こんな時間が大切なんだろうな

来週、全学年一斉の人権学習があります。
実は、今年度は微妙にとりくみが遅れています。まぁいろんな原因はあるのですが、一番大きな原因は
「あえてアクションを起こしていない」
ということなんだと思います。
うちの学校の人権学習は、かなりていねいなワークシートを用意しているのですが、あれ、自分でつくっておいて言うのもなんですが、ダメですね。結局、ワークシートって、「やる人=担任さん」にすごく失礼なものなんだと思います。だって、「その人ならでは」の部分をすべて摘みとってしまいますからね。なので、今年はあえてワークシートを出さない。校内のネット上にはあげてありますし、ありかは伝えてありますが、それをプリントアウトして配るということはしていません。
そのかわり、今年は試験中の午後に「勉強会」を持ちました。
今日は1年生の担任さん達と話しあい。テーマは
「障碍を通してなにを伝えるか」。
完全に専門外です^^;;
でも、担任さん、けっこう来て下さいました。2時間ほど、自分が出会ってきた障碍をもつ人々のことを話してみたり、自分はどう伝えようとしているのかみたいなことを話してみたり。
結局、なんにも結論は出ません。でも、この2時間を通して、それぞれの担任さんが、自分の中でいろんなことを考え、他者の話を聞いて、さらにいろんなことを考え、まさに「動きはじめた」んじゃないかと思うのです。なかなか余裕がない日常の仕事や生活の中で、2時間、ひとつのテーマについて語りあうということは、たぶん人権学習をする上で、本当に貴重な時間なんだと思います。
最後に、若い担任さんに
「なんにも結論出ませんでしたが、役に立ちましたか?」
と聞くと
「立ちましたよ」
という返事が返ってきました。きっと、なにかぼんやりとしたものが動きはじめたんでしょうね。
やってよかった…。

仕事のしかた

なんか、最近ずっと仕事に追いまくられている気がします。でも、たぶんそれは違う。
結局「仕事がたまる」っていうのは、渋滞の原理と一緒なんでしょうね。

常に一定の割合で交通量があって、それに見あうだけの道路の許容量があれば、別に渋滞はおこらない。でも、道路の許容量を超える交通量があったり、許容量が少なくなったりした時に、静かに渋滞はじまる。この「静かに」というところがポイントで、渋滞が発生した瞬間は、それは渋滞だとは認識されないけど、やがて上空からヘリで写したビデオでも見た時に、「あれが渋滞のはじまりだったんだ」と、後から認識される。

仕事もそうで、自分の許容量の範囲内で流れている時は、別にどうということはないんだけど、例えば

  1. 出張が入る
  2. 突然の仕事が降ってわいてくる
  3. 突然やる気がなくなって仕事量が落ちる

みたいなことが起こると、その瞬間はわからないんだけど、静かに仕事がたまりはじめて、やがてパニックになってしまうんでしょうね。
そうならないように、1週間のスパンとか1ヶ月のスパンで仕事の割り振りをすればいいんだけど、それがなかなかできないわけで…。

朝の一撃

うちのラジオはスイッチを入れると
「今日は◯◯の日」
という表示がまず出てきます。
で、今日もスイッチを入れたら
「今日は」
と出てきました。まぁ
憲法記念日だろうなぁ」
と思っていたら、予想もしない反撃に思わずぶっ飛びました。出てきた表示は
「ゴミの日」
でした。
いろいろ深いな…。

ストレスのありようについての一考察

朝、お弁当をつくりながらパートナーと話。
結局、わたしが常時金銭的に厳しい気がしているのは、
「必要と思っている金額」=「その時に使う金額」+「潜在的に「貯めなければいけない」と思っている金額」
なんですね。
例えば1万円使おうと思った時、わたしが「必要だ」と考えてしまう金額は201万円*1で、現在自分が使える金額がそれより少ないわけです。となると、常に「不足している」となってしまう。そうなると、先にとりあえず200万円*2使ってしまった方が、もしかしたら金銭的なストレスが減るんじゃないだろうかと。そのことが、たのことについての余裕を引き出す可能性を考えてみると、「著しいQOLの向上(笑)」をみる可能性もあるなと。
そんな話をしていたのですが…。
で、もしかしたら、そのあたりの「QOLの向上(笑)」が見られる可能性が出てくるかもしれないなという、今日の会話でした(謎)。

*1:200万円の根拠は不明(笑)

*2:200万円の根拠は不明(笑)

一人であることは一人でないこと

今年度、うちの職場のあるセクション(A)がなくなり、そのセクション(A)は別のセクション(B)に「身請け」に出されました。で、わたしはその「身請け」に出されたポジションにいるわけです。
かつては4人もいたセクション(A)ですが、ここ数年は2人だけになり、いまは一人きり。
でも、最近なんか知らないけど元気です。なぜなら、セクション(B)には一緒に働く仲間がいるからです。いや、それだけじゃありません。複数いた時は
「自分たちでやる」
と思っていたんですが、今は一人です。だから
「ひとりじゃできない」→「みんなにやってもらおう」→「そのためには何をしたらいいのか?」
と気持ちを切り換えることができました。
そう考えた時に、わたしにはたくさんの「一緒に働く仲間」がいるということに気づきました。

うん。今までとは違う、新しいやり方をやってみよう。なんか、ファイトがわくなぁ(笑)

変わること、変わらないこと

今日、久しぶりに、出張でわたしの「第2の故郷」に行ってきました。
いわゆる「地対財特法」が失効してから8年。
この間、同和教育はもちろん、ムラをめぐる状況も大きく変わりました。わたしもその「波」の中にいます。

でも、出張先の会議で話しあわれるさまざまな内容は、時が流れても基本的には同じです。厳しいムラの状況の中で、厳しい状態におかれている子どもたちの姿を聞き、「なんも変わらへんやん」と思いました。と同時に、ムラを含めた子どもたち全体への教員・保育士のみなさんの優しい眼差しもまた、「なんも変わらへんやん」と思いました。
結局、同和教育ってそういうことなんですよね。
ムラの子を焦点化することで、わたしたちが気づくことがある。わかることがある。そして、ムラの子に焦点化したとりくみは、あたかも「ムラの子だけ」と思われがちなんですけど、実は全体に波及していくんだと思います。
これ、ムラの子だけじゃないでしょうね。
例えば、在日外国人であっても、肢体障害や精神障碍、あるいはいわゆる「特別支援を必要とする」とされる子、さらには「女性」も含めて、どこかに焦点化することが全体に波及するという意味では、きっと同じことなんだと思います。

なくなってはじめてわかるし、だからこそ、同じ轍を踏みたくないなぁ。

子どもに武器を持たせると…

久しぶりに^^;;新聞を読んでいたら、空港関係をめぐっていろいろあるそうな。で、その中のひとりが
「自分の言うこと聞かなきゃ、オレはやめる。お前がやめるかオレがやめるかだ!」
とか言っているそうな。
自分の進退を賭けるというのは、ほんとうにここぞという時だけに使う手法で、のべつまくなしに
「言うこと聞かなきゃやめる!」
というのは違うと思うのですが…。
まぁいみじくも、他の人が
「幼稚園児じゃあるまいし」
と言ってたとか。
子どもに武器を持たすとろくなことがないと思うんだけど、その武器を持っている姿を頼もしく思う人々がいるんだろうなぁというのがなんとも…。

「そんなことのために」と思ったけど…

この4月からJASEの原稿を担当される編集の方が変わります。なので、今日は、昨年に引き続きわざわざ京都まで来られて呑み引き継ぎです。
昨年も思ったのですが、なんでこんなことのために来られるのかなぁと思ったのですが、もしかしたらかつてはそれが当たり前だったのかもしれません。
通信手段が発達する前は、基本的には「直接会う」のがもっとも確実な手段だった。それが、電話になり、ファックスになり、メールでことがすむようになっています。でも、それでコミュニケーションがとれているのかというと、きっとぜんぜんとれていないんじゃないかなぁ。単発の原稿だったらいざ知らず、1年間継続してとなると、やはりお互いに顔と顔をつきあわせて、どんな人なのかをわずかながらでも知ることが大切なんでしょうね。そんなことを、前の担当の方がおっしゃられていました。
確かに一見ムダかもしれない。でも、その「ムダ」の中に、とても大切なものが含まれているような気がしてなりません。

そうそう、昨日の夜、某国営放送の方が来られてちょっと話をしていました。
「これほどネットが普及している状態で、トランスの子って、やっぱりみんな「ひとり」なんですか?けっこうみんな交流しているんじゃないんですか?」
という質問。
で、わたしの答え。
「ネットは「会うこと」と「会うこと」の間を埋めるツールでしかないと思います。実際に会ったことのない人同士が、ネットだけで連絡をとっても、それはつながることにはならないと思います」
これ、いろんな大切な友だちたちのことを頭に描きながらの答えなんです。
本当に会いたくて会いたくてしかたがないけど、時間や距離の関係でどうしても会えない。でも、また必ず会えると信じながら、その「次」までの隙間を埋めるために、つまらないメールや、ちょっと深刻なメールを出しあうんですよね。
やっぱり、会ってしゃべって呑むのが一番ですよ。

あ、てことで、ほんとうに一年間お世話になりました。これからもよろしくお願いします。>M瀬さん

原点となる日

今日は進級判定会議です。
「今年はやつらは進級しているかな」。いつもドキドキします。
そういえば、わたしがほんとうに教員として何をしなくちゃならないかわかった日は、1991年のこの日だったのかもしれません。その日、うちのクラスで卒業不可が確定した子がいました。その子にそのことを告げに家庭訪問をしました。
あの日を境目に、わたしの考えが変わったなぁ。うん、あのときの気持ちだけは忘れないでおきましょう。