午前中は、舞鶴引揚記念館の見学です。ふと肩から提げているかばんを見ると「愛国心拒否」などというバッチがついていましたが、まぁええかということで、そのまま入館。
なんというか…。「被害者」としての側面がとても大きい記念館でした。まぁ、軍属にしたって、当時の為政者による被害者という側面はあるのはあるのでしょうけど、「自虐史観(笑)」を持つわたしとしては、なんだか居心地が悪いですね。「引き揚げ」についてはたくさんの展示があるのですが、たとえば、「棄民」としての中国残留婦人・孤児のことについてはほとんど触れていないし、記念館のすぐ前で沈没した「浮島丸」については展示どころか記述も一切なしです。まぁ、平和を希求するためにつくられた記念館なので、それはそれでいいのですが…。なんだかなぁ…。
そうそう、浮島丸の遭難碑とはあまりに違うお金のかかり方でした。
午後は、在日にかかわる戦後史についての講演です。午前の見学で抜け落ちていたことが、ここで分厚くフォローされました。さらに、差別にかかわる歴史を「加差別・被差別の歴史」としてのみとらえるのではなく、「差別との闘いの歴史」という観点で話されたのが印象的でした。部落史についてもそうなんですけど、「こんな差別をされました」という話から学ぶこともたくさんあるわけですが、「そんな差別に対してこういう闘いがありました」ということがとても大切なんだと思うのです。そして、何より大切なのは、たとえば部落史ならば「部落外の人々」の、在日のことならば「日本人の人々」の闘いの歴史に触れることこそが、わたし(たち)にとって、もっとも学ぶことが多いのではないかなぁと思います。
残念ながら、こうした人々の姿は往々にして歴史の中に埋もれてしまっています。そうした歴史を丹念に掘り起こしていく作業がやはり大切なんでしょうね。と同時に、いま、わたしたちがやっているさまざまな実践を、記録として残していくことも、歴史への問いかけとして大切なのかもしれないですね。
>たとえば部落史ならば「部落外の人々」の、在日のことならば「日本人の人々」の闘いの歴史に触れることこそが
共感。「やってあげた」歴史ではなく、個別的な出会いを経て自分(たち)の立場に気づき、考えながら悩みながら闘った人びとの歴史から学べることは多いはず。でもそういう人は自慢げに語ったりしないから、よけい埋もれるんですね。
(←これは、1970年代に障害者運動の「友人組織」から発展した「健全者運動」に携わった人びとへの聞き取りをしている友人のことを思い浮かべながら書いています。挫折した運動だし、本になっている資料はほぼ皆無。でも掘り起こすと、当時の問題提起や悩みは今なお有効だし、驚くほどその人たちは今も継続して何かやっています。全く目立たないのですが。)
ちなみに、そういう人の中に、クリスチャンの人ってけっこういませんか(笑)?
はははははは(謎笑)。たしかに。市民運動・NGOギョーカイには多い気がしますね。でも障害者運動(&そこに関わる非障害者)ではあまり出会わないっす。なんでかな。「福祉」には多いのかな。