言葉の使い方

学校に勤めていると、それなりに転勤があったりします。わたしはないけど(笑)。
で、「転勤を機にトランス」というのは、まぁ当然のように思いつくわけです。わたしはちがうけど(笑)。

ちなみに、わたしはどう考えているかというと、現在の勤務校で可能な限りトランスをして、その事実を持って次の学校で引き続きトランスをしていきたいと考えるタイプなんですよね。やっぱり、トランスをするには人間関係がきちんとできているところの方がやりやすいと思っているんです。
まぁそれはいいとして…。

在職トランスをしようとした時、やっぱり頭を打つことが圧倒的に多いんじゃないかなぁと思います。そういう時に、「理解してくれなかった人」に対して、わたし(たち)はどう考える必要があるんだろうと思うのです。
こういう時に便利な言葉がありまして、それは「人権」というヤツなんですね。
いまや「性同一性障害」は「人権教育・啓発」にその文言が出てくる時代です。京都府教育委員会が出している「人権教育を推進するために(pdf)*1」にも出てきています。なので、「理解しないのは相手の人権意識の問題」と持っていくことは可能なんですね。
でも、そこにわたしは「怖さ」を感じます。
「人権」という言葉が、まがりなりにも全体のコンセンサスとして認知されるようになったのは、自らの人権を求める人々とそれに連帯する人々による、長い長い闘いの成果であることは、まぎれもない事実であるとわたしは思っています。そして、いまや「人権」は、とりあえずは「守らなくちゃならないもの」というふうな合意ができています。現実はどうかということはおいといて…。
さて、仮に自分自身が自らを「人権によって擁護される存在である」と規定してしまうとどういうことがおこるか。下手をすると、そこに無限の絶対性がうまれてしまう可能性があると、わたしは思うのです。なんというか、「正しさ」で自分を守ることがそれをつくりだすというか。だから、わたしはわたしを擁護するために「人権」という言葉は使いたくないのです。

じゃぁ、「人権」という言葉は誰のために使うのか。それは、例えばトランスの子どもたち・在日外国人の子どもたち・部落の子どもたちetcのために使いたい。わたしのためではなく、他者のために使いたい。わたしはあくまでも「連帯する一員」としての立場で、その言葉を使いたいと思います。
でも、そうやって子どもたちとつながるならば、きっと子どもたちがわたしのために「人権」という言葉を使って守ってくれる。そういう人間関係を子どもたちとつくっていきたいなぁと思っています。

*1:このpdfファイル、一太郎で作成したファイルをリッチテキストpdfで変換しているんだな、たぶん

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