鶴橋のもうひとつのフィールドワーク

今日は出張ちょぼやき会in鶴橋です。なので、鶴橋まで行かなきゃなりません。きついな。わかってたけど。まぁでも、がんばりますか。
ということで、昼ごろの新快速に乗って大阪へ。大阪駅では一度ラッチの外に出て、再入場(笑)。鶴橋に着くと、すでに他の人はおられました。が、ちょっとゴメンして、リポDを一気飲み。気持ち悪くなってきました。とことんカフェイン系がだめになってますね。
で、街歩き開始です。今日の案内人は足立須香さんです。
これまで鶴橋のフィールドワークと言えば、郭辰雄さん金光敏さんにお願いしていました。まぁ王道です。が、足立さんの案内は一味違ったものになるかな。
まずは国際市場です。なんかもう、きらびやかです。が、こんなんじゃなかったよなぁ。まぁそういう話です。近鉄のガード下、なにやら変わったって聞いてたけど、ほんとに変わってますね。それでも古い街並みは残っています。

そういや、あらためて「上」を見たことはあまりなかったですね。おもしろい。
やがて国際市場から本通りへ。今日はマルシェをしておられるとのことで、このあたりで足立さん、知り合いとあいさつしまくりです。と、なんとなく見たことがある人が…。あとで聞くと姜信子さんでした。
やがて御幸森商店街の方へ。が、疎開道路ではなく、ひとつ西の道を行きます。このあたり、一般的に「鶴橋」と言われるイメージとはまるで違いますね。なんでも大地主さんがおられるんだとか。
そして御幸森神社。わたしは勝手にあたりをウロウロ見てました。が、これだけは…。

難波津の碑です。足元はこれ。

なるほどなぁ。ちなみに、日本人からも韓国人からも反対があったけど、徳山商店の洪さんと三宅製粉の三宅さんが団結して、そこに歴史学者もかかわって建立を実現させたんだとか。
ここでいったん解散。フリータイムです。わたしはケッパリを探してフラフラ。しかし人が多い。のはしかたないとして、日傘がこわい。目に刺さりそうな気がします。まぁそれでも韓国語が飛び交う八百屋さんでケッパリを仕入れて、大阪コリアタウン歴史資料館へ。ここで社納さんと合流です。歴史資料館では、金恵美さんと足立さんの会話を楽しませてもらいましたが、ついつい
「実はわたし、クロスベイスのアドバイザーでして」
とか、いらんことを言ってしまいました。でもまぁ、おかげさまでさらにディープな話を聞かせてもらえたので、よしとしましょうか。
頃合いもよしということで、歴史資料館を出て、公園のトイレへ。なにせコリアタウンにはトイレがありませんでした。なので、プールかスーパーのトイレを使うしかなかった。が、それはまずいということで、トイレをつくられた。が、ティッシュは有料です。そして公園の入口にはドルハルバン。
お次は「いくパー」です。一昨日〜昨日は夜市をしてたけど、今日は静かなものです。とりま図書館へ。名前を登録しなきゃならないので「J高校40年生」って書いておきました。ちなみに、今日はクロスベイスはお休みみたいです。当然か。
そしてyosugaへ。ここで足立さんの話を聞くわけですが、たぶん話の内容をわかってるのは、わたしくらいかな。A久○さんはわかるか。他の人はわからんだろうなぁ。でも藤尾さんに
「固有名詞を変えたらわかるでしょ?」 
と言うと、
「わかる」
と即答されました。まぁ、そういう意味ではどこにでもある話です。
やがて夕食会。本日のメインはこれです。

参鶏湯です。おいしい。が、少し塩辛い。なので、ビールが進みます。
ごはんを食べながら、いろいろ学校改革的な話。例えば校長が変わって学校が変わったみたいな。ちなみに、変わる前のその学校、もしかしたら『「同和はこわい」考』に出てきた話かも。まぁそれはおいといて…。
西光万吉もそうですが、なんか、ヒーローをつくってしまう感じがどうもいやなんですよね。なので、地元の中学校の話をしてみました。ここ、30年以上、さまざまな立場の人が集まって学力について話し合ってます。その中で、おそらく教員は変わらずさまざまとりくみをしてきた。でも、それが周囲から正当に評価されず、かつての「荒れ」のイメージで捉えられていた。でも、その中学校に入学した生徒がその中学校の「よさ」を実感し、保護者も実感することを通して、中学校への評価が変わった。
そんな話です。この話にヒーローはいません。その代わりに、たくさんの人による長いとりくみがある。たぶんそういうのが大切なんじゃないかと思うんですけどねぇ。
そんなこんなで、8時になったのでお開き。帰りの電車で今日の写真を見てたら、内田裕也が来てたことが判明。

さらに「虎の穴」出身のレスラーも来てたみたいです。

まぁそんな感じの楽しい出張ちょぼやき会でした。が、疲れた…。

部落差別をなくす教育について

今日から学年末試験です。今年も長かったような短かったような。今日のカントクは3時間目だけです。なので、立番のあとは事務仕事。レジュメを送ったり、書類を受け取ったり。そういえば先月入稿したゲンコが今日あがってくる予定です。いつになるだろ。
そんな感じで午前を過ごしてて、いよいよ試験カントクというところで印刷屋さんが来られたという連絡が。ピンポイントやなぁ。でも、あと10分遅かったら受け取れてないのでラッキーです。仕分けなんかを若い衆に頼んで、試験カントクへ。カントク中はボー。なにせ、カンニングされるか阻止するかみたいな切迫した状態がないですからねぇ。
カントクから帰ってきたら、すでに仕分けも車への搬入もやってくれてました。ありがたい。
てことで、おべんとを食べてスタートです。向かうは第2のふるさとです。今日は第2のふるさとのフィールドワークと講演です。
会場に到着してビデオカメラをセットしようとしたところで、三脚を忘れてることに気づきました。まぁ地元で借りられるかと、隣保館に行ったら「ない」と。しかたないので解放同盟の支部に行って聞いたら「ない」と。最後の手段で、中学校へ。校長室のドアを開けて
「貸してもらえません?」
と聞くと
「ええよ」
とのお返事です。ありがたや。
そんなこんなで、まずはフィールドワークから。案内してくださるのは中村義孝さんです。
「見るところ、ないで」
と言われたとおり、たぶん見るところはあまりないです。でもそれは「今」を切り取ったらということです。歴史的な変遷の経過としての「今の姿」と考えたら、いっぱい見るところはありますね。
「この2戸一は35平米くらいです」
M田さんたちに通訳します。
「玄関入ったら台所があって、そこが3畳くらいかな。奥に4畳半か6畳くらいの部屋があって、2階にふた部屋あるねん。今日日の若い人やったら、ひとりのスペースやろ。ここで家族が暮らすねん。でも、「御殿みたいや」って言ってはってん」
過去があって、今があって、その途中にあるのが「2戸一」です。
道があります。溝蓋があります。かつては溝蓋はなかった。すると、2mの道幅が一気に1.5mに変わります。すると車が入らない道になります。そういうふうに町並みを見ていくと、学ぶところはいっぱいあります。
そして講演。
まずは昔の写真の紹介から。そして義孝さんの生い立ちへ。
今は部落解放のゴリゴリの活動家であり実践家である義孝さんも、子どもの頃はそうではなかった。当たり前か。でも、まわりがみんな「そう」であれば、「わからない」んですね。それが、中学校の教員[1]野口良子さんとの出会いを経て、全奨への参加で大きく変わっていかれます。
しかし、教員を目指された理由が、まぁアレですわ。〇〇事件というか、そういうのって、まぁ時代ですねぇ。
で、教員になってからが、またすごい。新採2年目には「なぜ在日の子らの進路保障がされてないか」って提起して、翌年度には外国人教育委員会をつくってしまわれます。行動力がハンパないですね。
そんな暑い話のあと、さらに暑い話です。あの旗・あの歌・あの年号の話です。聞いてる教員の反応が気になるのでチラチラ見てましたが、特に何もなく。てか、いつも元号使ってる人はどんな気持ちで聞いてるんだろ。
そんな感じで、暑い講演が終了。うーん、でもまだ話してほしいな。ということで質問。
「子どもたちの課題はどこにありますか?」
やはり低学力問題が出てきます。別に「部落だから低学力」というわけではないです。きっとそこには文化資本とかさまざまな要因がからまって、「学校の成績が低くなる」という結果が出てきている。ただ、そういう課題があるということは、若い教員に知ってほしいし、その低学力をなんとかしようと、これまでずっととりくんできたということも知ってほしいですね。
そんな感じで、今日の研修会は終了。さてと、帰りに中学校に寄って三脚返さなきゃ。

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1 野口良子さん

米子で出張

朝、起床は5時半です。眠いです。でも出発が6時だからしかたないです。ちなみにパートナーの起床は5時らしいです。
とりま、ほぼ予定通りの6時過ぎに家族全員を乗せてスタート。向かうは米子です。運転しはじめてしばらくしたら子どもたちは寝てしまいました。パートナーにも「寝たら」というのですが、しばらくはあちこち写真を撮っています。まぁそういう人です。でもやがて寝てしまいました。なんでも30分しか寝ていないとか。みんなが寝てしまったら休憩する必要もないですね。ということで、延々と運転を続けて、やがて米子に到着しました。
まずは今回お世話になるKうちゃんの家に荷物を下ろしましょう。今日と明日、パートナーが出張アロマサロンをやることになっています。その後、Mみさんの車に乗せてもらって会議の場所に移動です。わたしは近中四女性部長です。というか、これがあるから米子に来たのでした。
やがて会議開始。が、眠い。そりゃそうか。でも、会議は大切です。いろんな情報が手に入ります。わたしも京都の状況をほんの少し報告です。そうそう、学習会の宣伝もしておかなくちゃ。
で、なんとか会議も終了。昼ごはんはなかなか豪勢でした。

で、フィールドワーク。今回は米子の戦争遺跡をまわるとのことです。
まずは奈喜良壕から。

内部はこんなの。

めっちゃ立派な壕です。なんでもあとで行く美保基地から戦時中にいろんなものを持ってきたんだとか。
続いて掩体壕[1]「えんたいごう」と読むらしい。←自分へのメモです。

なんでも、戦時中にここに発電施設があったんだとか。これが発電機が乗っていたのではないかとされる台座です。

思わず
「焼肉いっぱいできるな」
と言ってしまって失笑されるなど。
そして美保基地。

ちなみに場所は米子鬼太郎空港の隣です。なんでも、美保基地が米子空港を使っているのではなく、米子空港が美保基地を使っているんだとか。近くにはレーダー施設もあります。
なんでも美保基地の滑走路は元々のものを延長したものだそうです。そのためにJR線を曲げたらしいです。こんな時に役に立つのは「昔の航空写真地図」ですね。

そうそう、美保基地は戦後米軍に接収されたんだとか。てことは、当然のことながら歓楽街があったはずですよね。そんなことを質問したら
「駅周辺にありました」
とのことです。たぶんここですね。

帰りのバスの中で「中国脅威論の誤り」についてレクチャーを受けてフィールドワーク終了です。
速やかに米子駅に移動。あり?新しくなった?少々とまどいながらも無事汽車に乗って、Kうちゃんのお家へ。少しだけヘッドをやってもらって、宴会です。「ババア」、うまし!お酒うまし!気がついたら寝てました。

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1 「えんたいごう」と読むらしい。←自分へのメモ

足尾鉱毒事件はまだ続いてる

青年討論集会の2日目はフィールドワークです。8時集合スタートなので朝は早いです。とりま朝ごはん。

カレーがあると、つい食べてしまうのが悲しいです。完全に昨日から食べすぎです。
で、フィールドワーク。基本的には2コースあって、どちらもとりま日光に行くとのことです。まぁあまり関心がないのはいつものことです(笑)。
今回は団体ということもあるし、おそらくどうせならってことで、ガイドの人はいるわ、特別に中に入れるようにしてくださってるわ、いたれりつくせりでした。てことで、輪王寺の仏さんを真下から見たりしたのですが、つい
「メンチ切られた」
とかボケてしまうのは性ですね。
東照宮の近くに文化財保存の碑があります。

これも
「モノリス?」
とかボケてしまいます。陽明門から中に入ります。
ガ「ここから先は悪い人は入れないんです」
い「あー、ブザーが鳴ってシャッター降りるわ」
鳴らなかったので
い「故障してますね」
ガイドさん、苦笑してはりました。
でも、ネコはかわいい。

その後、なんとかいう国宝の中でキヨメてもらいましたが、「頭さげろ」とか言われたので、断固して下げるものかと。てか、キヨメるってなんやねん。
最後は「鳴き龍」です。なので
「あんた、背中がすすけてるぜ」
とだけボケておきました。やれやれ。
そして昼ごはん。

明らか、食べすぎです。
ここから、お待ちかねの足尾銅山です。
ちなみに、わたしは足尾銅山についてのい知識はゼロです。足尾鉱毒事件⁼田中正造くらいしか知りません。ワクワクします。
バスは足尾駅からさらに進みます。と、妖怪アンテナが…。炭住と同じニオイがする建物です。たぶん、鉱夫さんのおうちですね。と、煙突が。

たぶん製錬所かな。知らんけど。
そして「銅親水公園」へ。ここの「環境学習センター」で、ようやく足尾鉱毒事件の全貌を知りました。まぁ予習をしていけよという話なんですが、しないのはいつものことです。
簡単に言うと、渡良瀬川に垂れ流しにされた汚染水と、煙突から出た硫化水素入りの排ガスの問題ってことかな。特に後者は赤木村を廃村に追い込んで、あたりの山の森林を枯れさせて、保水能力を奪ってしまったと。それが下流域の水害につながると。
足元に広がる地図。

砂防ダム、どんだけ多いねん。ふと聞きたくなって
「あの、鉱夫の人たちはどこに住んでたんですか?」
やはり先ほどの妖怪アンテナはあたりだったようです。
このあたりの今と昔。

学習センターを出て、あらためて周囲の山を見ます。

振り返ると

そして煙突。

あそこから煙が出てたんだなぁ。
帰りの道で住宅をパチリ。

完全に廃屋ですね。
と、タンクが。

ちなみに、坑道からは今も汚染水が出ていて、その処理は続いていると学習センターで聞きました。
「永遠にやらなきゃなりませんね」
とのことです。そして、植林もはじまったところです。まだまだ足尾鉱毒事件は続いています。
複雑な思いをいだきながら、足尾銅山観光へ。
トロッコに乗って坑道に入ります。坑道の中から外を見るとこんな感じ。

坑道の中は「丹波マンガン記念館」にお金をかけた感じです。逆に言うと、丹波マンガン記念館ってすごいなってことですね。
ただ、こちらは足尾銅山についての資料館という感じですね。なので、わたしの関心があまり向かない(笑)。
なんでも、足尾銅山を世界遺産にしたいとか言ってはるみたいですが、足尾銅山と朝鮮人労働者のあたりを自己批判しないと、たぶんムリでしょうね。阿久沢さんも取材しておられるようです。
そんなこんなで、再び宇都宮駅にもどって、さてと帰りましょうか。
とりま2日間、おつかれさまでした。とりま、アテは宇都宮餃子ですな。

そして、東海道新幹線に乗ったところでカンパイ。

疲れたけど楽しかったな。

沖縄人として日本人を生きるー「異和共生」社会を目指して

今日は大正区のフィールドワークです。なので、少しだけゆっくりできます。
てことで、ゲンコをいじるなど。しかし、どんだけゲンコをやりつづけないといけないんだろ。ゲンコをやりつづけるってことは、つまりは書かなきゃならないわけです。てことは、どこかから依頼があるわけです。なんでわたしに依頼するんだ?まぁでも、依頼があるうちが華ってことかなと思いながら書いてます。
で、頃合いもよしということで、おにぎりを持ってスタートです。いや、大正区だから沖縄そばを食べたかったけど、ここは倹約です。大正駅からコミュニティセンターまでが遠い。が、がんばって歩きましょう。ここは倹約です(笑)。
で、コミュニティセンターに着いて、おにぎりパクついて、金城馨さんが来られるのを待ちます。少し遅れて来られて、フィールドワークがスタートです。
もちろんわたしは記録係です。なのでビデオカメラをまわします。おかげさまで、特等席で聞くことができます。
まずはご自分の名前から。現在、金城さんは「かなぐすく・きんじょう・かおる」と自らを名のっておられるとか。その説明が長い(笑)。当然です。名前をめぐる話は延々と語るしかない。
続いてジオラマを使ってそして大正区の成り立ちやウチナーがもともとおられた場所の説明です。

これが長い(笑)。それも当然です。自分たちの来歴や大正区内の移動の歴史は簡単には話せません。そしてようやく外へ。
まず向かったのは具志堅幸司さんの碑です。

ここで、再びウチナーの名前をめぐる話がはじまします。これが長い(笑)。ビデオカメラ、軽いけど、それでも腕がプルプルします。でも、ガマン。内容はおもしろい。
ちなみにわたしは何度か金城さんの話は聞いてるし、金城さんが送ってくださった著書も読んだし、ある程度のことは知ってます。が、やはりライブはいい。
「差別があるとき、とれる方法は3つ。ひとつは「差別はいけない」と闘うこと。でも、正しさと正しさがぶつかるとマジョリティの正しさが勝つ。だから容易ではない。そこでとるふたつめの方法が差別を受け入れること。だから、多くのウチナーが名前を日本語読みにしたり、さらには名前を日本人風に変えていった」。
と、突然事務局長がカットイン。
「あの、30分ごとに休憩と給水の時間をとってください」
一瞬なにが起こったかとポカンとされる金城さん。やがて
「わかりました」
と。
あわてて金城さんのところに行くわたし。
「すみません」
と謝りながら、名前をめぐる話を少ししたり。なにせ、わたしの友だちにはミドルネームを入れてる人が山のようにいますからね。
やがてフィールドワーク再開です。
お次は千島公園の横にあるデイゴの花の横で話。

「ふだんは「この花はなんでしょう」からはじまりますが、今日は時間の関係でやめておきます」
うーん、もったいない。おそらくそこから話がふくらむはずです。デイゴの花には一世の思いが詰まってるとのこと。きっといっぱいあるだろうになぁ。
そして振り向くと千島公園のグラウンドです。

ここはエイサー祭りの会場です。わたしもかつて来たことがあります。
ここで、「いつはじまるのか」と待つおばあと、「恥をさらすな」と怒るおじいの話。ここで先ほどの具志堅幸司の碑で話した伏線の回収がはじまります。
が、すぐに終わって、次に向かうのは昭和山の入口です。ここにはソテツがあります。

ここでみんなを座らせて、金城さんは語りはじめられます。
「ソテツと言えば、あとに続くのはなんですか?「地獄」です。「ソテツ」には「地獄」。「安保」には「粉砕」。「ソテツ地獄」「安保粉砕」同じことです」
笑いました。そして、なぜソテツ地獄があったのか。それは日本人の問題であると。沖縄を知ることは沖縄を知るためではなく日本を知るためである。これは最初から一貫するテーマですね。そして、我田引水かもしれないけど、わたしがガッコでやってる人権学習もそうです。
て、関西沖縄文庫へ。なんでも昨日から今日にかけて会場をつくってくださったんだとか。今日、ほんの少しだけ遅れられたのもそのせいですね。
ここで少し動画を見て、ここから人類館の話がはじまる。
「人類館を知ってる人?」
手を上げたのは3人くらいです。みんな、わたしの部落問題学習のプレゼンを見た人です(笑)。
ただ、金城さんは「人類館は事件になったのか?」と問われます。たしかに事件になってません。つまり、日本社会はそれを問題と捉えてこなかった。だから事件にしなければならない。
そしてもうひとつ。多文化共生の危うさです。多文化が共生しようとすると、どうしてもマイノリティに侵略されてしまう。例えば、言葉ひとつとってもヤマトンチュに理解させるためにはウチナーグチを使えなくなる。そうやって侵略される。だから、侵略されないためには壁が必要である。そして、互いの壁と壁のすき間で共生をすればいい。もしも侵略されそうになったら、壁の向こう側に逃げ込めばいい。
だからこその「異和共生」なんだそうです。なるほどなー。
しかし、考えを言葉にするのがうまい。いや、このうまいは小賢しいという意味ではなく、ほんとうにうまい。わかりやすい。そして意表をつかれます。ちなみに聞いてた教員のほとんどがヘッドバンギングしてました(笑)。
そんなこんなでフィールドワークと講演は終了。わたしは預かりものがあったので金城さんとサシになろうとしたけど、あとからあとから金城さんに感想を言いに行く人がいて、なかなか順番がまわってきません。一気に人気者になりました。
で、わたしの番がきたので届け物を届けて、ついでに
「このへんで飲めるところ知りませんか?」
と聞くと
「開いてるかなぁ」
とか言いながら、わざわざ連れて行ってくださったのが正起屋です。てか、前を見たら「○田」のマークがあります。わたしが来てるボロシャツは、まさに田嘉里酒造所のものです。
金城さん
「やすくなりますか?あ、そうですか。高くなりますか」
とか言っておられます。とりま、帰ろうとされる金城さんを「30分だけ」と言って、無理やり誘ってしばし懇談。
しかし、フィールドワーク中とか講演中の金城さんとは打って変わって柔らかい表情をされてます。この顔が見られただけでも御の字です。
30分でお店を出て、バスに乗って、大正駅へ。お次は「いちゃりば」です。お友だちのK山さんが仲間を集めてくださいました。そこに高校教員を連れて乱入です。
わたしな隣におられた小学校の教員と、延々と話。もちろん1軒目では足りないので、京橋まで移動して2軒目へ。
そんな感じで、ディープな夜が過ぎていきました。明日は平日なんですけどね…。

朝鮮人虐殺事件フィールドワーク

朝、7時に目が覚めました。スマホを見ると、どうやら昨日自撮りをしたらしいです。いったいなんのために…。
とりあえず朝食を食べましょう。が、朝食券がない。どうなってるんだろう。とりま1階に行くと本部の方がおられて、おべんとを渡されました。

本当はコーヒーとパンがいいんだけどなぁ。まぁでもせっかくなので電子レンジで温めてから、おいしくいただきました。
人権教育実践交流集会の2日目はフィールドワークです。今回は「関東大震災100年ー関東大震災直後に何が起きたか 朝鮮人虐殺事件フィールドワーク」です。
もちろん多数の朝鮮人が虐殺されたことは、授業でも話します。が、きちんと勉強はしてきませんでした。まぁそんなのでよくしゃべれるなって話ですが、きちんと勉強しようとすると、それはそれでたいへんです。なので、こういうフィールドワークはとても助かります。
ということで、バスに乗って中條さんのレクチャーを聞きます。「天災としての関東大震災」と「人災としての関東大震災」という話は、阪神淡路大震災の話でもします。が、関東大震災における人災は虐殺です。そして、それは今も続いています。もちろん人を殺しているわけではないです。でも、「それを認めない」という形で、今も続いています。
ということで、まずは横網町公園。ここで多数の人が亡くなられました。なので、ここに「東京都慰霊堂」と「東京都復興記念館」があります。そしてもうひとつ、「追悼 関東大震災朝鮮人犠牲者」という碑があります。
ただ、これらを見る前に、隣にある慈光院に行きました。ここは「震災記念」のお寺とのことです。

中で住職さんの話を聞きました。
「みなさん、震災でたくさんの人が亡くなりました。が、その人たちを追悼するだけでいいですか?」
つまり、生きている人間のケアが必要ということです。そのためにこのお寺が建立されました。中にある阿弥陀如来像には多くの震災死者の骨粉を混ぜられているんだとか。

おそらくそこには、生き延びたものと死んでしまったものをつなげる役目があるのかな。
で、東京都慰霊堂。ここには関東大震災と東京大空襲の両方の死者の慰霊をしています。まぁ「死」という意味では同じかもしれないけど、そこに至る経緯が違いますね。それを一緒にするというのは、なんとなくもやるものがあります。それは復興記念館にも通じるものですね。そして、朝鮮人を「犠牲者」としているところにも通じるものがある気がします。

ということで、「公的なモニュメント」へのモヤっと感を持ちながら、浄心寺へ。ここには亀戸事件の犠牲者の碑があります。
亀戸は労働者の街で、労働運動発祥の地と言っておられました。ここで関東大震災直後の9月4日に社会主義者や労働運動家が逮捕され、4日から5日に軍隊によって刺殺されました。浄心寺はいろいろな集会を開いたりしていた関係で、1970年に「亀戸事件犠牲者之碑」が建てられたとのことです。

梅と青空とのコラボ。

次に向かったのは荒川放水路。木根川橋と京成線の鉄橋の間に旧四ツ木橋がかかっていました。ちょうどそのあたりに虐殺された朝鮮人や亀戸事件の犠牲者たちが野焼きされ埋められたんだとか。ただし、事件が発覚するのを恐れて、直後に発掘してどこかに持ち去ったため、遺骨はいまだにどこにあるかわからないとのことです。
今は河川敷で野球チームが練習したりしています。


きっとここで虐殺があったこと、遺体が埋められていた時期があったことは知らないだろうな。でも、それはすごく大きな問題だと思います。
ちなみに、千葉の教員のかたがそのあたりの歴史を発掘されていて、「現場」がこのあたりであることを知って、堤防の下に小さな土地を買い取って「ほうせんかの家」と「追悼」の碑をつくられたんだとか。ということで、堤防の上からパチリ。

これが「碑」です。

唯一、ここだけが「加害者」をはっきりと書いてあリます。それが情けないですね。
なんでも、1923年12月15日の衆議院本会議で、ある議員が政府の責任を追及したところ、当時の総理大臣は「現在取り調べ中なので、そのうち言う時が来るだろうけど、今はその時ではない」という旨の答弁をしたんだとか。ところがそれから現在に至るまで、一度も「その時」が来ていない。どころか、このような歴史を隠蔽しようとすらしています。
なぜ「あったこと」を「あった」と言わないのかな。「ごめん」と言えば済む話です。そこからようやく前へ進める。でも、隠蔽する。戦前の話だし、政治体制は基本的には変わっています。憲法も当時とは違います。なので「過去は誤っていた」と言えば、それで済む話です。でもしない。きっとそれは、戦前から現在に至るまで、「変わっていない」と考えているからなんでしょうね。つまり、関東大震災における虐殺は、今に続いている。そんなことを考えさせられるフィールドワークでした。

ちなみに、木根川という言葉でわかるように、この少し南が木下川なんだとか。そこに皮革資料館があるということなので、行ってみました。が、日曜日なので休み。残念。でも、このあたりの「におい」がかげたのはよかったな。

で、一緒に皮革資料館に向かった熊本の方と一緒にお昼ごはん。偶然入ったお蕎麦屋さんですが、おいしかったです。もちろんビールもおいしかったです。
さぁ、あとは新幹線に乗って帰りましょう。
家に帰って体重計に乗ったら、えらいことになってました。なので、ちょこざっぷ。腹筋とかレッグプレスとかやりまくって、トレッドミルで7kmを43分36秒で走って、本日のトレーニング終了。さぁ、ビールだ!

水平社設立の地を訪ねる

今日は日教組の近畿ブロック・中国ブロック・四国ブロックの合同の女性部長会議です。これ、本来は土日の2日間でやります。ただ、そういう形で最後に開催されたのは2019年でした。2020年はどうだったかな。去年は愛媛でしたが、さすがに日帰りで行くのはキツイので、ネットでの参加にしました。で、今年は奈良なので、久々に対面で参加しようかなと。
ということで、橿原神宮前駅に移動。
移動中は、もちろんBOSEで音楽です。が、どうもよろしくない。小さな音が続くところで音がふらつきます。なんでだろう。そのせいで、Brucknerを聞く気が激減します。死活問題です。もしかしたら、もともとのソースのワウフラか?んなことはないな。
とりま、音量をあげてみたらどうなるか実験です。で、音量がマックスになったところで、いきなり「ソース通りの音量」みたいなチェックボタンが出てきました。
もしかしたら、コンプレッサーが聞いてたのかな?そりゃ音がふらつきます。このボタンをチェックしたらふらつきがなくなりました。よかった。
で、橿原神宮前駅に到着。
ここから水平社博物館まではランです。距離は約6.5km。まずは169号線を南下します。これがきつい。なにしろ歩道がありません。一部あったけど、草が刈ってないので、えらいことでした。途中で右に曲がって、ここからは信号もない気持ちのいい道です。ただし、曲がってすぐの登りは「マジか」と思いましたけどね。
少し雨が降ってるけど気持ちいいです。
そんな感じで4kmばっか走ったところで、右足の太ももの裏側が「ピキッ」ってなりました。これは肉離れやな。でも、受付時間があるので歩くわけにはいきません。とりあえずかばいながら走りましょう。
そんな感じで、ラン終了。6分17秒→6分10秒→6分07秒→6分03秒→6分23秒→6分10秒で、合計39分55秒。アベレージは6分11秒でした。いい感じです。ちなみに、みなさんから驚かれたけど、6kmはたいしたことないですよね。
で、岩崎村のフィールドワークです。
まずは西光寺。言うまでもなく、水平社宣言を起草した西光万吉の生家です。太鼓と鐘。


太鼓はどこのだろう。かつて、とある山の中にあるムラの太鼓が渡辺村のであることが判明した時はテンションが上がりました。きっとこれもそんな感じなのかな。いや、もしかしたら奈良でつくっていた可能性もありますね。ちなみに、鐘は「いろいろあった時」に鳴らしていたんだとか。
続いて灯籠。

「米田長一郎」とあります。こんなのを寄進したんだ。そして西光万吉のお墓。

なんでも1970年まで生きておられたんだとか。
お次は「5万日の日延べ」にかかわる石碑です。

しかし、賤民廃止令から5万日たった2008年9月3日に「5万日」を記念して立てられたとのことですが、それから14年たった今もなくなっていないわけで、もうなにがなんだか。
ちなみに、西光寺は現在は階段がありますが、もともとはこのあたりに道があったんだとか。そして、西光寺と道をはさんで向かい側に駒井喜作の家があったんだとか。
ここからは燕神社です。

この前にある広場が「建議の庭」と呼ばれているんだとか。で、案内の方曰く、このムラの源流は、この燕神社のあたりで、なんでも陰陽道をやっていたんだとか。それにしても、社のまわりにある石柱に刻んである名前がおもしろいです。
で、山を下りて、阪本清一郎の膠工場跡へ。現在はここに水平社宣言記念碑があります。

バックは燕神社です。
そして最後に行ったのは神武天皇社。

ここを見下ろす位置にあるのが、やはり燕神社です。
神武天皇とムラというと、はずせないのが洞村でしょうね。あちらは移転があったんだけど、こちらはなかった。そのあたりがおもしろいです。案内の方は
「それがイヤだから、ここが神武天皇のお墓であるといういわれのある紙を燃やしたんじゃないか」
とか言っておられたけど、笑ってしまいました。
ちなみに、燕神社は神武天皇社の鬼門の方向です。陰陽道の話も相まって、実はいろいろあったんじゃないかなぁと想像できますね。
ちなみに、神武天皇社の隣にあるのが誓願寺です。ここの住職だった三浦参玄洞という人は、西光万吉を精神的に支えたり、水平社設立趣意書の印刷を請け負ったり、いろいろ水平社を支援・協力されています。水平社って「当事者運動」だし、当事者vs非当事者みたいな構図で捉えられがちかもしれませんが、実際にはもっともっと豊かな関係の中であったんだろうなと思います。
で、昼ごはん。どんなお弁当かと思ったら、これでした

カスいりのお好みです。うまい。さいぼしもうまい。
午後は浦一志さんの講演です。が、よく聞こえない(笑)。なんでも、学校の文書の中から掖上小学校の合同にかかわるものが出てきて、それを教材化されたんだとか。こういう地域教材は「伝える力」がありますね。
そして水平社博物館の見学です。案内された方は、やたらSDGsを強調されますが、ええやろ(笑)。あと、帝国弘道会を「上から目線」とか大和同志会を「まだまだ不十分」とか言って、それらとの対比で水平社を語られるんだけど、それはイマイチやなと。大和同志会がなければ水平社はなかっただろうし、帝国弘道会がなければ大和同志会はない。歴史の流れの中で価値観の変容もあるだろうし、立場によってできることとできないことがある。そういううねりの中にさまざまな運動や施策があるんだと思うし、そう捉えた方がより豊かなものへの気づきがあると思うんだけどなぁ。
そんなこんなで水平社の話はおしまい。その後、女性部長会議です。
全国の情勢を聞いたり、各府県のとりくみを教えてもらったり。みなさんがんばってはるなぁ。京都も集まらなくちゃね。

で、水平社博物館を後にして、移動開始です。と言っても、近鉄急行一本ですけどね。
で、京都駅でT田さん・Uりんちゃんと合流。お酒を買いに行くと、そこへIちくんから電話。そんなふうにして、R恵さんの家に集合。今日は「気のおけない仲間たち」の飲み会です。なにがなんだかわからないけど、興味の赴くままに話をして、若い衆にウィスキーを買ってきてもらって、飲んで食べて。そうこうするうちに倒れましたとさ。

「遊所」としての祇園・清水の歴史 ー門前町の成立と展開ー

今日は午後から講演&フィールドワークの出張です。ちなみに、講師は下坂守さん、タイトルは「「遊所」としての祇園・清水の歴史 ー門前町の成立と展開ー」です。すでに人権教育研究会の講演かどうかわからないタイトルですが、これもまた人権です。
ちなみに、下坂さんの話は4年前3年前の2回聞いています。それぞれ近接する内容ではありながら、別の話で、メッチャおもしろかったし、いろんなことがストンと落ちた記憶があります。なので、ぜひとも呼びたいと思っていました。ただ「マニアックすぎるかなぁ」と思って伸ばし伸ばしにしていました。が、近年のcovid-19のために遠方へのフィールドワークを自主規制してるので、京都府内で行き先を考えなきゃならなくなって、それなら下坂さんにお願いできるではないかと。てことでお願いしました。
もちろん、みなさんには「マニアックですよ」とは伝えてあります。が、同時に「マニアにはたまらないですよ」とも伝えてあって、さぁどうなるか。
講演開始は13時ですが、会場設定のために12時には行かなきゃなりません。それのさらに事前準備のために、朝イチは家で待機。で、頃合いよしとスタート。会場設営をして、ひと息です。ところが下坂さんが13時直前になっても来られない。もしかしたらと思い、メールの過去ログを見ると、暫定的に13時半と伝えたメールがあるだけで、確定した時間を伝え忘れていたことが判明。アカンやん。それでも13時に来られました。
「すみません、伝え忘れてました」
「いいですよ。そのままはじめましょう」
どんだけものに動じない人やねん。そういや、4年前にも「資料を使ってください」って言われたし、きっとそういう人なんやろなぁ。
てことで、到着されて、すぐに講演開始です。
今回の話は近世における祇園の成立がひとつのテーマです。ここで、近世の祇園近辺の地図や絵図をこれでもかとばかりに何枚も何枚も見せられます。このマニアックさがたまりません。特に今回は「遊所としての祇園」なので、そこで働く女性たち[1]茶立てや遊女や芸妓・舞妓が、幕府と祇園社や建仁寺の利害関係の中でさまざまに翻弄されていく姿を語られます。
それにしても、文書や絵図を見ると、歴史の変遷はわかる。でも、歴史学者って、それがなぜだったのかを考えられるんですね。で、それを裏づけるための資料を探す。そうやって、ひとつひとつの歴史を位置づけていく。
印象的だったのは「これがどこにあったのかはわかっています」「これがいつだったのかはわかっています」という言葉が何度も出てきたことかな。そこまで確定させているってことです。
やがて話は清水の話へ。なんでも清水寺の舞台は3つあったんだとか。でも、現在はふたつしかない。消えたひとつはなぜ消えたのか。これをまた、丹念に絵図と文書から明らかにしていかれます。「執念」という言葉が頭をよぎります。たぶん「知りたい」んだろなぁ。
なんでも清水が焼けて、時宗の僧侶が勧進をして清水寺を再建したんだとか。でも、その僧侶は清水の中に入れてもらえなかった。そこで、清水の隣にお寺を建てて、その横に清水寺を模した小さなお寺をつくった。ところが、時宗の寺が焼けて、それが小さな寺に延焼して、清水の舞台が焼けた。そんな中で、時宗の寺は谷向こうに追いやられ、小さな寺は撤去された。なんか、そんなストーリーでした。
そして最後の最後に「坂」の話。
清水の絵図には清水に参拝する人がたくさん描かれてます。でも、そこに反対方向に行く人が何人かいる。それが「坂者」です。腰になにやら吊り下げてます。「弦(つる)」です。ここから、弦を売るのが生業だったことがわかります。さらに弓矢町の入口にある門の横で物乞いをしてる人がいます。死者の服である白装束や柿色の服を着てることから「癩者」とわかります。したがって、ここが物吉村であることがわかります。そんなことをサササっと、でも濃密に説明されました。
1時間半の濃いぃ講演の後はフィールドワークです。
まずは清水坂を東へ。ここ、尾根道だったんですね。両側を音羽川と轟川が流れてたんだとか。やがて秀吉が新しい五条通りをつくって、そちらにメインストリートは移動して、そのあたりに非人小屋をつくったんだとか。でも、後に再び清水坂も発展する。
その後、東山通りができる前の南北の道へ。この入り口のあたりが鳥辺野で、そのあたりに無縁仏を放り込む穴があったんだとか。で、南北の道にもやっぱり非人小屋をつくる。まぁこのあたりは、もともと田畑しかないところだったわけですからね。
南北の道を抜けると松原通りです。ただ、ふだんのパチモンおさんぽの時はもっと手前で引き返すので、「へー」という感じです。
そして「弓矢町」です。
「坂者」は弦を売るだけじゃなくて、葬送が終わったあと、その道具を奪う権利があったんだとか。このあたりになると、今の価値観からは理解できません。あと、鴨川の河原の耕作もやっていたんだとか。これ、おそらくスキルが必要で、坂者にしかできなかったのかな。だから、坂者はけっこう裕福だったらしいです。さらに同じ非人でも、清水近辺の人たちは外部から流入してきた人であるのに対し、坂者は地の人なので、まったく違うとのことです。ちなみに、弓矢町は祇園社の寺領でも建仁寺の寺領でもない。どうやら、愛宕念仏寺の寺領ということを主張してたとのことです。で、その愛宕念仏寺は坂者が交代で管理してたので、独立した寺領でいられた。さらに坂者は祇園祭のキヨメをやっていて、先頭の人がそれにあたる。さらにその後ろに武者の姿をした人が配置されていて、それも坂者がやっていた。今はその役目はないけど、今も祇園祭の時は弓矢町のあちこちに兜や鎧が出されるんだとか。
そして物吉村(長棟堂)あとです。
物吉村もおもしろい。どうやら物乞いも権利で、都のあちこちに物乞いをするルートがあって、まぁおそらく追い払うためだろうけど、けっこうな金額を集めることができてたらしいです。だから、「死を待つ貧乏な人」という悲惨なイメージとはまったく違ったらしいです。なんなら、癩を患ってなくても癩者になりすまして物吉村にいた人もいたとか。となると「業病」とかいって感染を恐れられてたんじゃないかって話にも疑問がつきますね。逆に言うなら「業病」って概念は、例えば物乞いの権利を剥奪する過程でできた案外新しいものかもしれませんね。知らんけど。
ここから団栗通りのあたりへ。四条通の両側、祇園の門前町は「ちゃんとした」遊所で、多様なニーズに応えられる場所は、もう少し南側。つまりこのあたりだったんだとか。ここで「陰間茶屋」という名前が出てきて震えが走りました。思わず
い「いたんですね」
下「いましたね。たくさん史料が残ってます」
とのこと。
そこから建仁寺の前にある花見小路です。ここが京都で一番新しい「遊所」です。入口にある「一力」は昔からあったんだとか。ちなみにもともとは「一力」ではなく「万」で、「よろずや」だったらしいです。
ただ、花見小路はもともとはここから南しかなくて、北へ向かう道がなかった。つまり、「おたふく」前の道はなかったってことです。北へ向かう道は「切通し」だったんだとか。で、「切通し」に来た時、思わず「ここかぁ!」と叫ぶなど。おさんぽコースです。
最後は、大和大路の入口で説明されます。一銭洋食の店の人が不思議そうな顔をされてます。
「ここが大和大路で、あそこが目やり地蔵。あっちが南座です。かつて鴨川の堤防はこの大和大路だったので、南座は河原にあった」
とされたあと
「京都はいろいろなものが残っていて、地図や絵図と今を比較するといろんなことがわかります。ただ、今の人は、そういうことに興味がなくなってきてるように思います。たいへん残念です。なので、もっと研究が進むことを願っています」
でフィールドワーク終了。タイムオーバーで余部まで行くことはできませんでしたが、ほんとうにメッチャおもしろかった。
実は下坂さんの説明で五条・四条をまわるのは夢でした。やっと実現したなぁ。

その後、夜の仕事へ。今日から模擬授業がはじまります。学生さん、うまいなぁ。きっとプレゼンの場をかなりこなしてるのかな。
まぁわたしが言えるのは「何を」ではなく「いかに」です。なので、そんなコメントを少ししておしまい。
長い長い1日が終わりました。
今日のビールはうまいだろうな。

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1 茶立てや遊女や芸妓・舞妓

フィールドワークとライブと焼肉と

この間、阿K◯さんから「23日、あいてる?焼肉するよ」というメールがありました。どういうわけか、今日はあいてました。てことで、昼前に新快速の中で待ち合わせ。近況報告をしながら向かったのはこの映画の主人公さんのおうちです。
到着したのは1時過ぎ。まずはごあいさつ。とは言え、わたしは初対面です。ちょっとドキドキしていましたが、北出さんは意に介することもなく、ものすごくフレンドリーな感じで接してくださいました。なんか、家の敷地内に工房があるみたいで、中に入ると大きな太鼓があります。

そうか、太鼓の工房でしたか。なーんにも知らないので、とても新鮮です。それにしても、工房の主である北出弟さんの太鼓にかける情熱と知識はすごいです。話の中に柏葉さんが出てこられて、あぁ皮つながりだなぁと。てか、北出弟さん、江戸時代の年号とかをガンガン西暦に変換していかれます。どんだけ知識があるねんと。歴史がさっぱりわからないわたしは、ひたすら聞くばかりです。
やがてフィールドワークです。北出さん、むちゃくちゃ詳しいです。
まずは北出精肉店の敷地の説明からです。今は家もお店も新しくなっていますが、もともとは牛小屋だったんだとか。てことは、ここから屠場まで牛を曳いていかれたってことですね。
続いて保育園の話。もともとは地域の人々が「民」の力で運営していたけど、法律ができて「公営」になります。が、やがて法切れの中で、再び「民営」にもどされたんだとか。実は多くのムラでは法切れの後も行政に「保障」をさせてきました。もちろん、その選択肢は「公にする」という意味で、とても大切です。が、「自分たちの力で」という選択肢もある。そちらを選択することで「自由」が手に入ります。もちろんたいへんですけどね。
そして、屠場跡。

獣魂碑です。
なんでも1910年から2012年まで、100年間、ここで牛を割ってこられたんだとか。まぁ、1910年と言われると、まず「韓国併合」が出てくるのは、わたしのパターンではありますが。ここで屠場の話だけじゃなくて、このあたりのムラの歴史についての話があったり。
このあたり、岸和田城からすぐのところにあります。が、お城からのさまざまな文書は直接ここに来ずに、隣村に行ったんだとか。そこからこことか、隣の市にあるムラに文書が渡ったんだとか。畏怖と排除の微妙な関係を、なんとなく感じますね。
お次は、在日コリアンの集住地域。ここでふと疑問がわきました。
い「あれ?在日の人って施策の対象にならなかったんですか?」
北「ならなかった」
い「えー、たしか、大阪って属地でやってるから、ムラ中に住んでる在日も施策の対象になるんじゃないんですか?」
北「ここ、地区外やねん」
なるほど。道一本隔てて地区外か。なんか、八条通の光景を思い出します。が、ここの格差はもっとすごいです。なんでも、日東紡の建築とか潜水艦づくりとかでこのあたりに住むことになったんだとか。それにしても、10数戸の小さな集住地域ですが、完全に朝鮮人の空間です。例えば、今は崩壊しちゃってますが、豚小屋があります。

そして畑があります。マッコリをつくるマダンもあります。おそらく1950年代~1960年代はエネルギーがあふれる地域だったんだろうなぁ。
で、集住地域を後にして、ムラの中心街へ。道が広いです。施策で広げたのかと思ったら、空襲で150軒ぐらい焼けたからなんだとか。なんと。その横にある住宅、1990年代に建て替えたときに地盤調査したら、大量の動物の骨が出てきたんだとか。さらに年代を調べると1400年代だったそうです。ということは、その頃からここで生き物をさばいていたってことですね。
そんな感じで、2時間弱のフィールドワークも終了。
続いて、炭をいこします。久しぶりにうちわを使っていこしました。最近は着火剤を使ってほったらかしですからね。でも、うまくいこったのでよかった。
炭火が安定するまではヤスムロコウイチさんのライブです。

声がいい。ハスキーボイスがブルースっぽいです。そして、ひとりで自分にツッコミを入れながら歌われるのは、明らかに関西です。A◯澤さんも、今回の仕掛け人のK崎さんも、ヤスムロさんの大ファンです。歌に集中しておられますが、わたしはなんとなくK本さん@青空財団とネギをアテにビールを飲みながら、しょーもない話。小一時間のライブの最後は警察官の乱入です。どうやらエレキの音が大きすぎたらしいです。カメラを向けたら制止されてしまいました。残念。
そして、お待ちかねの焼肉です。うまい。あまりにもうまい。柔らかくてジューシーです。と、すごい肉が!

ミスジだそうです。これはあきません。大切に育てましょう。レアでひとくち、ミディアムでひとくち。たれをつけてひとくち。幸せです。
あとは、ひたすら飲むだけです。いったい何の話をしていたか忘れるほどしょーもない話をしていたんでしょうね。ただ、気がつくと8時10分。やばい、24分の電車に乗らないと帰るのがめっちゃ遅くなります。N山さん@府立人研が駅まで送ってくださって、間一髪セーフ。あぁ、楽しい一日でした。
ヤバイ、明日は健康診断だ^^;;。

岩倉精神医療散歩

今日は某人権教育研究会のフィールドワークです。このご時世なので、遠出はできず、できれば京都でということなので、どこに行こうかと。ウトロは来年度祈念資料館ができるから、その時ですね。朝鮮初級学校に行くのもいいかなとも思いましたが、前に中高級学校に行ったことがありますからね。思いっきりマニアックなところで「弓矢町フィールドワーク」というのもありますが、やはり心が惹かれるのが「岩倉」ですね。
発端は5年前の「洛北岩倉と精神医療」です。とにかくメチャクチャおもしろい講演でした。この講演を現地を歩きながら聞けたらすごいだろうなと。そしてもうひとつ、たぶん誰も知らない話でもあるだろうなと。
てことで、叡電岩倉駅に集合です。雨が降ってます。が、中村さん、歩く気でおられます。まずは駅の屋根の下で概論を話されます。そうこうするうちに雨もやんできたので出発。十王堂橋がスタート地点です。ちなみに、かつてはここが岩倉の入り口でした。そこから岩倉川に沿って「八丁街道」を北上していきます。
が、中村さん、あちらこちらと寄り道をされます。それをたしなめる「助手」の娘さん。おもしろいコンビです。ちなみにこのあたりは「高貴なお方」が里子にいたところなんだとか。
ひょいと駐車場の横にある小道で立ち止まって説明されたのが、「不審火」の現場です。フェンスのところに埋まってる踏み石がその名残なんだとか。おもしろい。
で、またまた狭い小道を縫いながら歩いて、石座神社へ。さらに北上してちょこちょこ歩くと、旧岩倉病院近くへ。現在は岩倉団地になってます。その手前に保養所がいくつかあります。ただ、今は「フツーの人」が住んでおられるので、あまり大きな声で案内ができないんだとか。なので、手前のところで解説されたあと、家を指さして、そのまま通過。
そうそう。このあたりに保養所で働いていた人の宿舎跡があります。ここ、実はランニングのコースで「この家、なんなんだろう」と思っていたところでした。疑問が解けますねぇ。
で、京都癲狂院跡へ。この公園がそうだったんだ。ちなみに毎年お正月に来ているところがそうだったんだ。そして奥にある「井戸」と「滝」の見学です。が、ここも病院の土地なので指さしだけ。
そんなこんなでフィールドワークが終わったのですが、3時間近くウロウロして、その間ずっとカメラをまわしてたので、さすがに疲れました。
とにかく帰ろう。
帰ったら、恒例のzoom会議。疲れた…。