昨日の「オチ」があまりにも恥ずかしいので(笑)。
わたしが教員になってすぐの約30年前、職場においてほんとうに「独り」やったなと。いや、あの頃はまだマシで、トランスをはじめた頃は、ガチで「独り」やったなと。あの頃に比べたら、なんと今は恵まれていることかと思います。でも、そこに甘えたらあかんなと思うのです。
わたしが教員になってすぐの約30年前、わたしはほんとうに「未熟」だったなと。いや、あの頃はまだマシで、トランスをはじめた頃は、ガチで「未熟」だったなと。あの頃に比べたら、まぁちょっとくらいはマシにはなっているなと思います。でも、そこに甘えたらあかんなと思うのです。
「独り」のありようも、「未熟」のありようも、年齢や状況によって違うとは思います。
しかし、「独り」であることを引き受けることによって、自分が主体であることを確認できるし、「未熟」であることを引き受けることによって、自分はいたらない人間であることが確認できる。その側面において「独り」や「未熟」が原点ではなく、それを「引き受けること」という行為こそが原点になると考えたということでしょうか。
まぁ、もっとありていに言うなら、「単なるクズ」だったわたしが生ゴミ化してクサッてきたので、とりあえず喝をいれただけのことです。
日: 2012年6月28日
「批判」としての問い
「迷い」→「驚き」ときて、今回は「批判」です。
今回はとりあえず青年期にスポットをあてての話。なんでも、青年期は「疾風怒濤」時代らしいです。センセは黒板にとてもわかりやすい「わたしと同レベルの技術」の絵を書いて説明してくれました。
荒波に取り囲まれた島。島は隅から隅まで測量されつくしている。そこに住むのはカント。その島を「理性」と呼ぶ。
しかし、「そんな島は窮屈だ!」と荒波に飛び込む人もいる。その人をニーチェと呼ぶ。
みたいな。
で、そんな疾風怒濤時代の人間とむきあう学校。日本の学校教育法には学校の目的として義務教育段階においては「公正な判断力」を、高校段階においては「健全な批判力」を身につけさせるものとするとある。この「公正な判断力」や「健全な批判力」ってなんだろう。
実は、批判には「抗う意味」と「肯定(承認?)を求める意味」のふたつがある。実は、後者は正義を求めることなのではないか。みたいな話で終わったのですが。
実は、話を聞きながら
「なぜ問いの話に批判が出てくるんだろう」
と疑問を持ちっぱなしでした。しかも、結論がイマイチしょぼい気がします。なんなんだろう。
で、終わってからセンセと雑談。
「最近、自己弁護のための批判という、あらたな批判が出てきている気がするんですが…」
別の人が
「批判と文句の違いってなんでしょうかねぇ」
その瞬間、ようやく理解できました。
「批判」とは、枠組みを問うものなんだ。枠組みの中におさまるにしろ、枠組みを壊すにしろ、その枠組みの存在や範囲を問うことなしにそれらの営みは成り立たない。とするなら、批判とは、まさに「問い」そのものなんだ。
じゃぁ「文句」は?
枠組みを問うてない。枠組みの存在そのものに手を触れず、枠組みの中に安住しながら自己を正当化するものということでしょうか。「問い」には、「自分の存在をかける」というニュアンスがあるけど、「文句」にはそれがないな。
う〜ん、なるほどと納得した30分の延長戦でした。
にしても、疾風怒濤時代って、青年期だけか(笑)?