なんか、新規採用の方は、自分でテーマを見つけて研究することが要求されるそうな。いや、違うかもしれませんが…。で、「「性同一性障害」について研究しようと思っている」という他校の新採の方が見えられました。まぁ、「あたしじゃない方がいいと思うけどなぁ…」とは思いながら、引き受けたんですけどね。
で、その方の知っている高校生に、MtFの子がいるそうな。MtFの子はめったとカムアウトしていないので、珍しいなぁとは思っていたのですが…。「なにをすればいいと思いますか?」と聞かれたので、「その子の好きなことをやらせることじゃないでしょうか」と答えておきました。
なんでそんな答えになったかというとですね。
ほんとうに「雨後の竹の子」のようにトランスの子が顕在化している。で、その子らの中に、けっこう「自分は性同一性障害だ」「SRSを受けたい」「将来は戸籍を変更」「幸せな結婚」などと言う子がたくさんいるみたいな印象を受けます。でも、なんか違うような気がする。ていうより、かなり違うような気がする。なんでそんな将来展望しか持てないのかなぁ。たぶん、自分ときちんと向きあっていないんじゃないだろうか。
そう考えた時に、もしかしたら「好きなことをさせてもらえていない」→「好きなことがしたい」→「性同一性障害という名目が必要」という回路があるんじゃないかという気がするわけです。じゃぁ、「好きなことをさせてあげたら、別に名目が必要じゃなくなるやん」と思ったということなんですよ。
やっぱ、「ダメダメダメ」と言われていると「やりたいやりたいやりたい」と思うけど、そういう抑圧が働かなければ、もう少し自分の中にあるものと向きあう余裕ができるし、掘り下げて考えるための時間の余裕もできるかなぁと思うわけです。
なので、トランスの訴えをする子には、まずは好きにさせてあげようよ。FTMには学ランを、FTMMTFにはセーラー服を着せてあげたらええやん。わたしもこんなんとかやって、「QOLが著しく向上(笑)」したもんね。
日: 2005年12月13日
コミュニティのこと・補足
「女性のコミュニティ」という話。
う〜ん、「闘う」という場面でのコミュニティって、自分の意識では希薄でした。どちらかというと、社会制度的につくられるものと、無意識につくられるコミュニティのほうが大きかった。
もちろん、個々の人をとりあげれば、「コミュニティに依存しない」「コミュニティをつくらない」「コミュニティを越えて生きている」という人はたくさんおられます。でも、おしなべて考えると、やはり「コミュニティがある」ということを意識せざるを得ないんです。これは、女性だけじゃなくて、男性にもある。もちろん、他のわけ方をすれば「◯◯のコミュニティ」というのがあるわけです。たんにそれだけのこと。ただ、わたしは「女性であることの実感」みたいなことを尋ねられたので、性別によるわけ方をとりあげただけのことです。
で、「女性のコミュニティ」ってどういうところにできるのか。まずはじめに思いつくのは、社会的・意図的につくられるもの。たとえば、トイレやお風呂や宿泊の部屋。もちろん、そうではないところも多々あるし、個人的に「どうでもいい」という人がいることは承知しているけど、やっぱり存在しています。で、そこにはそこの作法があるようです。これは、そこに入ったことのない人にはわからないことなんじゃないかなぁ。となると、そこに「わかる人とわからない人」という線引きができてくる。ここで、意図せずにコミュニティがつくられてしまいます。
あと、やはり「性別による線引き」っていうのは、おそらく世間の中で唯一「あってよいとされる線引き」なんじゃないでしょうか。それ以外のことについては、大義名分としてはたいてい「あってはならない線引き」というふうに言われる。なので、そのあたりに無批判な人は、やはりその線引きの両側にコミュニティをつくってしまう*1。
で、「線引きをなくす」と言うより、「線引きの向こうに越境したい」と考えていたわたしにとって、「こちら」にいることは、あんまり居心地がよくなかったんですよね。で、それが「むこう」に行った時に拒否られるかなぁと思っていたら、あんがい大丈夫だった。で、行ってみると*2けっこうフィットする。で、「居心地がいいなぁ」というふうに感じた。こんなところじゃないかなぁと思っています。
でも、きっと「ほんとうの女性のコミュニティ」というのは、別のところにあるんでしょうね。それは、たぶんわたしなんかのまったくわからないところであり、まったく入ることのできないところに。でもね、まぁ、いいんです。だって、とりあえず、居心地のいい「場所」に、いまいるし…。