暖かいというのはこういうのかなぁ…

午後からは伊丹人権啓発協会(おるかの会)のお座敷。
1時間前にとりあえず会場に着いたのですが、みなさんすでにいろいろと準備を開始しておられます。なんか、気合いが伝わってくるのですが、わたしのほうは相変わらずダレダレです。これはまずいかもしれない…。
「おるかの会」の研修会は、ふだんは平日の夜にしておられるようなんですが、今回はわたしの都合で日曜日になりました。「どのくらい来られるでしょうかねぇ」と聞くと「さぁ…」とのこと。動員もかけないし、ほんとうにフリーハンドでやっておられるようです。
参加者が来られるはものの、パラパラ。まぁのんびりいきましょう。
やがて、開始10分前。すると「どこからこんなに…」と思うほど人が集まってこられます。責任者の方は「ここ一列席を追加!」とかやっておられます。それでも足りません。10分間でリアル満席です。すごい!責任者の方曰く「ムラ時間やし…」。なるほど。だから誰も焦ってなかったんだ(笑)。
にしても、この集まり方はこちらにとっては精神的にビビります。アドレナリンがいきなり出てきて、ちょっとバクバクしてしまいます。
やがてお座敷開始。今回は2時間いただいているので、けっこうゆっくりしゃべれます。ちょっと多めにネタを放り込みながら話をしていると、やっぱりギリギリまでしゃべってしまいました。
実は、今回は、研修会を担当してくださった方の「格別の思い」がありました。おそらくそれがみなさんにも伝わったんでしょうね。すごく暖かい会場の空気が、2時間の間ずっと充満していました。逆にわたしがエンパワーされたような気がしました。

木下@堀池

今日は伊丹の人権文化センターでお座敷です。
午後からなので、昼は当然お好み焼き。でもあいているかなぁ。日曜日やし…。
なんしか最寄りの駅から会場までブラブラ歩いていきます。町並みが想像していたのと全然違います。完全になんにもない住宅街です。これはやばいか?
と、信号待ちをしているバイクから聞き慣れた音が…。「RZじゃん!」しばらくブラブラ歩いていると、「お!NSRじゃん!」。伊丹はいい街です(笑)。
さらにブラブラ歩いていると、何軒かお好み焼き屋さんはあるのですが、なにかが違います。「やむを得ない時はここだなぁ」とか思いながらさらに歩いていると、ありました!が、暖簾は出ているものの「お好み焼き・たこ焼きは6時から」とか書いてあります。「え〜…」とか思いながらも、中に入ると、おばちゃんがひとりお好みを食べておられます。「もしかしたらOK?」とか思いながら壁を見ると、「カス玉」という文字が!
「あのぉ…。カス玉いけますか?」とたずねると、「はいはい、カス玉ね」というお言葉!
お店にはおばちゃんと、腰が85゜くらい曲がったおばあちゃんがおられます。で、ご主人はおばあちゃんの方みたいです。リズミカルにキャベツを切った後、「卵入れて」「天かす入れて」「紅ショウガ入れて」と指示したあと「カスとってくるわ」と細かく動かれます。さらに帰ってきたらすぐに「マヨネーズとってくるわ」とまたまた奥に行かれます。フットワークが軽い!
さて、出てきたお好みは混ぜ系です。カスがのったらこんな感じです。

焼いておられる時間はそんなに長くはありません。でも焼きあがったらおいしそうな色をしています。

で、ソースとかつおと青のりをかけてできあがり!

ひとくち口に入れるとフワフワです。さらにかむとキャベツのシャキシャキ感が残っています。みじん切りにしているのに、キャベツのエッジが歯にあたって、かむと甘みが口に広がります。「そうか、これがお好み焼きの火加減なんだ」と、あらためて感じました。
ところで、おばあちゃんはというと、またまたキャベツを切った後、今度は砥石を出して包丁を研いでおられます。やるなぁ。さすがはプロです。

なんでも、この店はもともとおばあちゃんのおつれあいがお好みを焼いておられたとか。それが最近のつれあいが亡くなられて、昼間の営業をやめてしまったとのことです。ところが、近所の人から「お好み食べたい」「焼きそば食べたい」「たこ焼き食べたい」という要望がよせられて、「せっかく鉄板があるから、日曜日だけは昼にお好み焼こかと思たんや」ということ。で、今日がその初日だったようです。なんというラッキー!

てことで…
data

カス入りお好み 650円
ビール(ラガー) 中瓶450円
スタイル 混ぜ系
その他 カスの固さは混ぜ系の宿命かもしれません。でも、生地の味はいいし、なんといってもキャベツの歯ごたえが最高です!
独断的評価 ★★★★☆

詳細なリンクにも追加しました。
てか、店の名前載ってるし(笑)。

境界線上の人間の役回り

てことで、夕方からおとなりの県へ。
なんでもおとなりの県の人のお子さん、「特別支援学校に行ったほうがいい*1」と言われたとか。で、親としては「普通学級でみんなと一緒に学ばせたい」と考え、でもどうしていいかわからないということで、九州の人に相談をしたらわたしのほうに回ってきたという、えらいまわりくどいことで。で、お隣の県のお友だちを紹介しがてら宴会をしようということになったわけで。
ちょうど「境界線上の役回り」も必要だったので、そんなこともしながら、結局はタダのグダグダ宴会になりました。
にしても、一人の子どものために、やたらめったら人が集まってくるこの行動力*2が、この人たちの魅力です。
境界線上にいる人間は、こうやっていろんな人と会えるんですよね。なんと幸せなことかと思います。もっとも、その分家にはいられないし、肝臓とは闘わなくちゃならないんですけどね(笑)。

*1:遠回りな「いけ」なんですよね。これ

*2:単なる飲んだくれともいいますが

境界線上の存在?

今日は某在日外国人教育関係の会議。
午前が事務局・役員会ということで、まぁ午後からの打ち合わせをするわけです。で、集まったのはわずか3人。こういう日もあります。さくっと打ち合わせをしてお昼ご飯。軽くビールを呑んで午後の会議に備えます(笑)。
午後からはそれなりに人も集まったので、けっこう充実した会議ができました。
それにしても、さすがは全国から集まってくる「運営委員会」です。単なる飲んだくれとか牢名主みたいな人とか、まぁひとくせもふたくせもある人がそろっているのですが、その情報量の多さや考えの深さ、そしてなによりもフットワークの軽さは、なかなかすごいものがあります。こんな人たちと日常的におつきあいができるというのは、ある意味幸せなんだろうなぁと思います。もしかしたら、実は不幸なのかもしれませんが(笑)。
でも、そういう尖ったところがまた、ケンカの種にもなるわけで、なんだか知らないけど、あちこちでケンカになっているみたい。
ところが、不思議なほどにわたしはそのケンカから除外をされています。
これ、なんなんだろう…。まぁ、わたしは尖るところまで深くこの活動にかかわり切れていないというのもひとつの要因かもしれません。考えてみると、「なんでわたしが全国の事務局員やねん」というのは昔からの謎でした。ふさわしい人は他にもいっぱいいるのですが、いろんな人間関係の綾とか、その他タイミングの問題なんかで、たまたまわたしのところにまわってきて、そのまま10年みたいな感じなんですよね。
でも、最近思うのは、もしかしたらそういう存在も必要なのかもしれないなとも思うのです。ひとつのことを深くやることによってわかることと、そうすることによって逆にわからなくなることがある。だから、深くやる人と浅くやる人が混在することで、全体としてのバランスがとれるのかなぁと。
こういう役回り、ええ加減なわたしにピッタリかもしれない(笑)。

表現の難しさ

あらかじめ断っておきますが、特定の人を非難するために書くんじゃないです。

文章表現ってほんとうに難しいですね。
なぜなら、ある「内容」を文章に表現しようとする時、どうしてもそれを「言葉」に置き換えざるを得ない。ところが、自分が知っている範囲の言葉にはやっぱり限りがあります。その「範囲」って、おそらくはその人の興味や関心、あるいは生活範囲にかなり影響をされていると思います。
例えばわたしだと、セクシュアリティ系の言葉についてはまぁボチボチ知っているつもりですが、ガンダム系についてはさっぱりです。なので、「ガンダムの紹介文を書け」と言われたら、とんでもないことを書く可能性がある。
まぁそういうことです。
で、あるチラシの草案にあったわたしの活動の紹介文。

セクシャルマイノリティの人たちのための集いや、ノーマルの人たちへの講演会など、精力的に活動されています。

わたしの話を聞きたいと思う人って、それだけでたいがいアブノーマルだと思うけど(笑)。
というのはおいといて…。
たぶん、「セクシュアルマイノリティ」という言葉の対語としての「セクシュアルマジョリティ」ってあるのかどうかずいぶんと悩んだ末、とりあえずこう書かれたんでしょうね。決して、「セクシュアルマイノリティ」=「アブノーマル」という意図があったんじゃないと思っていますです^^;;。

にしても、「ある少数者」を表現する言葉はあるんだけど、「その対としての多数者」を表現する言葉って、つくりだしていかないと、なかなかないんですよね。そこに「マジョリティ」が無自覚に「させられていく」構造があるんだろうなぁ。
あ、そういえば、去年のGID学会でひっぴぃがそういうことを言っていたなぁ…。

特殊業務終了

今年も放送担当。まぁ、受験生の前にわたしみたいなものを晒したら、みなさん動揺して成績が落ちるからねぇ(笑)。
今年も無事、事故なく終了。てか、放送事故があったらえらいことやし…。
楽だった割には緊張しました。

アンペイドワーク・考

今朝、あることがあって(;_;)、「アンペイドワークってなんだ?」ということを真剣に考えはじめました。
柏市の参画eyeキーワードから転載です。

無償労働と訳され、賃金や報酬が支払われない働き方や活動を指します。その代表的なものは家事や育児、介護、ボランティア活動などですが、自給自足的な生産活動や途上国での水汲みや食料調達などの生存維持労働も含みます。これらの大部分は女性のアンペイドワークによって担われてきました。そして対価をもたらさない労働は労働とみなされず、労働統計にも計上されず、「見えない労働」として不当な評価をうけてきました。

ふむふむ。これくらいのことはさすがのわたしも知っています。
続いて…

1975年の国際女性年をきっかけに、生活のあらゆる領域での女性の労働の価値を再評価し、男女の不均衡な役割分担を見直そうという動きがでてきました。1980年以降、 女性のアンペイドワークの貢献度を目に見えるものにすることが不可欠であるという認識から、国連の機関を中心に、その貢献度の測定と評価のためのデータ収集が進められました。
日本でも1997年から経済企画庁が「無償労働の貨幣評価」を発表しています。無償労働の範囲は、炊事・洗濯などの家事、介護・看護、育児、買い物、ボランティアなど社会的活動の5項目にしぼられています。それによると、1996年の無償労働の評価額は国内総生産GDP)の23.2%を占め、その84.5%は女性が担っており、男女の役割不均衡を如実に表す結果となっています。

問題は項目なんだな。その中でも「ボランティアなどの社会的活動」。こいつの範囲はどこからどこまでなんだろう。
PTA活動は、たいていアンペイドワークに含まれているみたい。地域活動も同様です。じゃぁその「地域」ってどうなるのかな?居住地近辺はたぶん含まれる。じゃぁ、釜ヶ崎の炊き出しは入るのかな?まぁボランティアっぽいです。でも、主催団体によって違うかもしれない(笑)。某基督教団体あたりが「慈善事業」と銘打ってやると「ボランティア」という臭いがしますが、釜日労の越冬闘争の支援だと「ボランティア」という感じがしない。
わたしも参加している、某在日外国人教育研究協議会関係の活動はどうなるんだろう。
例えば、某キリスト教青年団体が「国際交流」とか銘打って大学生を集めて子ども達の交流会をしたら「ボランティア」臭がプンプンするけど、「京都・在日外国人生徒交流会*1」とか、「ボランティア」という感じがぜんぜんない。どちらかというと、個人的には「趣味」だし、外から見たらもしかしたら「宴会」かもしれない。昔ある人からは「特定の党派の活動」とか言われたことあるし。
トランスジェンダー生徒交流会」は子どもを対象にしているから、それでも「ボランティア」っぽいかもしれない。でも、大人を相手にしている「玖伊屋」は、まったくボランティアじゃない。まぁ、内実はどちらも「宴会」だからまったくボランティアじゃないですけどね。
てことで、wiki

ボランティアは、古典的な定義においては自発性、無償性、利他性に基づく活動とされてきた。しかし近年ではこうした定義への再検討が加えられている。まず無償性に関しては、有償ボランティアという存在が出現し受け入れられていることで、ボランティアの定義から外れつつある。

一方、先駆性、補完性、自己実現性といった新たな概念がボランティア活動の特徴として指摘されるようになっている。先駆性とは、ボランティア活動が既存の社会システム中に存在しない役割を担うことが多いということから指摘されるもので、こうした先駆性を持つ存在をチェンジエージェントと呼ぶ。ボランティア分野のチェンジエージェントとしてティーチ・フォー・アメリカなどが挙げられる。補完性とは、既存の行政システムでは対応しきれないニーズを満たす性質のことである。自己実現性とは、ボランティア活動がそれに参加する個人の自己実現の場の役割を果たす性質に注目した概念である。

ふむ。
てことは、これを「玖伊屋」にあてはめてみます。
「自発性→△*2」「無償性→◯」「利他性→△*3」「先駆性→◯」「補完性→◯」「自己実現性→△*4
てことで、少なくとも×はひとつもないので、「だいたいボランティア」だな(笑)。
てことは、わたしのアンペイドワークの時間は長大なようです。

男女平等社会とは、男女が有償労働と無償労働をバランス良く担える社会であるということが、いまや世界の共通認識となってきています。国レベルでの支援策のもとに、住み良い社会を目指して私たち一人ひとりの意識改革が必要だと思われます。

なんか、結論と違う気がする^^;;
まぁ、パートナーとわたしの関係においては「男女」じゃないのでかまわないのか(笑)?

*1:3月14日4時〜15日午前・東九条でやります。暇な人はのぞいてください。冷やかし大歓迎です

*2:スタッフという強制力がある程度働いている。そのスタッフも自由意志かというと、あなかちそうとも言い切れない。あぁややこしい

*3:自己実現性という部分を含む以上、完全な利他性とは言えない

*4:利他性という部分を含む以上、完全な自己実現性とは言えない

エネルギー保存の法則に反するもの

そういえば「肩こり保存の法則」というのもありますね。
肩が凝っている人の肩を他の人が揉む。すると、揉んだ人の肩が凝る。で、損失分を考えると、世界全体の肩こり量は増加していく。みたいな…。

でも、「エンパワー保存の法則」ってあるんだろうか。
誰かの話を聞いて「エンパワーされた!」と感じます。そのことをスピーカーに伝えたら、スピーカーもまたエンパワーされます。もちろん「搾取された」という思いの時もあるだろうけど、そればかりじゃない。
互いに互いをエンパワーしていくという作業は、もしかしたら、世界全体のエンパワー度の増加につながっていくのかもしれない…。

そういえば記念日

そういえば、1922年の今日、岡崎公会堂で全国水平社創立大会があったんだ…。
はたしてあれからこの国はちょっとはマシになったんだろうか…。
少なくとも「差別はいけない」ということは浸透したな。ふむ…。

国民という呼称の氾濫

なんか、小沢の秘書がタイーホとか…。
まぁそれはそれとして、政治家もマスコミも、ひたすら「国民への説明責任」と連呼しています。
「国民」なぁ…。
てことは、在日外国人への説明責任はないということかなぁ。
「国民」という言葉は、自動的に「国民でない人=外国人」を除外する言葉なんですよね。
最近、総選挙をにらんでか、やたら「国民」「国民」と連呼しています。それを聞くたびに、知りあいの在日外国人の人たちの顔が浮かびます。前はこういう言い方、少なくともマスコミはあまりしなかった気がするけどなぁ。
そういえば、マスコミはかつては「北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国」と言っていたのに、今では平気で「北朝鮮」だからなぁ。
どこかで歯止めをきかせないといけないし、そのためには、ひとつひとつの言葉の意味をていねいに考えながら使っていかないといけないような気がします。