今日は、全学年一斉の人権学習の時間。1年生は「障害者問題」、2年生は「ジェンダー」、3年生は「就職差別」についての学習です。
人権学習が終わって帰ってくる人たちを職員室で待っていました。けっこうみなさん楽しそうに帰ってこられて、正直ホッとしました。ジェンダーにかかわる話がちょっと心配だったんですけど、ある人は「時間が足りなかった〜。でも、いろいろ話ができたし、これはあくまでもきっかけですもんね」。うれしいなぁ、よぅわかってはるわぁ。ある人は「生涯賃金の話の時に「先生のところは奥さんの方がたくさんもらってんやろ」っちゅう質問があってなぁ「はい、年功序列です」と答えてん」。ええなぁ。人権学習って、結局は自分たちの生活を語ることやし、テーマはあくまでもネタやと思うんですよね。
やる前はしんどいけど、やったあとはそれなりに充実した時間になるのが人権学習のおもしろいところなんですよね。
で、
とそこへもう一人。「ぜんぜんやった。こんなんやるのムダや。こんなプリント捨てよ」と、えらいおかんむりです。この人です。鬱陶しいので、別のところに用事があるフリをして職員室をいったん出ました。で、時間を見はからって再び職員室へ。「どない?」と聞くと…。
「あの人ね〜、ムダにしたのは自分なんだっていうことにぜんぜん気づいていないね〜」。そうなんですよ。別に、自分の考え方と教材が食い違っていたら、自分の考え方を言えばいいんですよ。ここの教員の考え方を抑圧するんでは人権学習とは言えませんから。たとえば極論ですが「差別は社会に必要だ」という主張をする教員がいたとして、その教員が人権学習の時にその話をしてもかまわない。大切なのは、その時に教員という権力を振り回さないこと。生徒や他の教員とタイマンをはること。
「反差別」という思想は、天から降ってきたものじゃないです。「痛い!」と思った人間が*1少数ながら声をあげ、「そんなん痛いと思うのはおかしいわ」「んなこと言うても痛いもんは痛いねん」というようなやりあいをする中で出てくる、ダイナミックなものだと思うのです。だから「正しさ」なんてありません。じゃなくて、「自分はどう生きるのか」ということを考え・実践することを通して、変化していくことなんだと思うのです。
一番ムダな時間を過ごしたのは、実は一緒に時間を過ごすことを余儀なくされた生徒たちだったんだと思うんだけどなぁ…。
*1:これは、必ずしも「当事者」とは限らないことは、こちゅかる子さんのコメントhttp://blog.ituki-d.net/20060613#c1150470130の通りです。