動かざること

今日は主義主張的には仕事をしなきゃならない日ですが、そんなことを言ってられない状態なので、自分の仕事をすることにしましょう。
それにしても、昨日と今日は朝寝坊ができて、とても楽です。なんと言っても、起き抜けにもがかなくていいのが、精神衛生上いい。
朝ごはんを食べたら、ペーパーとか本とかを読みはじめます。てか、読んでちゃだめなんですが、まぁ妄想を膨らますネタということです。
昼前にトラブルが発生して中断。少し対処に走りまわりますか。それでもつつがなく対処し終えて、再びおべんきょです。
質的調査って、かつては調査者は絶対的な位置にいて、調査対象者を客観的に見る存在という感じだったけど、今はインタビューは相互行為として捉えられて、調査者の立場も問われるんですよね。まぁ当然のことです。
で、おとつい書いたように、わたしのポジショニングがややこしい。というか、調査対象者として選んだ人々だけど、もっと選ぶこともできたし、そういう中で選ばれてると考えると、人選の時点で明らかにバイアスがかかってます。だからこそ、語りの中にわたしの名前が出てくる。
それだけじゃなくて、長年トランスについての発信をほそぼそとではあれやってきたから、特に昔のようにあまり情報がなかったころは、なんらかの形でわたしの存在を知ることはあっただろうと思います。さらに、教員であるということから、トランス教員も可能なんだってことを発信もしました。まぁ最近の人のように華々しくはやってないですけどね。なにせ、ノンカムだし(笑)。だから、わたしと出会う前に、すでに調査対象者が知ってるってこともある。
さらに人権教育にかかわっていることや、たまにお座敷に呼ばれることや、なんだかんだで、調査対象者とはいろんなつながりがあります。
調査対象者とわたしの間には「誰かの紹介でたまたま依頼した」とか「ネットで知った」とかいうのではない、そういう権力関係があるんですよね。ただ、それがどういうふうに「語り」に影響を及ぼすかはわかりません。なにしろ、比較の対象がない。いろんな人が「いつきさんだから聞けた」って言われて、それはそのとおりなんだろうけど、「いつきさんだから言わなかったこと」もあるだろうなと。で、何を言わなかったかはわからない。で、「何を言わなかったか」を追求するのではなく、それを踏まえて「語り」を読む。そして、書く。書くためには、そういう権力関係をあらためて明らかにする。
まぁそんなことを明らかにするために、「わたしという存在」について考察する今日この頃ってことです。この山はまだ登りはじめたところだけど、なかなかおもしろいな。
それにしても、昼の一時を除いて、ほとんどこたつから動かなかったな。そんな日がうれしい。