この世知辛さはなんだろう・その2

そう言えば、失敗した人間をコテンパンにこき下ろす人には2種類いるのかもしれない。
ひとつのパターンは、ほんとうにものごとを注意深くすすめ、失敗をしないタイプの人。おそらく、なぜ失敗するのかわからないんでしょうねぇ。
もうひとつのパターンは、かつて失敗をこき下ろされた人。あるいは、自分が失敗したら許されないという危機感を持っている人。
後者がこわい。攻撃は最大の防御なり。もしかしたら、これを地でいっているのかもしれません。それだけに容赦がない。でもなぁ…。それって、悪循環やんかと思うのです。
願わくば、自分が許されなかったからこそ、そのつらい経験から他の人を許すというふうであってほしいし、少なくとも自分はそうありたいなぁ…。
てか、わたしは許された経験が多いから、そんなでもないか…。

この世知辛さはなんだろう

まぁ、公園で素っ裸になったら、それはアカンのでしょう。でもなぁ…。タイーホ→尿検査→結果が白でも家宅捜査→大臣名指しでイチャモン。
しかも、大臣は「言いすぎた」とか言っているらしい。
なんかここ数年感じているんだけど、最近って「失敗を許さない世間」になっているような気がしてならないんです。
かつてわたしが担任をしていた頃の生徒・保護者との会話はこんなんでした(P
親、Iはわたし、Sは生徒)。

  • 1度目の停学*1

P「先生、ほんとうにすみません」
I「いやぁ、人間誰しもおイタはしますから。まぁええ勉強と思っておいたらいいと思いますよ」

  • 2度目の謹慎

P「先生、前にも言ったのに、またこの子こんなことしてしもうて。すみません」
I「まぁ、ちょっとした出来心でしょう。(生徒に向かって)ええか。2度あることは3度あると言うけど、もう繰り返したらあかんで」
S「はい」

  • 3度目の謹慎

P「先生、もう、この子、なんかい言うてもあきませんわ」
I「まぁそんなこと言わんと。(生徒に向かって)ええか、仏の顔も3度までっていうからな。これが最後やぞ」
S「はい」

  • 4度目の謹慎

P「もう、これ以上迷惑かけられません。学校やめさせますわ」
I「こない言うてはるで、どないすんねん」
S「もうぜったいせぇへんし」
I「この子、こない言うてますわ。まぁ、親も教員もだまされるのが仕事ですし、もっかいだまされましょか」

そりゃぁ、許されない失敗はあると思います。でも、何が許され、何が許されないかを知るためには「練習」が必要なんじゃないかとも思います。怒られ許されを幾度か繰り返す中で、ほんとうに許されない失敗を回避する力が身につくんじゃないかなぁ。
一度の失敗でこてんぱんに叩かれたら、次から失敗をおそれて最小限のことしかしなくなるし、失敗したとしてもそれを隠すようになる。その方がよほどまずいと思うんだけどなぁ…。
なんていう考えは、単に自分に甘いだけかなぁ?

*1:正確には謹慎なので、以下「謹慎」。

まぁこんなもんでしょう

今日は職場の宴会。職場の宴会って「行かない」という選択もあるんですが、いちおうこういうのは顔を出すことにしているので、行くことにしました。
くじ引きをして、テーブルが決まって、同じテーブルの人たちと当たり障りのない話をする。「ご歓談の時」は、ビールビンを持ってきた人と適当に話をして、たまにしゃべりたい人がいたらビールビンも持たずに行って話をする。まぁそんなもんです。
で、宴会も終わり。
2次会に行く人、帰る人。しばらくすると誰もいなくなります。
どうしようかなぁ。このまま帰るのも寂しいけど、飲みに行くヤツらはみんなどっかに行ったからなぁ。まぁいいか。一人でちょびっと呑んで帰ることにしよう。
にしても、つくづく思ったけど、職場には友だちがいないなぁ(笑)。

言葉の使い方

学校に勤めていると、それなりに転勤があったりします。わたしはないけど(笑)。
で、「転勤を機にトランス」というのは、まぁ当然のように思いつくわけです。わたしはちがうけど(笑)。

ちなみに、わたしはどう考えているかというと、現在の勤務校で可能な限りトランスをして、その事実を持って次の学校で引き続きトランスをしていきたいと考えるタイプなんですよね。やっぱり、トランスをするには人間関係がきちんとできているところの方がやりやすいと思っているんです。
まぁそれはいいとして…。

在職トランスをしようとした時、やっぱり頭を打つことが圧倒的に多いんじゃないかなぁと思います。そういう時に、「理解してくれなかった人」に対して、わたし(たち)はどう考える必要があるんだろうと思うのです。
こういう時に便利な言葉がありまして、それは「人権」というヤツなんですね。
いまや「性同一性障害」は「人権教育・啓発」にその文言が出てくる時代です。京都府教育委員会が出している「人権教育を推進するために(pdf)*1」にも出てきています。なので、「理解しないのは相手の人権意識の問題」と持っていくことは可能なんですね。
でも、そこにわたしは「怖さ」を感じます。
「人権」という言葉が、まがりなりにも全体のコンセンサスとして認知されるようになったのは、自らの人権を求める人々とそれに連帯する人々による、長い長い闘いの成果であることは、まぎれもない事実であるとわたしは思っています。そして、いまや「人権」は、とりあえずは「守らなくちゃならないもの」というふうな合意ができています。現実はどうかということはおいといて…。
さて、仮に自分自身が自らを「人権によって擁護される存在である」と規定してしまうとどういうことがおこるか。下手をすると、そこに無限の絶対性がうまれてしまう可能性があると、わたしは思うのです。なんというか、「正しさ」で自分を守ることがそれをつくりだすというか。だから、わたしはわたしを擁護するために「人権」という言葉は使いたくないのです。

じゃぁ、「人権」という言葉は誰のために使うのか。それは、例えばトランスの子どもたち・在日外国人の子どもたち・部落の子どもたちetcのために使いたい。わたしのためではなく、他者のために使いたい。わたしはあくまでも「連帯する一員」としての立場で、その言葉を使いたいと思います。
でも、そうやって子どもたちとつながるならば、きっと子どもたちがわたしのために「人権」という言葉を使って守ってくれる。そういう人間関係を子どもたちとつくっていきたいなぁと思っています。

*1:このpdfファイル、一太郎で作成したファイルをリッチテキストpdfで変換しているんだな、たぶん

ピッチャーで一番エライ人

いろんな考えの人がいるでしょうが、わたしは最近「敗戦処理投手」が一番えらいんじゃないかと思っています。
すでに負けは決まっています。自分に勝ち星がつくことも、セーブポイントがつくこともない。できることはせいぜい「価値のある負け」をめざすことくらい。
でも、両チームが27個ずつアウトを取らないと試合が終わらない。誰かが投げなきゃならないんです。
両チームの、自分とは異なる人間がさんざんゲームをし、自分の側のチームが負けが決まった、その後始末をしなくちゃならない。
でも、この人がいないとゲームは終わらない。ゲームが終わらないと、新たなゲームは始まらない。
本当は「敗戦処理投手」は、新たなゲームを始めるために必要な人なのかな。

マイノリティは大都市にしかいないのか?

メールチェックをしていたら、こんなニュースが飛び込んできました。

来年度、国による公設民営方式で、全国6カ所に同性愛者のコミュニティセンターが開設に。
東京都・大阪府・福岡県・愛知県・宮城県沖縄県にそれぞれ開設されます。
すでに現在コミュニティセンターがある東京・大阪・名古屋・福岡だけではなく、宮城県(仙台)と沖縄県(那覇)にも新設されることになる。

あぁ、またかと思いました。
それぞれの地域にひとつずつということなんでしょうね。てことは、関西の人間は大阪に行けということなんでしょうね。こうやって大阪にLGBTは集中していく。集中するから、「そこにはいる」と思われ、「そこでない」ところには、いないことにされていく。大阪に行けない/行かないものはますます少ない中でやっていかなきゃならない。
すでに現在コミュニティーのあるところでなぜやるのか。わたしにはわからない。公設だからこそ、「ないところ」につくらなきゃならないんじゃないかと思います。
支援をしなくちゃならないのは、一定程度運動があるところじゃなくて、運動すら起こらないところなんだと思うのは、一地方都市に住む人間のひがみですかねぇ…。

とかいいながら、「トランスジェンダー生徒交流会」は大阪でやってるんですけどね…。

「思い」は100の言葉の中にひっそりと入っているんじゃないかなぁ

結局合宿は今日の昼までのんびりとやっていました。
忙しく、しかも疲れているなか手伝ってくれたYちゃんに感謝!大阪から来てくれたKぽんに感謝!K大から来てくれたKヮンスに感謝!
合宿って、やっぱりはじめて参加するにはハードルが高いです。そういう意味では「新規参加者」を拒否するような集まりだったかもしれません。
でも、と思います。
やっぱり合宿って必要なんじゃないかなぁ。長い時間を同じ部屋で過ごす、ただそれだけのことなんだけど。何をしゃべるわけでもなく、単にワイワイと遊ぶ、ただそれだけなんだけど。そういう「ムダ」をすることによってできる関係ってあるんじゃないだろうか。そんなムダな時間を延々と続ける中に、「思い」はひっそりと出てくる。
「固い」交流会は、もしかしたら促成栽培?確かに「成果」は出てくるけど、案外弱いかもしれない。「緩い」交流会は、雑草のようなもの?1回では成果は出ないし、とても長時間かかる。でも、その長い時間の間にかわされる100のつまらない話の中に、ふと出てくるかもしれない一言を期待しながら、交流会ってやるものなのかもしれない…。

ここでもネタになるか…

子どもが、「今日はベストハウス123だ!」とか言うので、さっさと宿題をさせまして、一緒に見ていました。なんでもダヴィンチ特集らしいです。
しばらく見ていたら、突然赤字で
禁断の同性愛
という文字が…。そうきたか…。
あとはみなさん、からむからむ。あとで検索したら

審議長は三宅裕司。「緊急特番 新たなダ・ヴィンチ・コード発見か!」と題し、茂木健一郎らがレオナルド・ダ・ヴィンチにまつわるプレゼンを。ダ・ヴィンチが、王妃との身分を超えた結婚を隠すため同性愛者を装っていたという話を聞いた田村淳は、「僕(の恋は)(週刊誌)FRIDAYさんの協力の下、比較的オープン!」と自嘲する。

らしい。

境界線上の存在?

今日は某在日外国人教育関係の会議。
午前が事務局・役員会ということで、まぁ午後からの打ち合わせをするわけです。で、集まったのはわずか3人。こういう日もあります。さくっと打ち合わせをしてお昼ご飯。軽くビールを呑んで午後の会議に備えます(笑)。
午後からはそれなりに人も集まったので、けっこう充実した会議ができました。
それにしても、さすがは全国から集まってくる「運営委員会」です。単なる飲んだくれとか牢名主みたいな人とか、まぁひとくせもふたくせもある人がそろっているのですが、その情報量の多さや考えの深さ、そしてなによりもフットワークの軽さは、なかなかすごいものがあります。こんな人たちと日常的におつきあいができるというのは、ある意味幸せなんだろうなぁと思います。もしかしたら、実は不幸なのかもしれませんが(笑)。
でも、そういう尖ったところがまた、ケンカの種にもなるわけで、なんだか知らないけど、あちこちでケンカになっているみたい。
ところが、不思議なほどにわたしはそのケンカから除外をされています。
これ、なんなんだろう…。まぁ、わたしは尖るところまで深くこの活動にかかわり切れていないというのもひとつの要因かもしれません。考えてみると、「なんでわたしが全国の事務局員やねん」というのは昔からの謎でした。ふさわしい人は他にもいっぱいいるのですが、いろんな人間関係の綾とか、その他タイミングの問題なんかで、たまたまわたしのところにまわってきて、そのまま10年みたいな感じなんですよね。
でも、最近思うのは、もしかしたらそういう存在も必要なのかもしれないなとも思うのです。ひとつのことを深くやることによってわかることと、そうすることによって逆にわからなくなることがある。だから、深くやる人と浅くやる人が混在することで、全体としてのバランスがとれるのかなぁと。
こういう役回り、ええ加減なわたしにピッタリかもしれない(笑)。

表現の難しさ

あらかじめ断っておきますが、特定の人を非難するために書くんじゃないです。

文章表現ってほんとうに難しいですね。
なぜなら、ある「内容」を文章に表現しようとする時、どうしてもそれを「言葉」に置き換えざるを得ない。ところが、自分が知っている範囲の言葉にはやっぱり限りがあります。その「範囲」って、おそらくはその人の興味や関心、あるいは生活範囲にかなり影響をされていると思います。
例えばわたしだと、セクシュアリティ系の言葉についてはまぁボチボチ知っているつもりですが、ガンダム系についてはさっぱりです。なので、「ガンダムの紹介文を書け」と言われたら、とんでもないことを書く可能性がある。
まぁそういうことです。
で、あるチラシの草案にあったわたしの活動の紹介文。

セクシャルマイノリティの人たちのための集いや、ノーマルの人たちへの講演会など、精力的に活動されています。

わたしの話を聞きたいと思う人って、それだけでたいがいアブノーマルだと思うけど(笑)。
というのはおいといて…。
たぶん、「セクシュアルマイノリティ」という言葉の対語としての「セクシュアルマジョリティ」ってあるのかどうかずいぶんと悩んだ末、とりあえずこう書かれたんでしょうね。決して、「セクシュアルマイノリティ」=「アブノーマル」という意図があったんじゃないと思っていますです^^;;。

にしても、「ある少数者」を表現する言葉はあるんだけど、「その対としての多数者」を表現する言葉って、つくりだしていかないと、なかなかないんですよね。そこに「マジョリティ」が無自覚に「させられていく」構造があるんだろうなぁ。
あ、そういえば、去年のGID学会でひっぴぃがそういうことを言っていたなぁ…。