疑問の提出だけね

「難しい内容」は、次の話。

なぜ、女性はさまざまな違いを軽々と飛び越えて「おんな」というだけでつながれるのか?

その現実を目の当たりにした時、「わたしは永遠に一人だなぁ」という気がするのです。
そうそう、こんなのもあったなぁ。

たとえ100人がOKと言っても、101人目がNGという可能性を考えて生きる。

これが、わたしにとって安全側に振るということなんですよね。

で、呑んだくれ達の夜更け・その15

交流会のすべての日程が終わるのが10時半。生徒代表者のミーティングが終わるのが11時半。子どもたちを寝かしつけるための努力はそれ以降も延々と続きますが(笑)、12時頃にとりあえずホッと一息つける時が来ます。
で、隠し持った◯ールが出てくる時間です。今回は熊本のお友だちがしこたまビールを持ってきてくれていました。なにせ、キャスターバッグの半分以上がクーラーバッグでしたから(笑)。
ようやくありついた◯ールをグイッと呑むと、身体の細胞の隅々まで◯ールが染み渡ります。ふぅ…。
1時半頃から、今度は隠し持っていたVODKAをジュースで割ってちびりちびりやります。話の内容は、いつのまにか難しい内容へ。内容が頭にまわりはじめた頃には、当然アルコールもまわっているわけで、いつのまにか寝ています。「ふとんで寝ないといけないよ」と友だちに起こされて部屋にもどると、窓の外はしらみはじめていました。やばい…。

「非当事者」がいる意味

この在日外国人生徒交流会に、日本人生徒*1の参加を認めるかどうかについては、そうとう論議がありました。でも、最終的には「それぞれの生徒の引率教員・所属する地域が判断する」ということで決着がつきました。その結果、今回も10人程度の日本人生徒の参加がありました。
この交流会では、ルーツ別討論という時間があり、日本人生徒は「日本」という班に入って討論をします。で、わたしは昨年からそこの班の担当教員になっています。
この交流会に来る日本人の子どもたちの動機はさまざまです。いわゆる「国際交流系・異文化体験系」の子もいれば、朝文研活動をしている子もいます。さらには、外国人の友だちとほんとうに深いつながりをもっている子もいます。
まずは、そういった動機を聞き出しながら、交流会に参加するかぎりは「知る」だけではなく、そこからもう一歩踏み出したつながりをつくるためにはどうしたらいいのか。それを考えるのにまたとない機会だと思います。いや、ふだんも考えられないことはないんだろうけど、やはりそれを「話しあう場」であるということには大きな意味があるだろうと思います。
また「外国人」という大きなくくりでものを考えがちだけど、バスの車中のような経験をすることで、在日外国人自身もひとくくりにできない存在であることも目の当たりにできます。そしてなにより、交流会は、そういうひとりひとりの同年代の在日外国人生徒とつながることができる「場」であるわけです。子どもたちの中では、実は「誰が当事者で誰が当事者でないか」という区別はほとんどないように思います。誰もが「一参加者」。こうした経験を積み重ねることが「共に生きる社会」をつくりだす主体者(のうちのひとつのカテゴリーとしての)としての「日本人」を育てていくことになるんじゃないかなぁと思います。
カテゴリのタイトル「「非当事者」がいる意味」にはそういう意味では相反するふたつの内容があるのかな。ひとつは、「非当事者」がいることの意味を考えると同時に、「実は非当事者はいない」という根本的なちゃぶ台返し的内容があるということになるのかな。

*1:「日本人」の定義はかなり難しいのですが、「国籍が日本」「わかる範囲でのルーツが日本」「本人のアイデンティティが日本」あたりで判断しているのかな。

死のロード(1日目)・今年もやってきた

夏休み、最後の一撃がいよいよはじまります。
まずは今日から明日まである「全国在日外国人生徒交流会」です。今年の開催地は広島。当然子どもたちを新幹線に乗せるようなお金はありません。てことで、関西からはバスで行くことになっています。京都駅に集合して、途中尼崎で兵庫の生徒が乗ってきて、バスは満杯。補助席まで使う状態です。にしても、これから広島までバスか…。
バスの中では、互いに自己紹介をしたり、会場に到着してから全国の参加者に向けて行うだしものを決めたり。
だしものを決める過程がおもしろかった。南米系の子どもたちが
「ダンスをしたい!」
と言い出します。さらに
「アジア系の人は?」
と質問してきます。アジア系か…。たしかにさっきわたしも「南米系」と書いているわけで、ヤツらから見たらわたしたちは「アジア系」なわけです。なるほど…。
で、アジア系の子どもたちは
「みんなで歌を歌おう」
と返します。で、どんな歌が歌えるか、おたがいに紹介しあいます。ところがこれまたすれ違います。南米系の子らは「踊れる」曲です。もう、曲を流しながらみんなノリノリです。それを聴いているアジア系の子らはぼうぜんとしています。で、アジア系の子どもたちは
「洋楽*1は歌えへん。みんなgreeenだったら知ってるよね」
と「キセキ」を流します。すると、南米系の子らは
「知らない」
その返事を聞いて、またまたアジア系の子らはぼうぜんです。
考えてみると、南米に限らず、日本語がよくわからない子らにとって、日本語の歌はわたしたちが「よくわからない言語」の歌を聴くのと同様なんでしょうね。そのうち、究極の一撃が南米の子らから打ち下ろされます。
「韓国人だったら、韓国語わかるでしょ?韓国語の歌は?」
「韓国人やけど、韓国語、わからへんねん」
交流会に来る子らですら、というか、だからこそ、こういう軋轢があるんですね。でも、ここから何をつくりだすかということの中にこそ、この交流会の意義があるんだと思います。引率教員も、頭ではわかりながらも、やはり具体的なこういう「場」にいあわせると「なぁるほどぉ」と再認識させられますね。

で、なんだかんだ言いながら会場に到着。ホッと一息です。
後はプログラム通り。わたしの出番はプログラムの最後の方に固まっているので、しばらくはレストです。

*1:今どき洋楽という言葉なんだなぁ、と。