室でグダグダ生徒と雑談。最近ちょっとやる気をなくしている生徒と「どないしてんの?」みたいな話をしていると、横にいたその友だちが
「先生って仕事、ストレスたまるよね。心中お察し申し上げます」
と、えらいていねいな話をしてくれました。
「そやなぁ…」
とボーっとしたことを言っていると、別の生徒が
「でも、先生はストレスたまってへんやろ。のんびりやってるやん」
と、これまたズバリな発言。やられたな…。でもね、水面を優雅に泳いでいる白鳥も、水の中では…。

と思ったのですが…。
先日の健康診断の時に書いた問診票のことを思い出しました。こいつには自覚症状を書く欄があるのですが、あてはまる項目がほとんどないんですよね。たまにお腹がゆるい時もあるけど、たいていビールを飲み過ぎた翌日だし、だいたい、朝50分も寒空をバイクで走ったら、そうなりますわな。腰も最近痛くならないし、肩も凝りがマシです*1。「なんでかなぁ」と考えたら、最近猫背が治ってきたんですよね。「冴えないヒゲのおっさん」のフリをすることもないし、「上半身の一部(笑)を隠す」必要もありません。てか、今後のことを考えたら、姿勢良くしているほうがいいのかもしれないぐらいで(笑)。
そうそう、この間もパートナーから
「あんたの血液検査の結果みたら、正常値をはずれているマークがついているとこ見たら、全部女性の正常値におさまってるやん(笑)」
と言っていました。
なんか、トランスすることって、体にいいのか?

そうそう。体調がメチャ悪だったのですが、授業が終わったらずいぶんとマシになっていました。変や(笑)

*1:痛い時はたいてい前日に思いものを持った時で、原因がわかっている

ホーム

現在、わたしたちが集まりをやっている場所がなくなるかもしれないという事態が進行しつつあるようです。先日、「「場所」を確保するための話しあいがあるので来てほしい」という連絡があり、今日がその日でした。でも、パートナーの調子が調子なので、わたしが行くことについては断念せざるをえませんでした。で、代わりに行ってくれる人を探したのですが、若い衆がひとり「行きますよ」と言ってくれたので、行ってもらうことにしました。
その若い衆に趣旨説明をするにあたって、どう言おうかと思ったのですが、最終的にはひとことだけでした。
「あの場所がなくなったら困るやろ?」
それに対する答は「はい、困ります」だけ。これだけで、たぶん通じてしまうんだろうなぁ。
その若い衆、さらに若い衆を2人引き連れて話しあいの席に行ったそうです。その話しあいの席には行政関係者と運動体の他には一般利用者としてはわたしたちだけだったみたいです。そこで、3人はブイブイいわせたそうな*1
でも、あとでわたしに連絡をしてきた人から「ありがとう。ほんとうにいい話を聞かせてもらった。わたしたちも学ばせてもらった」という電話をいただきました。

その「場所」、長い闘いの中で先輩達が勝ち取ってこられた場所です。そこを今わたしたちも使わせていただいている。なぜいま、わたしたちが使わせてもらえるか。それは、勝ち取ってこられた先輩達は、わたしたちをより理解したい。そして、ともに歩みたいと思ってくださっているからです。そんな人たちと一緒の場だからこそ「集まり」ができる。
「場所」は「場所」であっても、単なる「場所」ではないんです。おそらくは、わたしたちにとっての「ホーム」になりつつあるところなんです。

考えてみると、わたしたちって「ホーム」がないんですよね。集まって住んでいるわけでもないし、生まれながらに持っているわけでもない。下手をすると、「親・きょうだい」こそがもっとも「ホーム」から遠い場合もあります。だからこそ、「ホーム」がほしいと思ったら、自分でつくりだしていかなくちゃならない。

いま、ようやく手にしようとしているかもしれない「ホーム」を奪われそうな事態になった時、若い衆が声をあげたのは、ある意味必然だったかもしれないです。そして、実はそれは、かつて「先輩」たちがやってきたこととある意味同じなんじゃないかとも思います。「集まって住んでいるからホーム」ではない。「生まれながらに一緒に住んでいるからホーム」ではない。「ホーム」はつくりだすものなんじゃないだろうか。
んなことを、ふと考えました。

*1:死語

温故知新

今の停滞期っていったいなんなんだろうと思ったのですが…。
O田さん曰く。
「国内の手術がほぼ絶望的な状態の中で、今の話題の主流って、「どこでやるか」「どのエージェントがいいか」「どうやれば紹介所が書いてもらえるか」みたいなことばっかりなんですよね」
そうなんですよね。なんか、技術論に終始している気がする。
「もともとGIDにかかわってきた人たちが考えてきたことって、そういう技術的なことじゃなくて、もっと思想的な部分を大切にしてきたんじゃないかと思うんですよ」
たしかに。「SRSをする」「戸籍を変更する」ということ=トランスではない気がしますよね。
「最近新しく受診者された人たちに、なかなかそういうのが届いていない気がするんですよ。でも、やっぱりそういうのを知らなくちゃいけないんじゃないかなぁ〜という気がするんですね」
なるほど、なるほど。
そんな会話をしていて、ちょっと元気がでてきたかな…。

昨日のエントリの続き

昨日の分の日記にはずいぶんとマスコミについて批判的なことを書きました。
で、実際に自分の場合はどうだったかというと…。
例えば、はじめて取材をされた某N局のN川さん。収録の前に何度かいらして、収録そのものも3日間。その後、放映ギリギリまで練りに練った台本を送ってこられて、最終チェックをさせくれました。そして、その後もおつきあいがあります。
最近の某A新聞(笑)のI田さん。4月から半年間かけて何度も何度も来られました。何度も何度もしゃべりました。おそらくは、本筋とは直接関係ない話もいっぱいしたし、I田さん自身のことも話されました。2回目・3回目については、ラフスケッチみたいなのを送ってこられて、ずいぶんと意見を言わせていただきました。でも、それをていねいに反映されたと思います。
他にも、突然メールをしてもきちんと対応して下さった方や、お猿の国(笑)から一時帰国の時にわざわざ会いに来て下さった方もおられます。
なんというか…。
少なくともわたしが出会ってきた方々は「一緒につくっていく」というスタンスを持っておられた方が多いんじゃないかなと思います。そういうスタンスだと、「つくる側の意図」は原形を保ちながらも少しずつ変わっていくし、それは妥協の産物ではないものでもあると思うのです。そして、わたしも単なる「素材」ではなくなり、「表現者」になれるような気がします。そんな人たちと出会ってきたから、なんとなく昨日のような「一般論」じゃない話になってしまうのが、わたしの感触なんですよね。

まぁ、甘いかもしれないです。でも、信じてみる道もあるのかな、と。

わかんないや…。

オープンに生きることと晒すこと

ある人とメールのやりとりがあった時「オープンに生きる」という言葉が出てきて、「ふむ」と思いました。
はたして自分はオープンに生きているんだろうか…。もう少し言うならば、例えばさまざまな取材に応じるって言うことは「オープンに生きる」ということなんだろうか…。
たぶんその答は「否」ですね。
取材に応じること、マスコミに顔出しをすることと、オープンに生きることって違うんだと思います。
マスコミに顔出しをすることは「さらし者になることを辞さない」ということなんじゃないかなぁ。
この世界は、ある意味「狐と狸の化かしあい」みたいなところがあるんじゃないかと思います*1。取材をする側は、「取材をしたい意図」があり、それを表現するための「素材」として対象者を「使う」。取材をされる側としては、自分に意図があったとしても、必ずしもそうはならないし、下手をするとぜんぜん違うところに行ってしまう。でもそれは当たり前です。前提にあるのは、しょせんは取材される側は「取材をする側が表現するための素材」でしかないからです。
で、さらにそれを受けとった人は、取材をした人の意図とはまた違う受けとり方をする可能性が大です。なぜなら、受けとめる人にはそれぞれの生活があり、それにもとづいて「受けとる」からです。
てことで、幾重にもねじ曲がりながら「マスコミへの顔出し」があるんじゃないかと思います。
では、なぜ「辞さない」か。それは、まさに「化かしあい」だということを前提にしての話なんだと思います。もう少し言うならば、「利用しあい」みたいな…。
てなことを考えると、マジで「オープンに生きる」こととは程遠いなぁと思います。

じゃ、「オープンに生きる」ってどういうことかなぁ。
きっとそれは、自分の生活を大切にし、自分の身のまわりの人を大切にし、そして互いに相手を認めあうような関係を、日々構築していくことなんじゃないかなぁと思います。
自分のしんどさを一方的に受けいれてもらうために「オープンにする」のは、実は「オープンに生きる」と言うこととは違う。相手のしんどさも受けとめてこそ、「オープンに生きあう」ことができるんじゃないかという気がします。そして、そういう人間関係を、自分のまわりに少しずつつくり、広めていくこと。そして、なによりも「蛸壺」に入らないこと。

そんなことを考えながら、はたして自分にそれができているだろうかと、あらためて自分に問いかけるのでありました。

*1:ちなみに、わたしはネコ(笑)

いまさらだけど…

「ネタ」って鮮度が大切だなぁとは思うのですが、ほとんど腐りかかっているネタです。
「某国技」の話ですが…。
ああいうのって、死に至ったから「事件」になったけど、実際には日常茶飯事なんでしょうね。で、国技だけじゃなくて、さまざまな伝統的スポーツにおいては、「しごき」なんていうのはよくあることでしかないんじゃないかなぁと。なかでも「国技」までいったら、一歩間違うと「伝統」のもとになんでもありという話もあるんじゃないかなぁ…。
いや、なにが言いたいかというと、結局、いまや死語にされてしまっている感のある「美しい日本」の伝統っていうのは、そういうものじゃないかということなんですけどね…。

あぁ、まだあのフレーズを強調してくれる人がいたら、もっとネタネタしい感じだっただろうになぁ…。

役割分担か?

職場からの帰り、ちょこっと郵便配達です。なにせ、京都府南部から京都市北部まで縦断するので、そうとういろいろなところによれるんですよね。
で、今日の帰りは某旧国立大学の教員の方3人に郵便を持っていきました。といっても、それぞれの方の研究室を覚えているわけがないので*1、しゃーないから学校のポストに入れてやれということで、とりあえず守衛さんのところに行きました。
「あの〜、郵便物を持ってきたのですが…」
「それは、事務室に持っていってください。ここではあずかることはできません。あ、バイクは入れませんから」
てことで、事務室の場所を聞いて、バイクを押して歩きます。で、事務室のある場所は…、坂の上です(涙)。
事務室といってもひとつじゃありません。いろんな部屋にわかれていて、どこに持っていけばいいのかわからない。たまたまそこを通りかかった事務室から出てこられた人に聞きました。
「あの〜、郵便物を持ってきたのですが、どこに持っていったらいいでしょうか?」
「あ、それは2階です」
てことで、2階に行きます。ようやく見つけました、総務部。
「あの〜、郵便物を持ってきたのですが、ここに持って行けと言われたので来たのですが、どうしたらいいでしょうか?」
すると、総務部の方が3人も来られて思案しておられます。
「あの〜、この大学の教員の方のところに持ってきたのですが…」
しばらく封筒をながめておられます。
「あの〜、この3人、ご存じないですか?」
「いや…。あ、あずかります」
「よろしくお願いします。ところで、この学校にはポストはないのですか?」
「ありません。ここで受けとります」
「じゃぁ、これからもここにもってくればいいですか?」
「はい」
「では、よろしくお願いします」
で、事務室を出ました。それにしても、郵便屋さんが持ってきても同じ対応をしているのかなぁ…。役割分担がはっきりしているなら、それぞれの役割はテキパキやったらいいと思うんだけど…。

あ、ウチの学校だとポストに入れたらおしまいです。他の某私立総合大学では、守衛の方が快く受けとってくださいました。で、「これからもここでいいですからね」と暖かい声をかけてもらいました。なにが違うんだろう…。

*1:てか、2人まではなんとなくわかります。一人は全然知りません

速報を聞いて

教職員劇が終わって一息ついた頃、職員室にひとつの情報が流れてきました。
「安倍、やめたらしいで…」
「へ?」

「エライ早いな」「なんで今やねん」さまざまな思いがかけめぐったのですが、やがてなんとも言えない怒りがわき起こってきました。
一切の選挙を経ずに総理大臣になり、自民党公明党の圧倒的多数を背景に強行採決を繰り返し、日本の航路を大きく右側に切った1年でした。そして、参議院選挙の大敗を背景にもやめなかった安倍は、アメリカへの忠誠を尽くすのが厳しくなった時点でやめるという。
ヤツはいったい、なにがしたかったんだ?
ヤツはいったい、誰の方を向いていたんだ?

しかし、もう少し続けていてくれたら、もっとにっちもさっちもいかなくなって、もっと深く泥沼の中に入っていっただろうに。ちょっと残念だよ(薄笑)。

ルサンチマンとあこがれをもう少し

シンポの後は懇親会。懇親会の席では、いろんな人といろんな話をしたのですが、中でも最後の問いは、自分としてはとても興味があったので、懇親会の最後に明秀さんのところにいきました。
シンポの時に、わたしは「セクシュアルマイノリティの場合、階層などには関係なく普遍的に存在する。だから、すべての当事者が「権力」へのルサンチマン・あこがれを持つわけではない*1そのために、その切り口で語ることが難しいんじゃないでしょうか」ということを提示するにとどまったのですが…。でも、明秀さんにとっては、それなりに腑に落ちるところもありながら、考えるところでもあったようです。
ついでに言うと、セクシュアルマイノリティというくくりもかなり大雑把ですよね。ゲイとレズビアンとではぜんぜん違うし、トランスだってMTFとFTMではぜんぜん違う。なので、それらをひとまとめにして、一つのルサンチマンにもっていくのは相当無理があるんだと思います。でも、「MTFは「若い女性」という記号へのルサンチマンとあこがれがある」とか言われたら、「そりゃそーだ(笑)」となる可能性は大ですよね。でも、そんなもん、運動にも何もならないわけで*2、明秀さんの話との接点は持ちにくいだろうなぁ…。

*1:逆に言うと、持つ人「も」いる。

*2:逆にジェンダーバイアスにまみれている話なわけで…

三角比の導入

てことで、1年生の授業は三角比の導入。
通常三角比の導入は直角三角形の辺の比で説明するのですが、ここ数年、「う〜ん」と思っています。なので、2年前から「バックネットの高さを測ってみよう」という問題からはじめることにしました。
いきなりこういうお題を出すと「わからへん」とか言うのですが、「なんしか考えてみ」と、とりあえずやらせます。まず一番多い答えが「巻き尺を持ってのぼる」です。当たり前ですね。
そうそう、ツールとしては、巻き尺と分度器を使うことにしています。今年の秀逸な答えは「分度器をおもりにして巻き尺の先っちょを投げて、バックネットの最上段を越えさせて地上まで落とす。そこではかった長さを半分にする」というの。ちゃんと分度器を使っているので、思わず「正解!」
で、そこから対象までの距離と仰角を使ったらいろいろできることを説明します。ちなみに、ここではタンジェントを使うのですが、「底辺が1の直角三角形において、仰角がAの時の高さをtanAとする」という言い方で説明をします。なぜこういうふうに説明するかというと、Aの大きさと高さに相関関係があることが直感的にわかるということと、tanAがひとつの数値をとるということが直感的にわかるということなんです。つまり、三角比の表には「直角三角形の高さの一覧表」が書いてあるという説明になるんです。
同様に、sinとかcosは、斜辺が1の直角三角形の高さや底辺の一覧表というふうに説明をします。
で、一通り測量問題をやったあとで、「じゃぁ、逆に辺からsin,cos,tanを求めてみよう」というふうにして直角三角形の辺の比にもっていきます。で、こいつも「表を使えば角度がわかるよね」というふうに、具体的な数値に持っていく。
とりあえず、すべてを具体的な数値の問題にして定着をさせてから、一般化をしていきます。
こんなやりかた、どうですかねぇ…。

そうそう、このやり方、もう一個メリットがあって考えたり作業をしたりする時間がけっこうあって、モロに授業をしなくてすむので、夏休み明けのリハビリにちょうどいいんです。てか、こっちが理由か(笑)?