すんごいウケたo(^^)o

今日は浜田ろう学校・養護学校の合同研修会です。ちなみに、この研修会、県の高人教や市民の方々にも公開しておられるとか。こういうあたり、島根県ってすごいですね。

とりあえず、10時にお迎えに来られたので、車に乗せてもらって「ろう学校」へ。ここであいさつをして、その後学校内の見学をさせてもらいました。この学校、なんと幼稚園部から高校部まであって、しかも全生徒数が10人!ほんとうにこぢんまりとしたところではありますが、その中で豊かな教育がおこなわれているんだろうな。
廊下に出て、まず目に入ったのがこれ!

テンション、あがりまくりです。
校内には聴力検査のための無響室もあります。文系になったはずなのに、30年以上前の音響研の血が騒ぎます(笑)。
いろいろ教室を見ているうちに、不思議なことに気づきました。教室の後ろに鏡がある。

はじめは幼稚園部だったから「まぁ、いろいろあるんだろうな」と思っていたけど、小学部にもあります。と、そこで「あーそうか!」って気づきました。これ、口話の練習用なんだ。ということで、案内して下さっているN島さんに聞くと、かつては教員と生徒が並んで、口の形をチェックしていたんだとか。なるほど、そういうことか…。もちろん、現在は手話がメインなので、この鏡は使われていません。なので、ある教室では鏡の上にも掲示物(笑)。

なんでも、この学校は美術工芸に力を入れているので、美術室からはみ出た掲示物があちこちにあったりして、なかなかおもしろいです。理科実験室には立派な天体望遠鏡があります。天文部なんかをでっちあげて、あの望遠鏡を使って、グランドで公開の観望会とかやったら、メッチャおもしろそう。そうなると、天文部はもちろん合宿で焼肉とかね。ビールがおいしいだろうなぁ。
こんな学校に10人しか生徒がいないのって、すごくもったいない。もっといろんな子どもたちがここに入学したらいいのになと思ったのですが、考えてみると、この学校「聴力が低い」という、ものすごく高いハードルがあるんですよね。いっそ、そのハードルを取っ払って、「聴力が低いことが望ましいが、低くなくてもOK」とか、「聴力の低い子どもを優先的に受け入れるけど、定員に余裕があれば聴力が高い子どもも受け入れる」とかしたらおもしろいだろうな。で、もちろんこの学校における公用語は手話。通常は、「普通学校に障害のある子どもを」って考えるんだけど、逆に「障害のある(とされる)子どもの学校を開放する」という形でインクルーシブな学校を実現できるかもなどと、妄想を膨らましてしまいました。いかんいかん^^;;

学校を見せてもらったあとは、お昼ごはん。
「どんなところに行きたいですか?」
「地元の人の行く定食屋で」
「ほんとですか?」
「はい」
といって連れて行ってもらったのが「みのり食堂」です。ここ、ほんとうの古くからやっている定職屋さんだとか。たしかに、地元の「にーにー」とか、「おじい」がやってこられました。なるほど。ここで、日替わり定食のタラフライを食べて、いよいよ会場へ。
会場の椅子は、なんでも100人分くらいは並べてあるということなんですが、何人来られるかさっぱりわからないとのこと。事前に校長室で話をしていた時に「前に益田で同じ話をされたなら、どうなるかなぁ」という話を聞いていたので、これはガラガラかなと。ところが、会場に入ると満席です。てことは、きっとみなさん、4年前は来られなかったなと。
ということで、調子に乗って話しはじめたのはミッション1です。これ、ウケなかったらすごくきついんですよね。リカバリーが容易ではないです。浜田は漁師町で、あまり笑いがとれないという噂もチラホラ聞いていたのでどうなることかと思ったけど、みなさんメッチャ反応がいい!なんか、前の人の頭をよけるように身体を傾けてこちらを見ながら笑って下さっている人なんかもおられます。となると、わたしも調子に乗るわけで、一番わりを食うのは諏訪通訳者の方だったりするのはお約束です。てか、ろう学校主催の研修会で手話通訳者を困らせてどうするねんという話もありますよね。基本的には緩急をつけて話をするようにしていて、「緩」のところはけっこうゆっくり話をしてるつもりなんですが、「急」がマジで早いんだろうな。まぁ、一番早いところは、自分の口も追いつかないのですが、それもまたリズムというものです。ついでにいうなら、そういうところはマジでどーでもいい話なので、個人的には「翻訳、飛ばしてもいいですよ」と思っているのですが、まぁそうはいきませんよね。
それにしても、今回困ったのは、終盤にある「知識編」です。ミッション1の原型は2002年あたりにつくったので、「知識編」のつくりもそういう形になっています。ちなみに、ミッション2やミッション3では、説明のしかたがずいぶんと違います。が、「説明」は話に組み込まれているので、これをそう簡単に変更することはできないんですよね。まぁ、ジェンガの下の方のピースを抜く感じです。ただ、今回は少し時間的に余裕があったので、わずかながら変更を試みました。うん、もしかしたらいけるかな。さらなる変更は、今後の課題ということにしましょう。
ということで、2時間いっぱい使い切って、お座敷終了です。メッチャ大きな拍手に、ものすごく元気をもらいました。

旅ガラス

で、駅まで安全かつすばやく送っていただいたおかげで、なんとか予定した電車に間に合いました。
ここからは、新大阪までいって新幹線に乗って、広島まで行ってバスに乗って、到着したのは日本海側のH田市です。
とりあえずホテルにチェックインして、コンビニでチューハイを買って、部屋呑みです。あー、クールダウン(笑)。

素直であることの大切さ

で、大阪府南部の街へ。ここ、前にも来たことがあるなと思ったのですが、やはり前にも来たことがありました。
で、今回は、小学校+人権教育研究会の男女共生部会の研修会だとか。話の内容はミッション3です。
ちなみに、呼んで下さった校長さん、めっちゃおもしろい!こんな人が支店長ならやりやすいし、心強いだろうなぁ。
で、話しはじめたのですが、これがまた話しやすい。校長さんのキャラが教員のみなさんにしみわたっています。それは、素直さと謙虚さと前向きな姿勢なのかな。今回は、わたしの話を吸収しようと思っておられるんでしょうけど、それはなにも研修会だからという感じじゃないんですね。そもそも姿勢そのものが「吸収したい」という感じなんですね。たぶん、教室の中でも、子どもたちの姿から学び吸収し、それを子どもたちに返すという態度をとっているんじゃないかな。そんな姿勢が見え隠れしています。もう、このまま延々と話をしていたいくらいに楽しいのですが、そんなことも言っていられないので、とにかく与えられた2時間に5分オーバーして終了です。
なんでも、あとから
「いつきせんせいが普通の早さで話をされていたら、5,6時間かかってたかなぁ」
「ということは、めっちゃお得ということやなぁ」
という会話があったと聞かされて、メッチャうれしかったです。

メッチャ懐かしい再会・全国在日外国人教育研究大会(2日目)

朝、分科会の会場に入ると
「いつきさん!」
と声をかけられました。そちらを向くと、もっとも初期にカミングアウトしたうちのおひとり、全国キリスト教学校人権教育研究会のM内さんがおられました。この方
「男時代のいつきさんは怖くてしんどくて、とてもしゃべりにくかった。でも、そうだったんだ」
って受けとめてくれた方です。なんか、あの時の気持ちは今でも覚えています。教員をやめられてから、今もとても地道に、でも素敵な仕事をしておられます。
そんなこんなで、M内さんとしばし思い出話とか、近況報告とか。
で、分科会がはじまったので参加。在日朝鮮人ハンセン病の話を聞きに行ったのですが…。
とてもよかったです。よかったんだけど、レポートじゃなくて講演ですね。ま、講演でもいいんですけど、なんかちょっとさびしいです。昨日の全体会もだったけど、揺らぎのない話はおもしろくない。まぁ、おもしろさを求めることそのものが間違っているのかもしれませんが、でも、「完成された語り」の場ではないところで「完成された語り」を聞くと、ものすごく違和感があるんですよね。さらに、質疑応答というか感想というか、それが、あまりにもです。簡単に言うと「称賛」です。だから深まらない。
強烈な違和感を感じた分科会でした。まぁ、予想はされていたのですけどね。
まぁ、そんなこんなで、今年の全外教の大会は終了。

つくづく「揺れ」とか「葛藤」とか「逡巡」とかが好きなんやなぁ・全国在日外国人教育研究集会

朝、目が覚めると畳の上です。これは身体がきつい。昨日の夜メイキングしたベッドに移動すると、すでにみなさんは朝の準備をされてます。マジか…。それでもしばらくゴロゴロして、体調を整えて、朝ごはん。コロッケパン、おいしい。
で、子どもたちは班討論の部屋に行きました。わたしは…。本部待機ということで^^;。でも、ところどころで入ってくる情報で、いろいろ考えます。もしかしたら、テコ入れの方法がまずかったのか?でも、今からではもう遅い?みんなにがんばってもらうしかないか?いや…。
てことで、アチコチの班を見てまわったのですが、おもしろいですね。見事にそれぞれの班の個性が出てきます。しっとりと小声で話しあう班のもあれば、ワイワイにぎやかな班もあります。終盤になって、みんなで論議した内容をポストイットに書いて模造紙に貼り付けていくのですが、ここでもきちんと並べる班もあれば、思い思いのところに貼る班もあって、個性が出ます。
で、全体会。みんなの前で発表しているみんなの顔を見ると、さきほどの心配が杞憂であったことがわかります。それぞれの班が自分たちの経験や思いを出しあって、みんななりの「社会化」をしてきたんだなということが伝わってきます。
ある班のある中学生が、昨日の夜書いたというラップをみんなの前で披露してくれました。ひとりは関東から、ひとりは関西から、ひとりは九州から。出身もエスニシティナショナリティもすべて違う3人が出会ったのは去年の交流会です。なのに、その3人がラップを歌い、DJをし、ダンサーをする。そんな風景を見て、「20年以上かかわってきたんだなぁ。続けてよかったなぁ」と思い、なんか、涙が出てきました。
で、卒業生の車に乗せてもらって、全体会の会場へ。子どもたちは、ここで大人たちへ向けてアピールをします。全体会の会場に入ると、某人権教育研究会の友だちが来ています。かなりうれしかった。
で、アピールタイム。みんな、さっきの発表よりもスムーズに話をしてます。でも、じつは荒削りな方がおもしろいんですよね。そして、そのおもしろいのが聞けるのは、交流会の世話人だけです。そんな楽しさを他の人に伝えられたらいいな。
そんなこんなで、今年の全国交流会も流れ解散。
その後、全体会の会場にもどって外国人教員のシンポジウムを聞きました。が、ねむい。しかも、みなさんしっかりしておられるので、逆に単調。おそらく外国人教員がいることの「すばらしさ」とかは伝わるんでしょうけど、迷いとかブレとか、その手のものが伝わってきません。これは個人的にはきついです。みなさんの元気な声が、逆に子守唄になって、ついウトウト。気がつくと、残りあと5分。「しまった」と思ったけど、時すでに遅しです。
あーあ(;_;)。

久々のフル参戦

朝、嵐の予感がする中、パートナーを接骨院に送ったり。さらに、嵐の中の買い物に行ったり。そうこうするうちに、出発の時間がきたので地下鉄に乗って、京都駅へ。
今日から明日は全国的在日外国人生徒交流会、明日はから明後日は全国在日外国人教育研究集会です。
てことで、ゼンコーなわけですが、最初からの参加はほんとに久しぶりです。ここ数年、どこかから行くとか、そもそもみんなから参加をとめられたりとか(笑)。まぁ、今年ももともとは福岡から行く予定でしたから、ほんとにアカンやつだと思います。そんなわたしでも、みなさん「ええよ」と思ってもらえるのがうれしいです。
基本的に、わたしの役割はサポーターをしてくれる卒業生の元締めです。てことで、到着したら、京都の子どもは他の人に任せて、卒業生の役割分担をしたり、悪巧みの作戦会議をしたり。
で、交流会開始。今年の実行委員、すごいな。いや、例年すごいんだけど、今年の子ら、すごくいい感じでみんなをのせてます。さらに、卒業生も混じって、はじめての参加の子らの硬さを溶かしていきます。まさに「Ice Breaking」って感じです。
そうこうするうちに、班別討論。わたしはしばしごろ寝(笑)。
その後、晩ごはんですが、ハンバーグのお味は…。冷凍食品を自然解凍してそのまま出した感じです。教員はみな、黙々サクサク食べてしまっている感じです。わたしも黙々と食べました。
その後子どもたちは班別討論。教員はおふろ。わたしもおふろ(笑)。
で、班別討論が終わると、またまたわたしの役割の実行委員ミーティング。みんなで今日一日の討論の状況をシェアして、明日へ向けての方向性を確認する時間です。こないだのゼミみたいな時間ですね。
それにしても、ここでやってることって、ほんとに高度なんだなって思います。つまり、ここの経験の中に埋め込まれて不可視化されていることを、経験のシェアを通して社会化し、可視化させるって話です。まさに、CR(consciousness raising)です。そしてそれをピアな立場である実行委員たちがやるわけです。子どもたちのミーティングを通して、その難しさをあらためて感じました。
なんか、ちょっとやり方を考えなきゃならんな…。
てなもやもや感をもったまま、教員の情報交換会→卒業生の懇談会で、案の定クズになりましたとさ(笑)。

間の日

ほんとは今日は大分の→福岡の移動日のはずでした。でも、家に帰ってこられたので、完全休養日です。とは言え、溜まったメールの返信とか、送ってもらった原稿のチェックとか、たまりまくったブログの更新とかしていると、あっという間に7時です。
風が強くなったきたので、庭の屋根の脚をはずしてみたり。で、お風呂入って、ビールを飲んで、テレビの前に座った瞬間に、14日締め切りの原稿が来ているのを思い出したのですが、無理やな(笑)。
まぁ、明日からの移動のどこかでできるでしょう。

おふとんに入って目を閉じると、風がまたまた強くなってきたみたいです。明日、大丈夫かなぁ…。

帰途

朝起きて、しばらくH上さんとかHぼんさんとかMさんとかでいろいろ話。まぁ、さすがに二日酔い気味なので、クールダウンですね。それにしても、差し入れのパイナップルとマンゴーとドラゴンフルーツがおいしいです。こんなのが普通に食べられるのが南の島なんですね。
で、お土産の買い出しです。とはいえ、買うのは「南の島」の風を呼ぶ「コーレ−グース−」とマンゴーと海ぶどう。それだけでも十分です。みなさんにマンゴーの養生をしてもらって荷造り完了。あとは那覇空港に向かうだけです。
ここでH上さんとはバイバイ。
一路那覇空港を目指して、空港近くの「大一食堂へ。安いわ。ここで、ビールを2杯呑んでしまいました。だって、生のジョッキ300円だもん。さらに、テビチの煮付けとかソーキそばとかカツ丼とか。カツ丼は本土ふうでちょっと残念でした。
なんでも、沖縄は食事は安いけど、日用雑貨や水道光熱費は高いとか。うーん、食べるだけでは生活できませんからねぇ。
ということで、空港に入ってチェックイン。その後、ロビーでしばし遊んで、海ぶどうの高さに空港の売店をこっそり罵倒して、HぼんさんとMさんともバイバイ。ほんとにお世話になりました。また次回もお世話になると思います(笑)。
で、わたしはセキュリティーの中へ。やがてやってきたjetstarに乗って…。離陸するのに50分ほどかかりました。なんでも大渋滞だったとか。
あとは関空について、はるかに乗って、家に帰ったら、メッチャビックリされました。そりゃそうです。12日まで帰らない予定でしたからね。
てことで、今年の夏の(笑)沖縄も終了。
メッチャ濃いかった!

なんか、沖縄に魅せられてるなぁ…。

3丁目

で、向かったのは名桜大学
と、道中、一本のメールが…。
「台風の影響で7日のお座敷は中止」
ありゃぁ。でもまぁ、台風には勝てません。急遽、明日出発の関空行きのjetstarを押さえてしまいました。よく座席があったな。
で、名桜大学到着。
ここに「語れない想いのBar」というのがあって、その活動の一環として「3丁目」というのがあります。今日は、その話しあいの場所に乱入です。というか、わたしが行くのでやるという説もありますが。
学生のみなさん、試験中・実習中にもかかわらず、とにかく用事が終わって駆けつけたという感じで、はじめは10人いるかどうかだったのに、最後は20人ぐらいまで増えて、座れるのか?という状態でした。
話の方もおもしろかったです。はじめは「セクマイについてのピアエデュケーションの講座を聴いた時、まわりの人が「知識を得ることで理解できる」みたいなことを言っているのを聞いて怒りがわいてきた」みたいなネタを投下してくれた2年生がいて、そこにみんながくらいついていきました。さらに「受け入れる」みたいな言葉が出てきたので、ここぞとばかりにわたしも「「受け入れる」という言葉でいいのか?」みたいな燃料投下をして、そこから延々と話しあいが続いたりして。
ちなみに、3丁目は、別に結論を出すとかどうとかいうことではなく、safetyな場でdialogueをするということがコンセプトなので、こんなのでいいんですよね。
で、2時間ばっかの話しあいの時間はあっという間にすんで、ここからはお楽しみの呑み会です。向かったのは「やんばる酒場・ななまる」というお店。ここで、みんなで呑んでしゃべって、楽しい3時間を過ごして、ふたたび話しあいをした合宿所へ。
でももうわたしはフラフラです。ほんの少し水分補給(笑)をしたら、そっこう爆睡したようです。
まぁ、そんなもんだな。

今日もフィールドワーク

朝、Hぼんが迎えに来てくれて、今日の行動開始です。
まずはマメタとクリコにお別れのごあいさつ。来年も来たいな。
で、読谷村に向かいます。

  • American village

読谷村に向かうためには国道58線(「ごっぱち」と読む)を走ります。この道、いざとなれば滑走路にも使えるし、ベトナム戦争の時には軍需物資を満載にしたトラックが走っていたとのことで、広くまっすぐで、しかもおそらくは分厚いアスファルトが敷いてあるはずです。まぁ、国道1号線も同じようなものですか。
読谷村に行くためには、途中、北谷を通ります。ここにAmerican villageなるところがあります。

うーん、まぁアメ村ってことですね(笑)。にしても、これもまたもやもやします。
ちなみにこのあたり、米軍払い下げの住宅が立ち並んでいます。「これ、ニコイチちゃうん」みたいな住宅もあって、たぶん、どのクラスかでずいぶんと住宅も違うんだろうな。途中にあったお店が「グロセリー」とか書いてあって、「雑貨屋さん」ではないわけです。

いろいろおもしろい。

  • 米軍上陸の地

続いて、比謝川の河口に移動。ここに泊城公園があります。その中に、米軍上陸の地碑があります。

ちなみに、ここに入るための入り口がわからない。かなりウロウロしました。
この地碑から見える比謝川の河口。

72年前の4月、ここから沖縄地上戦がはじまったんですね。
まずは、北谷の北飛行場が陥落。そして、嘉数高台が陥落。そして、シュガーローフが陥落して、首里城陥落。ただ、シュガーローフ以前はあまり重きを置いていなかったのか、ここでは無血上陸だったとか。北飛行場もあっさり引き渡したけど、あまりにもあっさりすぎたので、大本営は「奪還せよ」との指令を出したとか。で、ちょこっと奪還作戦をしたものの日本軍の被害のみだったとか。てか、そんな奪還作戦、人の命が奪われるだけやんか。ほんとに「ベンチがアホやから野球できへん!」なんですが、ことは野球じゃなくて、命がかかっているわけです。
そんなことを考えながら、次の場所へ。

比謝川の河口からしばらく行くと「torii station」があります。

そこからしばらく行くと、「読谷村役場」があります。ここもまた米軍返還地です。もとは飛行場だったとか。それを返還されるにあたって、どうするかということで、平和の街をつくるためにここを使うと言うことで、まずは役場をつくったと。まわりにも「平和」の冠がつく施設が一杯あります。役場の屋根は赤瓦。決意を感じます。

役場のまわりは広い原っぱです。
「ここの土は素手で触ったらダメですよ」
と野入さん。なんでも、枯れ葉剤みたいな薬物のドラム缶が一杯埋まっていて、それが染み出ているんだとか。だから、住宅地に転用ができないとのことです。
役場に入ると、「第30回平和創造展」の展示がありました。

すごいな。と思ってみていたのですが、横を見ると、なにやら資料を発見。「持ち帰らないで下さい」と書いてあります。でも、ほしい。
と、野入さん「もらいに行きましょう」。マジっすか!
で、役場の人に交渉。もらってしまいました。

野入さん、さすがは社会学者です。にしても、これ、メッチャ貴重な資料ですよ。ワクワク。

  • 恨の碑

ここで、いつものMりさんと合流。向かうは「恨の碑」です。「恨」は「ハン」です。
「へー、沖縄にも恨(ハン)という感情があるんですか?」
「違う違う。ここは朝鮮人の碑」
ほんとに何も知らないわたしです。「恨の碑」は小高い丘の上にありました。入り口には亀甲墓。その奥にあります。

これは、沖縄に連れてこられた朝鮮人の慰霊碑です。作者を見ると「金城実」とあります。とても有名な彫刻家ですが…。
い「金城さんって、単なる酒飲みらしいですね」
M「こないだくだ巻いてるの見ました」
などという身もふたもない会話をしていたのですが、それはそれとして、この間の「沖縄戦の図」にしろ、この「恨の碑」にしろ、朝鮮人を巻き込んでの地上戦であり原爆であったということが、よくわかります。

ここで、お昼ごはん。向かったのは、「海民食堂」です。おいしいお魚と天ぷらを満腹になるまで食べて、さらにわたしはビールも呑んで、そんな状態で向かったのが「チビチリガマ」です。

さっきまでの「おいしい!」とかいう気持ちが一気に沈みます。もちろん沈まなかったらおかしいです。ガマの入り口には遺族会から「入らないでくれ」という看板が。そりゃそうです。
ガマの隣にある「平和の像」はかつて壊されて、現在のものは再建されたものだとか。なにがあろうとも、壊す神経がさっぱりわからないのですが、そんなことがあったんだ。怒りがわいてきます。そして、この像も金城さん作。きっとすごい人なんだろうな。いろんな意味で。
振り向くと蔦の生い茂る風景があります。

ここで自決した人たちの無念と怒りと、そしておそらくは「恨」としか言いようのないであろう感情が、なんとなくそのあたりに漂っています。言葉を失ったまま、次の場所へ。

読谷村毒ガス事故があったりして、そういったことから周囲から排除の対象になったとか。そんな中、読谷村を平和の村として復興させるひとつの手段が「やちむん」でした。なんでも、全沖縄から意見に賛同する優秀な陶芸家を4人集めてはじまったのが「やちむんの里」です。
ということで、到着すると、登り窯があります。

向こうにある建物を見ると、中で「ニライ」がろくろをまわしてそうな感じです。

と思ったら、ほんとうにそうだったみたいです。
とりあえず、北窯売店に行って、家用に茶碗を4つ買いました。もしかしたら松田きょうだいのどちらかの制作かもしれないのですが、そういうことを問わないのが、ここのモットーだとか。
その後、がらりと違う「ギャラリー囍屋」へ。ここでしばし目の保養。

ということで、今回の沖縄フィールドワークはすべて終了。58のバス停で野入さんとおわかれです。また、来年よろしくお願いします!