「非当事者」がいる意味

この在日外国人生徒交流会に、日本人生徒*1の参加を認めるかどうかについては、そうとう論議がありました。でも、最終的には「それぞれの生徒の引率教員・所属する地域が判断する」ということで決着がつきました。その結果、今回も10人程度の日本人生徒の参加がありました。
この交流会では、ルーツ別討論という時間があり、日本人生徒は「日本」という班に入って討論をします。で、わたしは昨年からそこの班の担当教員になっています。
この交流会に来る日本人の子どもたちの動機はさまざまです。いわゆる「国際交流系・異文化体験系」の子もいれば、朝文研活動をしている子もいます。さらには、外国人の友だちとほんとうに深いつながりをもっている子もいます。
まずは、そういった動機を聞き出しながら、交流会に参加するかぎりは「知る」だけではなく、そこからもう一歩踏み出したつながりをつくるためにはどうしたらいいのか。それを考えるのにまたとない機会だと思います。いや、ふだんも考えられないことはないんだろうけど、やはりそれを「話しあう場」であるということには大きな意味があるだろうと思います。
また「外国人」という大きなくくりでものを考えがちだけど、バスの車中のような経験をすることで、在日外国人自身もひとくくりにできない存在であることも目の当たりにできます。そしてなにより、交流会は、そういうひとりひとりの同年代の在日外国人生徒とつながることができる「場」であるわけです。子どもたちの中では、実は「誰が当事者で誰が当事者でないか」という区別はほとんどないように思います。誰もが「一参加者」。こうした経験を積み重ねることが「共に生きる社会」をつくりだす主体者(のうちのひとつのカテゴリーとしての)としての「日本人」を育てていくことになるんじゃないかなぁと思います。
カテゴリのタイトル「「非当事者」がいる意味」にはそういう意味では相反するふたつの内容があるのかな。ひとつは、「非当事者」がいることの意味を考えると同時に、「実は非当事者はいない」という根本的なちゃぶ台返し的内容があるということになるのかな。

*1:「日本人」の定義はかなり難しいのですが、「国籍が日本」「わかる範囲でのルーツが日本」「本人のアイデンティティが日本」あたりで判断しているのかな。

考察・御苑通りと関西の話

フィールドワークが終わってから水道橋へもどり、三橋さんと居酒屋で軽くビールを呑みながらよもやま話をします。
なかでも、強烈だったことがふたつありました。

  • 御苑通り

ひとつは「境界線の移動」の話です。
そもそも新宿がなぜ「つくられた街」になり得たかというと、4丁目と2丁目の歴史に起因するように思いました。
4丁目はもともとは天竜寺の寺社町として発展しますが、その後「木賃宿」の指定地として貧民窟へと変化していきます。また、2丁目はもともとは赤線地帯です。こうした街は、ともに行政による強制的な介入がしやすい街になります。
で、御苑通りですが、これはもともとの2丁目の中に後からつくられた通りです。この道ができたために、本来末広亭のあたりにあった2丁目の境界が御苑通りに移動してしまったようです。
では、なぜ新たに境界を引き直したのか。
そこに、なんとなく「2丁目を分断しようとする意図」を感じてしまったのですが…。実は、三橋さんがつくられたコース図には商業ビルを色わけがしてあります。これが御苑通りを境目にしてはっきりと密度が違います。「土地価格に差はありそうですか?」という質問をしてみたのですが、「はっきりとはわからないけど、おそらくは違うだろう」という答えでした。
それ以上の結論があるかというと、実はないのですが、新宿駅から続く3丁目の雰囲気と御苑通りの向こう側のそれとは、単にゲイタウンであるというだけではない、「違い」を感じてしまいます。あたかも御苑通りの「向こう側」へと「性の街」を追いやったかのような気がしたのですが…

  • 関西の話

もうひとつ驚いたのは、男娼の組織化の時期の話でした。
三橋さんの言われるところによると、男娼の組織化は「明らかに関西の方が早い」ということです。組織化された場所は釜ヶ崎。当時は、美輪明宏さんもカルーセル麻紀さんも、釜ヶ崎の「元締め」のところにあいさつに行かなければ興業ができなかったとか。で、それを証拠づけるのが「記念撮影」とのことです。
たしかに記念撮影ができるということは、それだけのグループがあり、それが一定の秩序の元に動いていたということです。それは水平社運動にかかわる史料で記念撮影の写真がよく使われることにもあらわれます。
釜ヶ崎と言えば、その隣には飛田新地があり、反対側には西成〜浪速と続く部落があります。まさに、大阪における最大のアジールです。
ところで、三橋さんの「公式の人権」のとらえ方への批判点は、こうしたアジールへの評価のあり方にあらわれます。
具体的には、例えばリバティ大阪の展示では、釜ヶ崎は「労働者の街」としてはとらえられていますが、男娼の街としてはとらえられていない。あるいは「女性の人権」の中で飛田新地はあらわれてこない。これらの街は浪速のほんの目と鼻の先にあるにもかかわらずです。
こうした方針は、たとえば女性やセクシュアルマイノリティの展示内容が、80年あるいは90年以降のみであるところにもあらわれるとされます。まさに「公的に認められた*1運動史」としてしかとらえられていない。
そこに「性」を直視できない「人権」のありようがあるのかなとふと思いました。

*1:あるいはその直前からの

「ありのまま生きる」ための?再び

なにが悲しゅうて起床が5時半かなぁと思いながら、なんしかごそごそ起き出して、7月16日のコメント欄をチェック。
うわっえらいぎょうさんコメントがついてる。
ってことで…。

診断書については、もちろんあった方が楽ということはわかっています。ただ、「診断書があるからやってもいい」とか「診断書がないとできない」ということに、わたしはやっぱり違和感を抱いてしまうんですね。もっと言うならば、「不可能を可能にする魔法の紙」ではないということです。
自分のまわりにたいして自分の力・言葉・行動で働きかけ、まわりに十分に理解者を得*1、それでも例えば権力による介入があった時に、その権力にたいして「ほれ」とか見せるなら、それは「使いかただよなぁ」と思います。でも、まわりに理解者がまだまだ少ない状況で、「診断書があるから」とやってしまうと、それは単なるごり押しになってしまうんじゃないかと思うのです。

あと、mizukiさんが書かれている

「わたしが職場でも『*トランス』したいのは,あなたが,職場でもTシャツを着たいのとはちがうんだ!」と言うのですが

について…。
言いたいことはわかるけど、
「それを言っちゃぁお終めぇよ」
という気がするのですが…。
かつて同和行政の正当性を主張するために
「部落の貧困と部落外の貧困には差がある。なぜなら貧困を脱却しても部落には差別が残る」
と言った部落のおばちゃんにたいして
「差別の有無についてはもちろんあるんだけど、それはそれで別に考えるべき。
貧困である状況に差はない。そこに差をつけてきたことに問題がある」
と言った前川さんの言葉を思い出すのです。
「自分には特殊性があるから許されるべき」
というのは、運動としてそういう論法を利用するのは時として有効かもしれないとは思うけど、「あくまでも論法」ということに自覚的である必要があると思います。そうしないと、「資格の絶対性」が生まれ、対話を途切れさせてしまうと思うのですが…。

あとわたしが「いつでもどこでもありのまま」と書いているのは、女装をするか男装をするかというところに力点を置いているわけではないんです。女装をしたければすればいいし、男装をしたければすればいいんだけど、それはそれで、その場にふさわしい恰好があるだろうということなんです。
例えば、ものすごく極端な話、父親の葬式の時、わたしはレディスの服を着ていて小さい頃からの知りあいはひっくり返っていましたが(笑)、「これがありのままのわたし」と言って全身ユニクロを着たりはしないわけで、やっぱり黒のパンツスーツを着るわけです。てか、スーツはそれ一枚しか持ってないんですけどね(笑)。
つまり、特定の服装やメイクや髪型やアクセサリに固着して「これがありのままのわたし、わたしらしいわたし」では通らないのではないかということなんです。で、そこにさらに「特殊性=資格の絶対化」と「診断書=権力」を持ち込むとするなら、そこに理解と共感はまず生まれないだろうと。それどころか、反発すら招きかねない。しかもそれが資格と権力によって押さえ込まれるとするなら…。
少なくともわたしはそういう方法はとりたくないですねぇ。

にしても、電車の中って時間がありますね(笑)。ついいっぱい書いてしまいます。

*1:全員ということではないです。逆に少数であってもほんとうに理解してくれる人がいるというのもありかなぁ

「ありのまま生きる」ために?

なんか、こいつ*1はお座敷の演題に「ありのまま」とか書いているみたいですが、わたし(笑)はいつも「眉唾やなぁ」と思っています。
「ありのまま」とか「自分らしく」とか、そんなものはあるのか?
まぁそのあたりをぶちかましたらほめられたりするわけですが(笑)。
閑話休題
最近学校ではトランスの子が「自分らしい服装」で通えるようになってきつつあります。といっても、しょせんは二者択一でしかないし、身体の性別の反対方向っていうことでしかないんですけどね。
で、その際キーになるのが「診断書」です。
まぁ、相談を受けたら「方便として診断書を出すとやりやすいよ」とは言いますが、あくまでも方便です。というか、学校から「診断書を提出せよ」と言われたりもするんですね。
なんで服着るのにいちいち診断書がいるねん!とわたしは思っているのですが…。
ついでにいうならば、GIDってヤツは好きな服を着るためのあるのか?とも思うわけで…。
7月3日のコメントにも書きましたけど、トランスじゃなくても、みんながみんな好きな格好をしているわけじゃないと思います。まさに、「場にあった服」を仕方なくチョイスすることも多々あると思うんですよね。そういう意味で、ほとんど誰もが「いつでもどこでもありのまま」なんかでは生きてはいないと思います。逆に言うならば、「いつでもどこでもありのまま」で生きていきたいならば、それを実現するためのリスクを自分で背負う覚悟が必要だと思います。まさに「約束事」の6番目。

6.あなたは何を捨てられる人で、何を捨てられない人なのか。

なんだと思います。

例えば、茶髪の生徒の中に「なんでわたしばっかり。他の人もやってるやん」とか言うヤツがいます。そういう子に対しては、「茶髪にするのは目立つこと。直さなかったらますます目立つ。それは自分が選択したこと。だから、それに対して注意されるのもまた、自分が選択した生き方。あくまでも抗い続けるのも生き方だし、妥協をするのもまた生き方。他の人に責任を転嫁せずに、きちんと自分で対処をせよ」と言います。まぁ、服装頭髪検査って、なんだかなぁであることは大前提としてあるわけですけどね。

脱線しました。
「トランスして生きる」っていうことは、本来は自分の身ひとつでやることなんだと思うのです。もちろんまわりと軋轢があったりもするし、時として妥協があったりもするのですが、右往左往しながら、それでも自分の力で進めていくこと。診断書の有無がどうこうとか、診断書によって免罪されるとか、そういうことではないんじゃないかと思うのです。
じゃぁGIDってなんだ?というと、最近わたしは「身体へのこだわり」に特化して考えるようになってきています。社会の問題ではない。もちろん、明確に線引きはできないんですけどね。
こう考えた時に、「いつでもどこでもありのまま」に生きるために診断書を使うということに、やっぱりどうしてもわたしは疑問を感じてしまう。

まぁ、あくまでもわたし個人の考えですけどね…。

*1:クリック注意!

「女装」と「GID」に違いがあるとするなら…

「心の性」なんていうのは「あるのか?」と言っておられる人がおられるくらいなので、わたしにはよくわかりません。
とりあえず、違いがあるとするならば、「過ごすことが可能な時間」くらいかなぁなどと思ったりもするのですが…。まぁあくまでも直感ですから、「違う」ということならそれはそれでいいんですが…。
まぁ、これって「女装とGIDの違い」というよりも「パートタイムとフルタイムの違い」ですね。
もちろん、GIDの人でパートタイムの人もおられるわけで、必ずしもイコールじゃないですが、いわゆる「女装者」の方々はパートタイムの方が多いだろうという予測のもと、ちょっとこれで話を進めてみますか…。

女装者もMTFGIDも等しく、おそらくは「ジェンダーの徴」を身にまとわないと「女性として通用しない」と思います。つまり、「性他認」のことです。
問題は、その「ジェンダーの徴」を、いつ・どこで・どんなシチュエーションで・どの程度身にまとうのかということかなぁと思います。
フルタイムの場合は、仕事・遊び・その他諸々、すべてのシチュエーションで身にまとい続けるわけです。必然的に、それぞれのシチュエーションに応じた身にまとい方を要求されます。もっと簡単に言えば、「夜遊び」と「昼間の仕事姿」では違うわけです。例えば極端な場合、「昼間の仕事」ではジャージ姿を要求されることすらあるかと思います。もっとも、ジャージならジャージで、それなりの「ジェンダーの徴」はあるんだと思いますけどね。
に対して、パートタイムの場合は、あるシチュエーションに特化できます。まぁ言ってみれば、そのシチュエーションのスペシャリストということになるでしょうか。で、たいていの場合、パートタイムのシチュエーションは「夜の街」です。
で、「夜の街のお姉さん*1」と「昼間のバイク通勤の汚れ系なんちゃってフルタイム*2」のどっちがきれいなお姉さんかというと、これは、比較するまでもないわけです(笑)。そりゃぁ、「後者は受け入れられないけど、前者だったらOK」ということは十分にあるわけですわ。

でもねぇ。これはあまりにもアンフェアな比較だと、わたしは内心思っておりまして。
もともと身にまとおうとしている「ジェンダーの徴」が違うわけです。

そうそう、かつてstnのお友だちに新宿の女装スナックに連れて行ってもらったことがありまして。そのお友だちは「着替えてくるね」と姿を隠して、見事な変身を遂げられました。で、わたしはいつもの通りジーンズのまま。すると、「女装をしないの?」と聞かれまして。
いや、その時着ていた服、全部レディスですから、ある意味女装していたんだけど、その店では「女装」と認めてもらえなかったんですね。まぁ、「必要とされるジェンダーの徴」が違ったわけです。

ん〜。何が言いたいか、よくわからなくなってきた。やめよ…。
まぁ、美しさでは太刀打ちできないということか(笑)。

*1:たとえば、女装スナックのスペシャリスト

*2:たとえば、京都の某高校教員(笑)

フォビアはどこから来るのか

あくまでも「わたしの場合」ですが…。
やはり、小さい頃に「女装」をしたかった。でも、どうしてもできなかった。
つまり、「女装」へのすごいあこがれと、それへの「禁止」の感情が同時に自分の中にあったわけです。
それがそのまま内在化して、約30年間熟成されると、みごとな「フォビア」が自分の中にできあがります。
じゃぁ、これがその後払拭されたかというと、できないわけですね。
自分の中で「女装は禁止事項ではない」ということはわかっています。でも、そんな葛藤なしに*1軽々と「女装」をする人を見ると、うらやましさと同時にねたみみたいなものが出てくるわけです。で、それが身体反応としての「拒否」みたいになってくる。
まぁ頭ではわかっているけど、身体はそうは動かないという感じですか…。

そんなわたしですが、最近ようやく少しずつ身体が慣れてきたみたいです。ふぅ…。

*1:に見える

古くからあるけど、今もあるんだなぁ

某MLで流れている投稿をつらつら見ていて、「はぁ…」と思いました。
曰く「女装とGIDは違う」
曰く「一緒にされたくない」
なんなんだろう…。

自分の中に「女装フォビア」があるかどうかというと、それは「ある」なんですね。それはわたしには抜きがたくある。
でも、それはわたし自身の問題なんですよね。わたし自身が、そういう自分が持っている「フォビア」とどう向きあい、どう折りあいをつけていくかということなんです。

というか、「女装者」から「GIDなんかと一緒にされたくない」という声があがるという可能性を*1まったく度外視したこういう考え方に、わたしはどうしても違和感が残ります。

*1:実際あがっているんじゃないかなぁ

でも覚えていることはある

もうかれこれ7年ほど前からのつきあいの中国帰国の子。もうひとつの「顔」と出会えました。
そうなんですよねぇ。どこにでもいるはずなんだよね。にもかかわらず、「その側面」をないことにして、いままでつきあわざるを得なかったんだ。
「ほんとうに言えなかなったこと」
と言っていた。その顔と出会えたことが、今日の一番の収穫でした。

結婚差別をどう伝えるか

今日は人権教育研究会の課題別研究交流会。
講師は宮前千雅子さん*1
最初に謝っておきますけど、わたし、基本的にあまり質問ができないんです。関心がないんじゃなくて、「ほぉ〜、なるほど〜」と思いながら聞いているので、質問どころじゃなくなるんです。で、質問をする時って、「へへ〜」と思いながら聞く時で、簡単に言うと「ツッコんでやろう」と悪知恵を働かせている時なんです。
で、話の中でいろいろな発見があった*2のですが、なかでも「結婚差別をどう伝えるか」というあたりがツボでした。
宮前さんは「結婚差別を部落問題からのみ伝えることには限界がある」という意味のことを言われます。
そうなんですよねぇ。そもそも結婚制度の持つ問題点をほったらかしにしておいて、「籍を入れること」=「OK」みたいなゴールを提示するような展開は、やっぱりあかんと思います。いや、これ、自戒の念を込めてというか、かつての自分の授業プランの話なんですけどね。
で、わたしはやっぱり
「パートナーシップの持ちようは、一人であることも含めて多様である」
  ↓
「結婚関係はそのひとつのありようでしかない」
  ↓
「にもかかわらず、結婚関係のみに特権が与えられている」
ということを、まず提示したいなぁと思っています。
さらに、
「「結婚関係において価値が低いとされている人」はどんな人であるか?」
ということを提示するあたりから、結婚差別の話をしたいなぁと思っています。
で、これ、前に教案を書いたのですが、ボツにされました。
って話は、2年ぐらい前に書いたか…。
でも、宮前さんの話を聞きながら、ふたたびそのことを思いだしたという感じでしょうか。

宮前さんの話、全体を通してすごくおもしろいんですね。なぜなら、ステレオタイプ化されていない感じがある。これは、おそらくは宮前さん自身「途中から部落民(by 角岡伸彦さん)」的な要素を持っておられることと、ムラの外で人生を送ってこられたあたりにあるのかなぁと思います。
「渦中だからわかること」もあるけど「渦中だから気づかないこと」もある。そのバランスをどうとるのか。少なくとも「わからないこと」「気づかないこと」に自覚的になるところからスタートされているんでしょうね。だから、「なるほどなぁ…」と思えるのかなと思いました。

で、一番すごいと思ったのは、はじめに「1時間半」と言われたら、ほんとうに1時間半で終わられたこと(笑)。わたしは50分のプロだけど、さすが1時間半のプロだなぁと…。

*1:このアドレス、ちょっとなぁ…

*2:「ドッチボールのカムアウトとキャッチボールのカムアウト」とか…

ある生徒との会話

なにやら授業がはじまる前に教員と言いあいをしている生徒がいました。その後の授業中の会話。
い「なにしててん」
生「男の先生、すぐ怒鳴らはんねん。普通にしゃべってくれたらちゃんと言うこと聞くのに」
い「ふ〜ん」
生「男の先生は、大きい声出したら言うこときくと思てはんねん」
い「あはは!ぴんぽ〜ん(笑)」
生「ほんま、男ってあかんなぁ」
い「ほんまやなぁ。男ってダメよねぇ〜(笑)」
生「ね〜(笑)」