「議論をしよう」

夜は中間発表会のごくろうさん会です。先輩方もセンセ方も来られます。
わたしはまだこの世界に足を踏み込んで数ヵ月なんで、若輩者です。はじめのうちは小さくなっていたんですが、
「せっかくやし、酔う前に」
とか思って話はじめたのが悪かった(笑)。気がつくと、えらい勢いで話はじめていました。
でも、木曜日のセンセといっぱいしゃべれたのはよかったなぁ。
「センセはらけっきょく誰が好きなんですか」
ニーチェです」
「あぁ、海に飛び込んだ
「はい」
みたいな。
そのうち、どうしても話をしたいと思っていたセンセに、とうとうアタック。
すると、
「こっちこっち」
と呼ばれます。えー、そっちいくのー^^;;
「議論をしよう」
「君は人権教育をしたいんだね。平和教育との違いをどう考えてる?」
いきなりきました。
なんちゅうか、隙をあけて
「こっち打ってこい」
と言ってるボクサーに見えます。ひぇー^^;;
それでも、平和教育と人権教育のテイストの違いみたいなことを、自分なりの経験に基づいて、必死にしゃべりました。センセ方は、それにつきあってこられたす。
うーむ…。で、最後にひとこと
「また、議論しにおいで。結果はあとからついてくる」
そういう世界なんやな…。

番外編

今日は先輩方^^;;の中間発表会です。
みなさん、緊張しながらレポートを読みあげておられます。センセたちも真剣に聞いておられて、臓腑をえぐるような質問を浴びせかけられます。
そのやりとりを聞きながら、
「あ、自分はこの場に勉強しにきたんじゃないんだ。研究しにきたんだ」
と、あらためて?はじめて?気づかされました。
正直、できるかどうか自信がないけと、やるしかないんだろうな…。

「問う」ことの勇気

月曜日の「おべんきょ」の内容が、先週からかわりました。いままでは、どちらかというと「問う」ということについての歴史的な位置づけというか、「問い」をめぐる思想史みたいなかんじだったんですが、先週からより実践的というか、今日的というか、そんな感じになった気がします。それにともなって、出てくる文献もずいぶんと変わって、今日にいたっては村上春樹が出てくるという。しかも、センセ、かなり村上春樹が好きっぽい。
というのはおいといて。
今日的な話になると、やはり歴史的に評価が定まっているわけじゃないですから、内容にスパッとしたキレがなくなります。終わってからも、なにがしかモンヤリしたものが残る。先週も、おべんきょ時間が終わってからの質問の中で内容が落ちてきた感じだったんですが、今日も同じ感じ。
終ってから、おべんきょなかまと
「なんかキレがないなぁ」
とか話していたのですが、反芻するに従って
「ん?んんん?」
みたいなことを考えはじめました。
なかでも、頭に残っているのが「「問う」ことの勇気」という言葉。
発端は、なんだったかのテレビ討論会で、平場から出された
「どうして人を殺してはいけないのですか?」
という質問に端を発した一連の出来事だったのですが…。
まぁ、それはおいておきます。
わたしは職業柄、「問い」を発することは仕事です。なので、授業の中でかなり計算しながら「問い」を出していきます。一方、子どもたちはなかなか質問してくれない。この違いってなんだろう。
おそらくは、わたしの場合は「答が用意された問い」であるのに対して、子どもたちのそれは「問いの中に問いが含まれている」からかなと。
いや、
「答えはどうなるの?」
という質問はあれですが、「わからないことを問う」ということは、かなり困難なんじゃないかなぁと思うのです。なぜなら「わからないことがわからないと問えない」という、まぁありきたりな話なんですけどね。
でも、子どもたちは、時として勇気を持って問うてくれます。
では、翻って、わたしが勇気を持って「問う」ことはあるのか。
たぶんあります。
例えば、その「問い」そのものが、なんらかのforceを内在している時。
その「問い」を発することが、もしかしたら人と人との間に亀裂をつくるかもしれない。もちろん、人と人との間に和解をもたらすかもしれない。いずれにしても、それだけの力をもつ「問い」は存在するように思います。というより、もしかしたら「問い」は、元来それだけの力を持つものなのかもしれません。
であるとするならば、少なくともわたしはその「問い」を発さなければならないと思った時、おそらくは躊躇するタイプの人間です。であるがゆえに、勇気が必要になる。そして、勇気を振り絞ってもなお、その結果を引き受けきれないと思ったら、「問う」ことを中断することもあるのではないかというふうにも思うのです。
それが正しいことであるかどうかは、とりあえずおいておきます。
いずれにしろ「問う」という言葉と「勇気」という言葉が、あんがい近いところでつながっているのかもしれないと、おべんきょのあとで反芻しながら、ふと考えたということです。

性急でなくゆっくりと

いま読書会で読んでいるのはデューイの「哲学の改造」なる本です。
大学時代、哲学に興味を持ちそうになって、でもニーチェを10ページであきらめた(笑)わたしにとって、たとえ薄い文庫本とはいえ、はじめて哲学にかかわる本を読みすすめる機会なわけで。
にしても、自分の基礎学力の不足を感じます。センセの解説を聞くと「なるほど」とわかるんですが、聞かないと間違った解釈をしていることが多々あります。
基礎学力の不足は、何と言っても、時代背景がわかっていないことと、そこに登場する人たちについての知識が不足していること。後者もある意味歴史ですから、結局、歴史についての知識の不足が、どうやらネックらしいです。
もっとも、「哲学の改造」なる本は、哲学の成立から変遷について書かれているので、歴史がわかっていないと理解できないのは当たり前です。さらに、「おべんきょ」のテーマが「西洋教育史」だったりするので、「そもそも歴史じゃん!」という(笑)。
ただ、ひとつ自分の中で「やったことがこんなところで役に立ったんだ」と実感するのは「部落史の見直し」に触れたことです。
価値観というのは、誰かが突然つくりだせるものではなく、古い価値観を引きずりながら、少しずつ変わっていく。「歴史は重層的である」という考え方は、わたしのものの考え方に大きな影響を与えているし、その観点を持ち続けていれば、デューイの述べる、デューイならではの「哲学の変遷」の理解も少しは容易になります。
にしても、おそらくデューイのものの考え方そのものを知るためだけならwiki先生にでも聞けば、とりあえず即座に教えてくれるでしょうけど、ひとつの本を読み進めながら、その著者の思想をゆっくり理解していく作業は、もしかしたら意図的に行うのはわたしにとってのはじめての経験です。ようやくそれが「楽しい」と思える精神年齢になったのかな(笑)。

にしても、17世紀が天文学コペルニクス)、18世紀が物理学(ニュートン)、19世紀が生物学(ダーウィン)ときた時、20世紀の哲学のありように影響を与えた象徴的な学問はなんだったんだろう…。

「批判」としての問い

「迷い」→「驚き」ときて、今回は「批判」です。
今回はとりあえず青年期にスポットをあてての話。なんでも、青年期は「疾風怒濤」時代らしいです。センセは黒板にとてもわかりやすい「わたしと同レベルの技術」の絵を書いて説明してくれました。

荒波に取り囲まれた島。島は隅から隅まで測量されつくしている。そこに住むのはカント。その島を「理性」と呼ぶ。
しかし、「そんな島は窮屈だ!」と荒波に飛び込む人もいる。その人をニーチェと呼ぶ。

みたいな。
で、そんな疾風怒濤時代の人間とむきあう学校。日本の学校教育法には学校の目的として義務教育段階においては「公正な判断力」を、高校段階においては「健全な批判力」を身につけさせるものとするとある。この「公正な判断力」や「健全な批判力」ってなんだろう。
実は、批判には「抗う意味」と「肯定(承認?)を求める意味」のふたつがある。実は、後者は正義を求めることなのではないか。みたいな話で終わったのですが。
実は、話を聞きながら
「なぜ問いの話に批判が出てくるんだろう」
と疑問を持ちっぱなしでした。しかも、結論がイマイチしょぼい気がします。なんなんだろう。
で、終わってからセンセと雑談。
「最近、自己弁護のための批判という、あらたな批判が出てきている気がするんですが…」
別の人が
「批判と文句の違いってなんでしょうかねぇ」
その瞬間、ようやく理解できました。
「批判」とは、枠組みを問うものなんだ。枠組みの中におさまるにしろ、枠組みを壊すにしろ、その枠組みの存在や範囲を問うことなしにそれらの営みは成り立たない。とするなら、批判とは、まさに「問い」そのものなんだ。
じゃぁ「文句」は?
枠組みを問うてない。枠組みの存在そのものに手を触れず、枠組みの中に安住しながら自己を正当化するものということでしょうか。「問い」には、「自分の存在をかける」というニュアンスがあるけど、「文句」にはそれがないな。
う〜ん、なるほどと納得した30分の延長戦でした。

にしても、疾風怒濤時代って、青年期だけか(笑)?

寝不足はあかん

昨日はかなり調子に乗って飲んでしまったようです。おかげさまで、朝起きるとき、かなり気合いがいりました。それでもなんとか起きて、いつも通りの時間に出勤。それにしても、行きの電車で寝てしまって、危うく乗り越しそうになったのははじめてです。
それでもなんとか授業はこなせるものです。いや、うちの子ら優しいから、こちらの体調が悪い時はちゃんとおとなしくしてくれるんです。いっそ、いつも寝不足のほうが、子どもらの授業態度がいいかも(笑)
そんなこんなで夕方からは「おべんきょ」です。今日は静かな読書会。本と先生の解説を通して静かな思索にふけったり、それを互いに交換しあったり…。のはずが、思わず「こくり」。
あかん、寝そうや!
とにかく最後までがんばって、今日はさっさと帰って寝ることにしよう。

突然つながる

今日のおべんきょは、デューイ。今は、ギリシャ哲学へのデューイの考え方について本を読み進んでいます。
ギリシャ哲学においては、世界はすべて秩序だって完全であることをめざしていた、と。ふむふむ。まぁ、調和ですね。
「でも」
と、ふと思い質問。
「もしも、秩序にあてはまらない存在が出てきたら、どうしたんですか?」
で、答え。
「排除しました。ひとつの方法は「殺す」でしたが、もうひとつの方法は「聖なるもの」としての排除でした」
はー!なるほど!聖と賤ですな。てか、賤民の成立を彷彿とさせます。いや、「秩序だった世界」って、江戸時代の身分制「分をわきまえる」とすごく似てないか?
そう考えた時、ギリシャ哲学の世界観が、かなりピンときたりしました。
まぁ、邪道かもしれませんがね。

みんながマジメなのか、わたしがエエカゲンなのか

今日のおべんきょはディスカッションです。お題は「驚いて絶句するような問を出された時、どう対応するか」みたいな。
若い人たちの意見を聞いていると、みんな一生懸命「答えよう」としておられます。んー、マジメやなぁ。
わたしの感覚とはずいぶんズレがあります。
驚いたなら
「驚いた」
と言えばいい。なぜそう考えたのか知りたければ
「教えて」
と言えばいい。
どうせ答なんてないし、あるいは幾通りもあるし。大切なのは、そこへいたるプロセスかなぁ。
引用されている文章には「答えられない問には答えなくていい」とありました。これ、ある若い人はそのまま
「答えなくていいんですねぇ」
と言っておられましたが、たぶんこれ、「問い返せばいい」なんじゃないかなぁ。わからんけど。
基本、わたしは子どもたちの問に対する答は「煙に巻く」が身上なんです。
なんしか、みなさんのマジメさを目のあたりにして、あらためて自分のエエカゲンさを知った次第です。でも、こんなのがひとりくらいいてもいいでしょう。

驚きからのはじまり

今日のおべんきょは、結論から言ってしまうと、「驚き→疑問(問い)→哲学(学び)」という流れをどうつくるかみたいな。特に、「問い→学び」のところに断絶がある。
もちろん、ノウハウの伝達の場ではないので、それをどうするかについてはここにまかされるんですが、ひとつの提言は「what」ではなく「how」で問うてみたら?ってことでした。その真意は、「what」は「答え」を要求するけど、「how」はそうではないということでした。
んー。
日常の仕事にひきつけて考えると、たぶんそういうことを試行錯誤しながらもやってはいるつもり。でも、なかなかできていない。
子どもたちは、「問い」を欲しているのではなく「答え」を欲している。あるいは、「学び」とは「how」ではなく「how to」であると思っている。
わかりやすさから、少しずつ「わかりにくさ」に移行させていくことも大切なのかもしれない。もちろん、意図的に。

うれしさがあふれてる?

たぶん、環境の変化がある時って、そしてそれが自分にとって「プラスである」とかんじる時、ものすごい高揚感があるんでしょうね。それこそ、
「自分は万能!」
くらいのものすらあるのかもしれません。
でも、それをあとから振り返った時、そこからボタンの掛け違えがすでにはじまっていたみたいな評価もまたあるのかもしれません。
いや、単に18世紀から19世紀にかけての話なんですが…。
でも、どうボタンをかけても、どこかで掛け違えはあるのかもしれない。あとの評価を気にしてボタンをかけることは、結局、ボタンをかけられなくなるようになることにつながるのかもしれませんねぇ。
まぁ、本論とは違う雑感でした。