追加

なにがわからなかったのか、ちょっとわかってきました。
それは、「常民」の「芸能人」への移行のことなんです。
もちろん、個人としては「夢の実現」ということで、それはそれでOKなんだと思います。でも、社会はそれをどう受けとめたのか。で、これまた社会と個人が完全に分離していたならそれはそれでいいのですが、「家族はどう受けとめたか*1」。さらに、「非人への移行」に対する本人自身のフォビアはなかったかどうかというあたりが、一番の関心事なんです。
これ、どこで質問しようかなぁ…。

*1:これ、どこかで聞いたフレーズですが(笑)

勉強・部落史連続講座

ホッと一息ついたところで、今日は学校帰りに「部落史連続講座」です。
今回は2回目。辻ミチ子さん(元京都文化短期大学)による、題して「近世 仕事三大咄 −国家公務員・委託事業・芸能プロダクション−」という話です。
内容としては、カワタの人たちや非人といわれる人たち*1の仕事を、現在の言葉に置き換ええるならどうなるのか。そしてそこから、その仕事の内容について考えていこうという試みだったようです。

  • 国家公務員

まずは、なにが「国家公務員」なのか。
カワタも非人も、ともに下級役人としてさまざまな仕事に従事していました。基本的には、町奉行所の下にある四座雑色[1] … Continue reading)の下にあるみたいです。カワタ身分については「役人村」、非人については「悲田院」が統括をしていたみたいです。
つまり、奉行所にしたにあるというところで、ともに「(国家)公務員」としての役をしていたということになるのでしょうか。基本的にはカワタについても非人についても「刑吏役」に携わっていました。ただ、非人については、「行き倒れ」の人たちの排除とケア((このあたりがおもしろいです。単純に排除するだけではなく、看病をすれば大丈夫な人については看病をした後「送還」をしたみたいです

*3:まぁ、いまふうにいうと「炊き出し」ですか

*4:つまり、都=京都

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1 このあたりがおもしろいです。単純に排除するだけではなく、看病をすれば大丈夫な人については看病をした後「送還」をしたみたいです">*2をしたり、施行*3をしたりといった役もしていたみたいです。おそらくは、都市部*4流入してくる非人が多くなりすぎると収拾がつかなくなるため、適度なケアと必要な排除をするという機能があったようです。で、そのあたりを統括していたのが「悲田院」というところだったと。
あと、悲田院は「肥樽」の管理もしていたとか。「肥樽」というのは、当時の公衆便所のようです。で、「肥樽」の管理者は悲田院で、ここで得られた「肥え」を近郊農業をしている人たちに売ったとか。これまた、それなりの商売になったみたいです。

  • 委託事業

続いて、「委託事業」です。
「委託」という限りは、当時の為政者から仕事を委託されるわけですが、それが「皮革産業」だったということです。つまり、これは「カワタ」にかかわる話ということです。
ところで、辻さんによれば、カワタの人たちがもともとやっていた仕事は「お弔い」だったようです。ところが、「人間のお弔い」はお寺がやるようになり、「斃牛馬のお弔い」をカワタの人たちが担当するようになったとのことです。そして、それがやがて皮革業へと変化をしていった。で、それが「委託事業」だったということのようです。
この皮革業、けっこういい仕事になったようです。というのは、現在でも「革製品」はけっこうな値段をするわけで、それは今も昔も変わらないわけです。
で、あちこちのカワタの人たち同士で斃牛馬の取りあいが起こってしまう。そこで、斃牛馬処理権の範囲を決め、それを「草場」と呼んだわけです。
皮革産業は、皮革の加工の最初の段階だけではなく、武具から雪駄、膠にいたるまでさまざまな加工品ができます。また、直接の皮の加工品として「太鼓づくり」や「太鼓の皮の張り替え」なんかもありました。
現在では太鼓というと浪速のあたりが有名ですが、京都でもあちこちのムラが皮の張り替えを行っていた資料が残っています。ただ、ムラによってもちろん技術の差があり、大きい太鼓になるとどうやら天部村の技術がもっとも高かったようで、ここに集中をしているみたいです。まぁ、カワタ村の間でも、おそらくずいぶんと経済力の差があったんやろなあとは思います。
ところで、一般に皮革産業というと、一般民衆からは忌避されていて、町中にはそんなお店はないと考えられがちですが、町の中のお店の一覧表みたいな文書があって、それを見ているとけっこう皮革関連のお店が町中にあったみたいです。これ、辻さんが出された資料の中に書いてあったんです。このあたり、前に聞いた小林さんの話の中にあった「町式目」の話と少しバッティングするのかなとも思いました。もちろん、時代というものもあるんでしょうけど。

  • 芸能プロダクション

では、「芸能プロダクション」とは。
カワタが身分として存在しているのに対して、「非人」というのは「ある状態にいる人たち」をあらわす言葉であると考えられると、わたしは理解しました。おそらくは、現代においては「ホームレス」の人たちに近いのではないかと思います。で、この人たちが生き延びんがためにさまざまな仕事に従事します。その中でも、芸能関係のスキルを持つ人たちが門付芸や大道芸をしてお金を稼ぐ。近世においては、そうとうに稼いだ人もいて、なかには裕福な階級の女性達が「追っかけ」になるほどの人もいたとのことです。ただ、芸人さん達は、基本的には非人小屋に所属をしていて、自分が稼いだお金から相当な金額を非人がしらに上納する必要があったようです。このあたりが、まさに「芸能プロダクション」なわけです。
問題は、こうした芸能に携わるのは、非人小屋にもともと所属する人たち、あるいはその系譜にある人たちだけだったのだろうか、ということです。
前に樹村さんも書いておられたように、おそらくは、非人小屋の支配下になかった人もこうした芸能に携わっていたのではないかということが、考えれば考えるほど、「言える」よなぁと思われてきます。そして、辻さんもやはり「常民の中にもこうした芸能に携わる人がいた」といっておられました(気がした^^;;)。
考えてみたら、当たり前ですよね。いつの世だって、「(今の自分の仕事を続けるより)自分の芸で一旗あげたんねん!」という人はいるだろうし、社会のその人へのまなざしは「そっちへいったか」とか「まっとうな仕事をしろよ」みたいなものがあったのではないかと。まさにこのようなまなざしが「非人」へのまなざしだったんじゃないかなぁと。
従来、「士農工商」ときて「穢多・非人」という身分と教えられてきました。そのため、「どっちの身分が高いのか」とか「穢多は一生そのままだけど、非人は非人身分から脱出できる」などの話がありました。で、「どうやって非人身分から脱出するのか」みたいなことも言われてきたのですが、おそらく違うのではないか。
先ほど「身分というよりも、ある状態にある人を指す」としたのはこういうことですし、辻さん自身も質疑応答の時に「非人というのは身分ではないので「非人身分」とは言えないのですが〜」ということを繰り返し言っておられました。
で、先ほど書いたような「一旗あげたんねん!」みたいな人がほんとうに芸能に携われるようになるということは、そうとうに身分制が崩れはじめているということで、近世末期にはそのような状態に対して、身分の引き締めのために非人小屋の存在が一役買ったというあたりのところで、辻さんの話は終わりました。
実は、辻さんの話はわたしにとって理解できるかどうか、すれすれのところだったので、頭の中にものすごくたくさんの疑問符を抱えたまま講座の時間が終了しました。その後、外川正明さんと立ち話をする中で、少し整理ができて、文章化することができたという次第なんです。もちろん、いまだ未整理な部分もありますが、とりあえず、最後のあたりの「引き締め」というあたりが、次回(6月21日)に「職業規制から見た京都の町」で話されるようです。楽しみ!

*1:「非人」というのは、近世では正式には「身分」ではなかったと考えられるので、このような書き方をしています。

*2:「しざぞうしき」と読むみたい。で、どういうものかについては、ちょっと遅れてしまったので聞けませんでした(;_;