移動日&自主フィールドワーク

いつもの通り6時に起きて、コーヒーを淹れて、ちょっとテレビをつけてみました。なるほど、そういう結果でしたか。
しかし、みんな年金とか政治と金とか、そのあたりを論点にしているよなぁ。わたしはちゃいますね。もちろん「9条改憲」がひとつの論点。もうひとつは、戦後最も激しく行われた「強行採決の嵐」をなんとしてでも食いとめるために、今回の1票を使いたかった。後者なんて、ほとんど誰も話題にしていないのってどうよと思いますが…。
さて、今日は移動日です。行き先はなぜか佐世保
8時過ぎの新幹線に乗って、途中駅弁なんかを食べながら14時過ぎに佐世保到着。ホテルに入って緊急の仕事をひとつやっつけて、散歩です。
さて、どこに行こうかな。実は、佐世保のムラは完全に「埋没」をしているらしくて、フィールドワークなんてとうていできないらしいです。なので、わたしもまったくわからないまま、適当に見当をつけて歩いてみることにしました。まぁ、別にそこがムラであろうがなかろうが、佐世保の街を知るという意味では一緒ですからね。
それにしても、佐世保って、海から短い距離ですごい急激に登っているんですね。ほんとうに山肌にへばりつくようなところが多々あります。そんなところをあちこち歩きまわってみました。山の中腹に防火水槽があったり、突然畑があったり。ここまで水をくみ上げるって、そうとうたいへんだよなぁと思いながら、かつての生活を想像してみました。
帰りの下り道のすごいこと。ある階段には「下りは危険」とか書いた立て看板があります。そりゃそうです。はしごみたいな角度です。そこを避けて別の下り道を降りたのですが、その坂道、車はもちろん狭い&急すぎて入れません。自転車でも無理。てか、自転車であがろうものなら下る時がこわいです。あそこを登れるのは、たぶんトライアルバイクぐらいじゃないかなぁ。その坂道を、下から買い物の荷物を持ったおばさんが休み休みあがってこられます。すごいよ…。
坂道を降りたらすぐに海です。海にはお船が浮かんでいます。ただし、色は濃い灰色ね。しかも、船籍は日本のもあればアメリカのもあります。これが佐世保の海なんだなぁ…。
なんか、いろいろ考えさせられました。

自主フィールドワーク

研修の後は、もちろん「反省会」です*1。でも、反省会が始まるまで、まだ1時間ほどあります。
ところで、いま自分がいるところは住吉…。てことは、近くにあるものといえば…。やっぱ飛田新地ですな。
とりあえず、行ってみよう!
と、ここでひとことアドバイスをもらいました。「とりあえず、百番に行くフリをしたらいいよ」とのことです。なるほど…。まぁ、女性の友だちとわたしとで行くので、いずれにしろ「客じゃない」ことが見え見えですからm(_ _)m
阿倍野墓地の北側をブラブラ歩いて、窪地のようになった一角を見た瞬間、息を呑みました。
まわりは高層マンション街。そこに忽然と日本家屋というかなんというかな家が整然と建っています。完全な別世界です。向こうには、通天閣が見えています。階段を下りながら、飛田新地の中に入りました。まだ6時前なので、それほど人通りはありません。でも、「お店」の準備は万端整っています。お店の玄関はもちろんあけっぱなし。そこに、強烈なスポットライトがあたっています。光を一身に受けているのは、きれいに着飾った女性です。なるほど…。お店の番をしているのは、年配の女性。おもしろいのは、玄関の内側の脇におられるのですが、反対側に大きな姿見がおいてあります。こちらからその姿見を見ると、姿見には年配の女性が映っています。なるほど…。
「すごいよ、すごいよ」とつぶやきながら、ふたりで足早に身とを歩いて、あっという間にその一角を出ました。
それにしても、近くにはムラがあり、その隣には寄せ場があるという立地です。おそらくは、被差別民衆とのからみとかいっぱいあるんだろうなぁ。あと、飛田新地の中にはたぶんないだろうけど、その周辺には男娼の町とかなかったんだろうか…。いろんなことを考えながら、「反省会」の場へと向かいました。

*1:子どもの反省会はほんとうに「反省」をしますが、大人の反省会は、もちろん「交流会」の別名ですよね(笑)。

で、フィールドワーク

交流会の会場に行く途中、今回もフィールドワークをさせてもらいました。
農道を延々と走ると、ポツンと家が一軒だけあります*1。その隣には、集会所。家の横には川。それ以外、なにもなし。ここがムラとのことです。てことは、一軒一支部てことですか…。
すごいよ…。でも、ここでも活動をされているとか。ほんとうに、すごいよ…。生きていることがカムアウトなんだ…。

*1:正確には3軒あるけど、2軒は誰も住んでいないみたい…

で、フィールドワーク

朝起きると、雪が積もっていました(笑)。

今日は午後から、どういうわけかS県で漫談。
といっても、前半授業実践のレポートがあって、後半1時間ほどを担当しただけです。展開としてはまったく新しいものなので、ちょっとドキドキしましたが、なんとかつとめあげられました。
その後、車でまわるだけではあったけど、3ヶ所のムラにつれていってもらいました。
いや、ほんとうにびっくりしました。3ヶ所ともがいわゆる「少数点在」のムラなんです。1ヶ所目はそれでもちょっと大きめ。2ヶ所目は戸数が20戸くらい。3ヶ所目にいたっては、10数戸ですか。
どのムラも、いちおう地区改善事業は入っているとのことですが、いわゆる「ニコイチ」じゃなくて、「市営住宅」とのことで、すべて一戸建てです。もちろん「団地」はありません。つまり、まわりからはさとられないようにということのようなんですね。
でも、一目見たらバレバレです。いずれのムラも道は狭くて曲がりくねったまま。車からは降りずに通過しただけですが、普通車が道幅いっぱいです。ところどころ「ここ、入れないから向こうからまわるね」というところまであります。

ひとつめのムラA地区。入り口を入った瞬間に「あ、ここからムラですね」「そうです」。で、ある瞬間に「あ、ムラ、出ましたね」「はい、あの川を渡ったところで出ました」。
ふたつめのムラB地区。公民館の裏側にある空き地に車をとめて「あそこです」と指をさされました。小さな土地に、A地区と同じタイプの市営住宅が数軒並んでいます。ムラのまわりにぐるりと鉄柵があります。「え?あれ?あの柵、あれでムラってバレバレじゃないですか」「ええ」表にまわると、川が流れていて途中から暗きょのあとがあります。「昔はこの川に丸田が一本かかっているだけだったんです」「へ?」「だから、こっち側*1からは丸わかりなんですよ。でも、ムラの人たちは必死で隠していた」「んなむちゃな」
もう少し車を進めると、「このあたりはもともと女郎街でした。ここもまわりにぐるりと堀があってね、女郎さんが逃げられないようにしていたんです。B地区の人たちはその監視役もしていたということで、そのことがまわりの人たちのまなざしを一層きついものにしたんです」「…」
みっつめのムラC地区。ムラの裏側には竹藪があります。「あの竹藪ね、昔はずっと続いていて、このムラを取り囲むようになっていたんです」すると、同乗の方「ほんとうに、「藪の向こうに人がいるのかな」という感じでしたよね」「ええ、そうでしたね」「S県では各地区*2ごとに子どもたちを公民館に集めていろんな伝達をしたりするんですが、ここのムラの子らは20数年前まで、公民館に入ろうとしたら「お前らは出て行け」って生徒からも教員からも言われて、しかたなく運動場で時間をつぶしていたということです。子どもの人数が5〜6人もいたらその中には「おかしい」と言う子もいるんでしょうけど、兄弟だけだったりするとそれすらもできない。少数点在のムラには運動が起こりにくいんです」。
その後、表にまわります。すると、見たことのあるような大きな「工場」の跡があります。「このムラも現在廃品回収なんかをしているんですが、ちょっと前までは自動車解体業をやっていたんです」。それでですね。見たことがあったのは*3。でも、今は「跡地」みたいです。工場の前には山のようにいろんな種類のくず鉄があります。
ほんとうに一区画をくるりと回ったら、あっという間にムラを出てしまいました。

ほんとうにショックでした。わたしが今まで見てきたムラっていうのは、たいてい都市部の大きなムラでした。でも、ぜんぜん違うムラもあるんですね。
都市部のムラと農村部のムラの違い。さらに、農村部でも富裕層のいる(いた)ムラと、そうではないムラの違い*4。まさに、小林丈広さんの言われる「部落の4類型」のうちのひとつの類型「農村貧困型」の典型を見た感じでした。ここから、「法は切れた。格差は解消した。だからあとは自助努力で…」というのは、無理ですわ。やはり、解放へ向けたとりくみが絶対に必要だと、認識をあらたにしました。
てか、こうしたムラにフィットしたとりくみをしてこなかった、わたしたちの「無知」が問われるんだろうな。

*1:ムラじゃないほう

*2:ここの「地区」はムラじゃなくて、小学校の地区割りのことです。

*3:京都府南部にも「解体の街」がありますから。

*4:このあたりのムラでは、近世の頃、農業は許されなかったとか…

フィールドワーク

今日は、浪速の近くで漫談。終わってから、友だちと一緒に呑み。呑みながら、フィールドワークについての話がちょこっと出ました。
部落なんかにフィールドワークに行く人って、たいていは「悲惨な状態」を見ることを期待していくんじゃないかと思います。ちなみに、わたしも例外ではありません。
ところで、実際に行ってみると、地区改善事業なんかで、それこそ1950年代のムラの姿なんてかけらも残っていません。そこにあるのは、巨大な団地群だったりします。しかも、ムラ中の高齢化は激しく進行しているので、歩いているのはたいていおばあちゃんやおじいちゃん。あるいは、だれも歩いていない!そんな町なので、お店も儲かりません。なので、食べ物店もぜんぜんありません。そうなってしまうと、結局、事業のあとにつくられた「遺跡」を歩くことになりますし、そこに「ムラの文化」みたいなものはほとんど感じとることはできません。
ただ、こうした現在のムラの姿ではありますが、ムラの人たちの闘いの中で勝ち取ってきた事業の「成果」でもあるわけです。そりゃぁ、実際に住んでいる人にとって、バラックに住むより団地に住む方がいいに決まっていますから。そして、その時点から30年以上経過した結果としての現在の姿でしかないわけですから。また、多くのムラでは「このままではいけない」ということで、自分たちのムラの文化をもう一度発掘しよう、あるいはつくりなおしていこうという動きがあります。浪速の太鼓集団「怒」もそういう動きの中で活動があるわけです。
ところが、これがまたフィールドワークに行く側にとっては悩ましいことなんですね。なにしろ、フィールドワークでふれることができるのは「人間」じゃなくて「場所」だけなんですよね。となると、村の中で今新しく動きはじめている「人」の息づかいは、フィールドワークでは感じられない。
で、今日話していた内容は、どうもこのあたりの食い違いが、フィールドワークに「行く側」フィールドワークを「企画する側」フィールドワークを「受ける側」の3者の中で大きくなってきているんじゃないかという話なんです。
で、わたしはというと…。
個人的に好きなのは「自主フィールドワーク」なんですね。まずはムラ中をほっつき歩く。出会った人には適当にあいさつ。そうすれば不審な目がふと和らぎます。ムラの境界は注意深く歩いていると自然と感じとることができます*1。さらに、ムラ中の掲示板やお店の看板を見ていると、どんな仕事があったのか・あるのか。いまどういうことがムラ中で課題になっていて、それに対して何をしようとしているのか。そんなことがだんだんとわかってきます。スーパーの惣菜コーナーを見たら、そのムラの食文化がよくわかります*2
そして、人の息づかいを感じとるためには、お好み焼き屋さん*3に入ります。昼時には、たいてい誰か近所の人が食事をしていたり、出前の電話がかかってきたりします。そんなところで行き来する会話を聞いていると、巨大な団地群の中の「遺跡」とはまったく違った「いま」が感じられます。
こんなフィールドワークをしてみたらどうかなぁ。

  1. あらかじめそのムラの歴史を簡単に予習する。
  2. 昼時をまたいで2〜3時間ほどフリータイム(個人行動)。
  3. 昼のビールは許可(笑)
  4. 3時間ほど散歩して帰ってきたら、情報交換会。
  5. 情報交換会のあと、地元の人からみんなが見つけたトマソン(笑)の説明を受ける。
  6. その説明を受けた後、再度散歩(個人でも全体でもOK)。
  7. 散歩のあと、夕方のビールを飲みながら振り返り。

*1:もちろん多少のブレはありますけどね

*2:「浪速ショッピングセンター」の肉コーナーには、「さいぼし」「こごり」「カス」がわんさか並んでいます。

*3:別に定食屋でもいいんですけどね・笑

大阪でフィールドワークとか

朝、1時間目の授業が終わったら、そのまま人権教育研究会の出張で大阪へ。
まずはリバティ大阪。
リニューアルされて、これで3回目かな。来るのは。でも、仲間と一緒に来るのははじめてです。まぁ、いまさらなんで「ほれ、あそこに写真があるやろ」とか、しょーもないツッコミを入れてました。まぁ、たいていの人は1枚は気づくのですが、もう1枚はなかなか気づきにくいやろうなぁ。なにせ、後ろの方で飲んだくれている写真やし(笑)。

他にも、ワークシートとか図録に載っているんですよね。はぁ…。
昼ご飯は、「浪速ならではの」ということで、「岳」に行ったんですが、なくなっていました_| ̄|◯。なんで、解放同盟の浪速支部に変わってるねん。てことで、「ニューなに和」に行きました。肉巻定食、うまかったです。つい、ごはんを全部食べてしまいました。ちょうど研究所の知りあいにあったもので、郵便配達をたのでしまったり*1、有意義な昼食でした(笑)。
午後は、太鼓集団「怒」のメンバーの話。
もともとは浪速の歴史について話を聞くはずだったのですが、講師の方が熱を出されたとかで、かわりに地元で地道な活動をしている人が話をしてくれました。たしかに、歴史を聴こうと思っていた部分については肩すかしを喰らった気がしますが、話の内容は、それはそれでよかったです。
「太鼓の作り手はいるけど、太鼓の打ち手がいない」という状況に、まずは外から疑問が来る。それに答えるようにして、だんだんと太鼓集団ができあがっていく。すると、逆に「太鼓」がアイデンティティを補強するみたいな感じ。あるいは、さまざまな差別的な状況と立ち向かっていく原動力としての「太鼓」。差別の壁を乗り越えていくための「太鼓」。言ってみれば「誇りうる文化」としての太鼓なわけです。そして、それを次の世代に伝えていく。
う〜ん。
ええ話やなぁ…。と思いながらも、「はたしてトランスに「誇りうる文化」はあるんだろうか」と思い、ちょっと複雑な気分。

*1:すんません

自主フィールドワークとか…

今日は、人権教育がらみで「ツラッティ千本」の見学と西陣のフィールドワークでした。案内してくれたのは、小林丈広さんです。この人の話は、近代史を「衛生」という観念から解き明かしていくもので、ものすごく面白いです。
今回は、とりあえず、軽〜く「町式目*1」にかかわる説明を受けたんですが、それぞれの町の「まちづくり」への考え方というのがよくわかりました。
で、その上で西陣へ。おそらく織物産業が繁栄していた時は現代の「町式目」みたいなものが不文律としてあったんだろうけど、いまや完全に崩壊しはじめていることがよくわかりました。それがいいことなのかわるいことなのか…。なかなか評価は難しいですね。
午前のフィールドワークが終わったら、午後の講演まで時間があったので、ふたたびツラッティの近辺を自主フィールドワーク。「お土居」があるのが京都の「町」の面白いところなんですけど、このあたりには残っているんですね。で、そこを境目にしてがらっと町のたたずまいが変わります。なるほどなぁ、と。
午後はふたたび小林さんの講演。実は、同じような話を5年ほど前に聞いているので、さほど新しい収穫はなかったんですけど、明治30年あたりからの部落の有力者層の流出の話は、やはり刺激的でした。まぁ、個人的には流出する気持ち、わからんわけじゃないけどね…。

*1:「これこれこういう仕事の人には家を売るな」という約束事

まずは、フィールドワークから

韓国から教職員組合の人たちが日本に旅行に来られていて、「ウトロに行きたい」というリクエストがあったそうな。で、それがめぐりめぐってわたしのところに「コーディネートしてくれ」というふうにまわってきて、結局今日は半日みなさんにつきあうハメになってしまいました。
合流場所は清水寺。3年坂とか歩いたのはいつ以来でしょうね。20年では効かないなぁなどと思いながら、バスターミナルまでぶらぶらと歩いていきました。で、出発時間になってもぜんぜん人が集まってこない。まぁ、教員が時間にルーズなのは、日本も韓国も変わりませんわ。マジで、教員の旅行の引率だけは、ぜったいにイヤです(笑)。
途中、ちょうど9条の高橋*1を通るので、「左手に見えるのが、在日大韓基督教会で、その向こうの堤防の上にかつてはたくさんの在日の人たちが住んでいました」などとガイドをしながら行くことにしました。といっても、もちろん通訳してもらいましたけどね。
ウトロでは、町内会の副会長さんに案内をしてもらいました。実は「あんたにふろうと思ったんやけどな」と笑っておられたのですが、そんなんムリに決まってますやん。で、一緒に回らしてもらったのですが、いつになく力が入っていましたね。やはり、この間韓国の人たちのウトロへの支援がすごいし、そのあたりもあったのかなぁ。ふだんは「ここまでは行かないよ」という奥の奥まで案内されていました。いや、勉強になりました。

*1:どうぞ、「たかばし」と読んで下さい

午後はフィールドワークと講演

午後は、奈良県のある部落のフィールドワークと部落史にかかわる講演でした。
いま、フィールドワークをして「被差別の実態」を直接的に感じることとができる部落は、ほとんどないかと思います。この町も、そんな部落です。でも、昔と今を比較することや、「いま」をほんの少し深く掘り下げることで、部落の中に凝縮された「現代社会」の諸矛盾や、部落を社会が必要としている現実を感じることができます。また、「より昔」を知ることで、部落差別の本質に迫る糸口を見いだすことすらできます。たった1時間だったけど、とても有意義なフィールドワークでした。
そして、部落史の講演。「部落の人たちは異能者集団だった」という話はとても刺激的でした。また、文書の中から、近世以前においては、部落の人たちは必ずしも貧困ではなく、また、周辺の人たちとも頻繁に交流をしていたこともわかることが、指摘されました。そのあたりを、講演のレジュメのまとめから引っ張り出すことにしましょうか*1

S地域とT神社の神事について

  • 呪術的(神話や陰陽道を駆使した神事)な猿田彦、皮引ねり、皮的張りなどは、素人に命じられるものではなく、それなりの伝統に裏づけられたもの(異能者)であり、近世に担任させられたものではないと考えられる。
  • 近世には氏子から排除されていたが、神社祭祀には異能者として参加していた。
  • 社会の常態を維持するための異能者の存在は、社会的に認知される存在であった。
  • 近世後期には畏怖されながらも、異なった集団として観念的に異端視されるようになった。
  • 近代以降も、神事執行の呪術性に対する畏怖は立ちがたく、1915年(大正15年)まで続けられていた(地区内では、異能者としての自負と、異なったことはやめようという意識が相克していた。一方、周辺地区では部落民を神事祭祀から排除したいという思いと、神事の伝統的な呪術性から異能者を畏怖する意識が葛藤していた)。

S地区の経済力について

  • 近世には、農業や草場所有による権益、皮革産業などのいわゆる部落産業の他、周辺地区住民を顧客に質屋や万屋など積極的な経済活動を営んでいた。
  • 周辺地区住民に金を貸したり田畑を売買するなど、その経済力は周辺地区をしのぐものがあった。
  • その経済力は近代初期まで続き、積極的なムラづくりが行われた。
  • 松方デフレ以降窮乏化が進む中、S地区では親方層は皮鼻緒で潤うが、一方、県内部落から職を求めて入り、人が増え、低所得者層が増加し、二極化が進んだ。

結局、問題になるのは、近代以降だし、「異能者に対するまわりの人たちのまなざしの変化」を読み解いていく必要があるのかなと思いました。ただ、地区内・周辺地区ともに、「葛藤」があったことはすごく興味深く聞きました。
で、しめくくりに「意識面の差別をなくすためには、いままでのやり方をすべてチャラにして、一からつくりなおしていく必要がある」ということを力説されていました。その通りやなぁ。

*1:講師の方、すんません。わたしの力量ではまとめきれないんです。って、ここは読んでおられないでしょうけど…。

ムラ中のお散歩

みなさん、研修のあと懇親会をされるということで、わたしも参加することになりました。懇親会が始まるまで1時間ほどあるということで、旧南王子村の自主フィールドワークをすることにしました。
まずは、第1住宅(笑)から。でかい…。ピロティーではおばあちゃんたちがジュースで宴会をしていました。コミュニティがあるなぁ。その近くに古〜い工場があるのでひょいと除くとガラス工場。なるほどなぁ。このムラの産業には「人造真珠」があります。これについての詳しい展示はりばてぃおおさかにあります。そこからは延々と住宅とその下の店舗群が並んでいます。それにしても、このムラはほんとうにお店が多いです。それだけ活気があるということなんでしょうね。途中読み聞かせのとりくみで有名なS保育園なんかもあります。
と、そこに肉屋をハケーン。ひょいと見るとカスハケーン。思わず2袋ゲットズサー(笑)。お金を払いながら「これ、どこから入れてはりますの?」と聞くと、「うちは松原からやねん」とのこと。なるほど…。やっぱりここでもなかなか入らなくて、たまたま入荷したとのことです。ラッキー!今度の玖伊屋で出そうかな。
その後、フラフラとあちこち見てまわったのですが、なんでわかるんかなぁ。しばらく歩くと「ん?ムラからはずれた」と直感して左折。「ん?ムラに帰ってきた」と安心。これを繰り返しながら結局ムラの最外周に近いところをまわっていました。でも、だんじりの倉庫とか(前の道を見たら線が引いてあるのを見て納得・引き回しの練習をしてるんだ)お寺とか神社とか、いいものをいっぱい見ました。そうそう、すごくしゃれた門構えの奥に和と洋の建物がある古い豪邸があったのですが、隣を見るとやはり人造真珠の輸出販売をしているところでした。部落=貧困という図式は、少なくともこのムラではあてはまらないということがよくわかりました。もちろん、貧困な人もたくさんいるのですが、それはどこの町でも同じことなんですよね。
てな感じで、微妙に進路を調整しながら、ぐるりと一回り。第1住宅に帰ってきて、約1時間のお散歩糸冬了。