それにしても、わたしのスマホ「きのう」と打つと「機能」が出てきて、「はんにち」と打つと「反日」が出てくる(笑)。
そんな使いやすいスマホで朝の通勤時間帯に原稿を打つわけです。で、完成したらdropboxに放り込んで、パソコン起動して一太郎に食わせて字数調整。
今日が締め切りの文章、なんとか完成して送ったら、夜に返事。
「2行あふれています」
あれ?先月も2行あふれてたな…。
もしかしたら、行数数え間違えてた?
てことで、数えなおしたら、一段あたり1行多く設定をしていました。
しかし、いままで2年間、なぜ書けていたんだろう。謎は深まるばかりです^^;;。
日: 2013年2月25日
で、語った
「あの人たち」のこと。「あのできごと」のこと。
なぜ自分はそのことで傷つくのか。なぜ自分はそのことにとまどうのか。
数学も大切だけど、ほんとはもっと大切なことがある。でなければ、「わたし」が生徒の前に立つ意味がない。
教員という権力性を持ちながら、そのことに自覚的でありながら、やはり語らざるを得ない。
ふだんは「数学」に乗せて語る。しかし、本当に必要なときは、「言葉」に乗せて語る。語ること。あきらめないこと。
そのために教員になったんだ。
透明性と不透明性とか
この時期になると「評価」がガチの課題になってきます。
「いや、そんなもん、年度当初に決まってるやろ!」
という向きもありましょうが、で、確かにそうなんですが、そうはなかなかいかないところがありまして。やはり、「妥当性」というか「現状追認性」というか、そんなものを考えながら、毎年修正していくものなんです。
ただ、年度当初は忙しいんですね。で、みんなが納得する必殺の言葉が出てきます。
「まぁ、歩きながら考えましょか」
ただ、いつも歩きすぎてゴール直前に
「どうしよう(T_T)」
となる。
で、今年はそれを避けるべく、普段よりも半月早く提案をしてみたわけです。
で、なんとなくわかったことは…。
全体の総枠は、おそらくは透明性と客観性をもっていないといけないのかな。まぁ、「その客観性の中身を客観的にあらわせ」と言われたら「ごめんなさい」なんですが(笑)。
でも、最後の最後に、ほんの少しだけ主観性というか不透明性というかグレーゾーンというか、そういうものがあってもいいんじゃないかと思うのです。
今日の論議でも
「ここの基準はどうします?」
みたいな話が出た時、わたしともうひとりか
「そこはグレーゾーンでいきましょ」
と発言したわけで。
グレーゾーンがあるってことは、そこの責任は担当者がとるということです。担当者が担当する生徒から逃げないために、やはりこの感覚は大切だと思うんですよね。