一本の電話

ある日本国外のマスコミ関係者から、いきなり電話がありました。
「部落問題について特集を組もうと思うのですが、話を教えてくれませんか?」
「へ?」
それはわたしでは無理というものでしょう(笑)。
たぶん、この日の昼ご飯(笑)の時の会話とかじゃないかなぁ…。
とりあえず、無理なので、他の人に振りました。すんません。

うちあわせ

ある人から紹介されて、サクラスタディーズというところで話をすることになりました。で、今日はそのうちあわせ。といっても、飲み会です(笑)。
向かったのは、さらさというお店。富小路のいっぱいだったので、麩屋町にある「pausa(パウーサ)」というお店の方に行きました。
なんか、いい感じです。そうか、京都の北部にはこういうお店があるんだなぁ、と。なにせ、京都駅南側がテリトリーだからなぁ…。
ところで、このサクラスタディーズというのは、特にジャンルを決めずに、その人から出てくる話題をネタにいろいろ話をする会みたいです。なので、特に「トランス」ということに限定せずに、とりあえずいろいろな話をするというのが、今日の目的みたいです。
エスニックな料理をいただきながら、数学の話からスキーの話、そしてトランスの話までいろんな話をしました。なんだか、自分のもっているかなりの部分を出したような気もしたのですが、それなりにスリリングな一時を過ごさせてもらいました。
で、結局決まったことは…。なんだっけ(笑)。
そんな感じで話をすることになりそうです(笑)。

在日外国人生徒交流会

先週あったのは、全国の交流会。今日のは京都の交流会です。
かつては、在日朝鮮人の子どもたちばっかりだった交流会も、今はすっかり様変わりして中国帰国の子らが多数。あと、東南アジアにルーツを持つ子どもたちがたまに来てくれるという感じで、在日朝鮮人の子どもたちの参加がないこともよくありました。
この状況は、ひとつは「日本語教室」の存在が大きいんでしょうね。というのは、そこに集まっている子どもたちとつながっている日本語指導教員とか、そこの先輩後輩・親戚きょうだいという関係で来てくれるのが、少なくとも京都の状況だからです。これ、かつては、朝文研で子どもたちをつれてきた状況と同じですが、現在、京都で朝文研活動をしている学校があるかどうか。まぁ、あまり聞かないですね。
朝文研がなくなったのは「問題がなくなったから」かというと、そうではなくて、逆に「放置されている」ということなんだと思います。正直言って、いったいどうしたらいいのか、ちょっと途方に暮れているところもありました。
そんな感じなんですが、今回は在日朝鮮人の生徒や卒業生の参加がありました。
当然のことながら、中国帰国の生徒と在日朝鮮人の生徒の話がかみあいません(笑)。お互いに「言葉はしゃべれるの?」とか「どこから来たの?」とか。朝鮮人の子は「日本語しかしゃべれへん」「日本で生まれた」だし、中国帰国の子は「家では中国語」とか「5年の時に来た」とかだし*1
でも、在日朝鮮人の卒業生に、「自分のところの親戚とか集まったらどうなん?」というと、「ハラボジやハルモニは朝鮮語、オモニやアボジ朝鮮語は聞き取れるけど返事は日本語。僕らの代は日本語しかわからへん」と答えてくれました。で、中国帰国の子らに、「君らの子どもの代になったらどうなると思う?」と聞くと、「あぁ…」と深くうなずいていました。
表面的な「問題」は、例えば日本語習得の問題であったり生活習慣の差であったりするわけですが、おそらくそうした問題は渡日年数が長くなり世代が変わっていくに従って、徐々に潜在化していきます。でも、いま在日朝鮮人が抱えている問題が、「新渡日」の子どもたちの中で顕在化していく。ところが、そうした「問題」を日本人社会は放置していくのではないかということ。それが、在日朝鮮人の日本での生活史の中から、今学ぶことなんじゃないかと思います。
新渡日の子どもたちの姿に在日朝鮮人の過去の姿を学び、在日朝鮮人の子どもたちの姿に新渡日の子どもたちの姿の未来を予測する。そして、そういう「未来」が来ないように、別の未来の姿を展望し実現するために、わたし(たち)が、今・ここでなにができるのかということが、交流会に参加するたびに考えさせられることなんです。

とはいえ、結局やっていたことは、ご飯をつくって食べてしゃべっただけなんですけどね。今回初チャレンジの「ヤム・ウンセン(春雨のサラダ)」おいしい!ナンプラーとレモンの香りに、かなりはまりそうです。

*1:もちろん、日本で生まれた中国帰国の子らのほうが最近は増えてきているし、そういう家では中国語と日本語が混じった会話をしていたり、子どもは日本語しかしゃべれないという方が多いですけど…。

プロレス

今日は、年1回、プロレスを見に行く日です。というか、もう少し正確に言うならば、年1回プロレスの招待券をもらう機会がある年があって、今年はもらえたので見に行った、と。てことで、いつもありがとうございます。
はじめて行った時は、ま”さんが解説をしてくれて、すごくおもしろく観戦できました。で、次に行った時は、ちょっとわからないところも多々あって、やっぱり下調べが必要なんだなぁと思いました。で、今回は、下調べを子どもにまかせてしまったという^^;;。いや、なんか最近上の子どもが新日本プロレスにはまっているみたいで、試合のある日は見ているそうな。
さて、今回は席がアリーナじゃなくてギャラリーだったのですが、これがなかなかおもしろいです。アリーナにいると「近い」感じはあるのですが、よく見えないところがあります。ところが、ギャラリーはきわめて見晴らしがいいです。それだけではありません。客層も違います。ギャラリーで見ている人は、ほんとうに「好き!」という感じ。なので、試合中もかけ声がかかるわツッコミが入るわ。近くのマニアの話を聞いているだけでも充分楽しめます。
それにしても、プロレスって、歌舞伎みたいな感じなんだなあと、あらためて感じました。見得を切るべきところではきちんと見得を切ります。そして、動くべきところでは見事なまでの動きを見せてくれます。その緩急の差と「間」は見事です。そして、それを実現しているのは、あの鍛え上げられた身体なんですよね。しかも、それが試合形式なので、一種「どちらがどの技で勝つか」という謎解きもまた観客に与えられます。ギャラリーのマニアが、試合途中で「今日はどっちかわからん…」とつぶやいていましたが、そう思わせる筋書きって、やっぱり見ていておもしろいですよね。
さらに、試合が進むにつれて、どんどん雰囲気が盛りあがっていきます。2時間半かけてひとつの盛りあがりを実現する「芸能」って、もう、希有な存在のようにおもいます。
で、この雰囲気はテレビではわからないものなんでしょうね。てか、子どもがひとこと「テレビではきこえない音が聞こえる」とつぶやいていましたから、ライブならではのものがあるんでしょう。いや、はまるの、わかりました。

追加

なにがわからなかったのか、ちょっとわかってきました。
それは、「常民」の「芸能人」への移行のことなんです。
もちろん、個人としては「夢の実現」ということで、それはそれでOKなんだと思います。でも、社会はそれをどう受けとめたのか。で、これまた社会と個人が完全に分離していたならそれはそれでいいのですが、「家族はどう受けとめたか*1」。さらに、「非人への移行」に対する本人自身のフォビアはなかったかどうかというあたりが、一番の関心事なんです。
これ、どこで質問しようかなぁ…。

*1:これ、どこかで聞いたフレーズですが(笑)

勉強・部落史連続講座

ホッと一息ついたところで、今日は学校帰りに「部落史連続講座」です。
今回は2回目。辻ミチ子さん(元京都文化短期大学)による、題して「近世 仕事三大咄 −国家公務員・委託事業・芸能プロダクション−」という話です。
内容としては、カワタの人たちや非人といわれる人たち*1の仕事を、現在の言葉に置き換ええるならどうなるのか。そしてそこから、その仕事の内容について考えていこうという試みだったようです。

  • 国家公務員

まずは、なにが「国家公務員」なのか。
カワタも非人も、ともに下級役人としてさまざまな仕事に従事していました。基本的には、町奉行所の下にある四座雑色[1] … Continue reading)の下にあるみたいです。カワタ身分については「役人村」、非人については「悲田院」が統括をしていたみたいです。
つまり、奉行所にしたにあるというところで、ともに「(国家)公務員」としての役をしていたということになるのでしょうか。基本的にはカワタについても非人についても「刑吏役」に携わっていました。ただ、非人については、「行き倒れ」の人たちの排除とケア((このあたりがおもしろいです。単純に排除するだけではなく、看病をすれば大丈夫な人については看病をした後「送還」をしたみたいです

*3:まぁ、いまふうにいうと「炊き出し」ですか

*4:つまり、都=京都

footnotes

footnotes
1 このあたりがおもしろいです。単純に排除するだけではなく、看病をすれば大丈夫な人については看病をした後「送還」をしたみたいです">*2をしたり、施行*3をしたりといった役もしていたみたいです。おそらくは、都市部*4流入してくる非人が多くなりすぎると収拾がつかなくなるため、適度なケアと必要な排除をするという機能があったようです。で、そのあたりを統括していたのが「悲田院」というところだったと。
あと、悲田院は「肥樽」の管理もしていたとか。「肥樽」というのは、当時の公衆便所のようです。で、「肥樽」の管理者は悲田院で、ここで得られた「肥え」を近郊農業をしている人たちに売ったとか。これまた、それなりの商売になったみたいです。

  • 委託事業

続いて、「委託事業」です。
「委託」という限りは、当時の為政者から仕事を委託されるわけですが、それが「皮革産業」だったということです。つまり、これは「カワタ」にかかわる話ということです。
ところで、辻さんによれば、カワタの人たちがもともとやっていた仕事は「お弔い」だったようです。ところが、「人間のお弔い」はお寺がやるようになり、「斃牛馬のお弔い」をカワタの人たちが担当するようになったとのことです。そして、それがやがて皮革業へと変化をしていった。で、それが「委託事業」だったということのようです。
この皮革業、けっこういい仕事になったようです。というのは、現在でも「革製品」はけっこうな値段をするわけで、それは今も昔も変わらないわけです。
で、あちこちのカワタの人たち同士で斃牛馬の取りあいが起こってしまう。そこで、斃牛馬処理権の範囲を決め、それを「草場」と呼んだわけです。
皮革産業は、皮革の加工の最初の段階だけではなく、武具から雪駄、膠にいたるまでさまざまな加工品ができます。また、直接の皮の加工品として「太鼓づくり」や「太鼓の皮の張り替え」なんかもありました。
現在では太鼓というと浪速のあたりが有名ですが、京都でもあちこちのムラが皮の張り替えを行っていた資料が残っています。ただ、ムラによってもちろん技術の差があり、大きい太鼓になるとどうやら天部村の技術がもっとも高かったようで、ここに集中をしているみたいです。まぁ、カワタ村の間でも、おそらくずいぶんと経済力の差があったんやろなあとは思います。
ところで、一般に皮革産業というと、一般民衆からは忌避されていて、町中にはそんなお店はないと考えられがちですが、町の中のお店の一覧表みたいな文書があって、それを見ているとけっこう皮革関連のお店が町中にあったみたいです。これ、辻さんが出された資料の中に書いてあったんです。このあたり、前に聞いた小林さんの話の中にあった「町式目」の話と少しバッティングするのかなとも思いました。もちろん、時代というものもあるんでしょうけど。

  • 芸能プロダクション

では、「芸能プロダクション」とは。
カワタが身分として存在しているのに対して、「非人」というのは「ある状態にいる人たち」をあらわす言葉であると考えられると、わたしは理解しました。おそらくは、現代においては「ホームレス」の人たちに近いのではないかと思います。で、この人たちが生き延びんがためにさまざまな仕事に従事します。その中でも、芸能関係のスキルを持つ人たちが門付芸や大道芸をしてお金を稼ぐ。近世においては、そうとうに稼いだ人もいて、なかには裕福な階級の女性達が「追っかけ」になるほどの人もいたとのことです。ただ、芸人さん達は、基本的には非人小屋に所属をしていて、自分が稼いだお金から相当な金額を非人がしらに上納する必要があったようです。このあたりが、まさに「芸能プロダクション」なわけです。
問題は、こうした芸能に携わるのは、非人小屋にもともと所属する人たち、あるいはその系譜にある人たちだけだったのだろうか、ということです。
前に樹村さんも書いておられたように、おそらくは、非人小屋の支配下になかった人もこうした芸能に携わっていたのではないかということが、考えれば考えるほど、「言える」よなぁと思われてきます。そして、辻さんもやはり「常民の中にもこうした芸能に携わる人がいた」といっておられました(気がした^^;;)。
考えてみたら、当たり前ですよね。いつの世だって、「(今の自分の仕事を続けるより)自分の芸で一旗あげたんねん!」という人はいるだろうし、社会のその人へのまなざしは「そっちへいったか」とか「まっとうな仕事をしろよ」みたいなものがあったのではないかと。まさにこのようなまなざしが「非人」へのまなざしだったんじゃないかなぁと。
従来、「士農工商」ときて「穢多・非人」という身分と教えられてきました。そのため、「どっちの身分が高いのか」とか「穢多は一生そのままだけど、非人は非人身分から脱出できる」などの話がありました。で、「どうやって非人身分から脱出するのか」みたいなことも言われてきたのですが、おそらく違うのではないか。
先ほど「身分というよりも、ある状態にある人を指す」としたのはこういうことですし、辻さん自身も質疑応答の時に「非人というのは身分ではないので「非人身分」とは言えないのですが〜」ということを繰り返し言っておられました。
で、先ほど書いたような「一旗あげたんねん!」みたいな人がほんとうに芸能に携われるようになるということは、そうとうに身分制が崩れはじめているということで、近世末期にはそのような状態に対して、身分の引き締めのために非人小屋の存在が一役買ったというあたりのところで、辻さんの話は終わりました。
実は、辻さんの話はわたしにとって理解できるかどうか、すれすれのところだったので、頭の中にものすごくたくさんの疑問符を抱えたまま講座の時間が終了しました。その後、外川正明さんと立ち話をする中で、少し整理ができて、文章化することができたという次第なんです。もちろん、いまだ未整理な部分もありますが、とりあえず、最後のあたりの「引き締め」というあたりが、次回(6月21日)に「職業規制から見た京都の町」で話されるようです。楽しみ!

*1:「非人」というのは、近世では正式には「身分」ではなかったと考えられるので、このような書き方をしています。

*2:「しざぞうしき」と読むみたい。で、どういうものかについては、ちょっと遅れてしまったので聞けませんでした(;_;