「分断」はどこからくるのか

「事件」というのは、簡単に言えば、店のお客さんからセクハラにあったということです。
他のお客さんがそのことに気づいて、トイレに行くフリをしながらセクハラ発言を繰り返している人のところに行って「ええ加減にしときや」と言って下さったあたりから、話は急激に「しんどく」なってきました。
お店の人たちも「やめときいや」と言って下さるし、隣に座っておられたお友だちも「やめときいや」と言って下さる。でも、「意地でもやめない」と言いながら、セクハラ発言を繰り返されます。
さて、こういう時ってどうなるんだろう。
もちろん、わたしもいずみちゃんも「防衛」にまわるわけです。
ただ、繰り返されるセクハラ発言に対して、その処し方をめぐって意見の対立が起きてくるんですね。
直接被害に遭っている人は、ある意味「あぁまたか…」となる。悲しい「慣れ」があるのかなぁ(;_;)。そして、そこをやり過ごす方策として「自分がいるからこういうことが起こる」→「自分が帰ればいい」となる。
でも、それははっきりと間違っているわけです。なので、わたしやいずみちゃんは「違う」となる。わたしに至っては、「ここに居続けることが闘うことなんだ」と言ってしまうわけでm(__)m*1
セクハラ被害者って、原理原則としては「加害者が悪い」ということがわかっているんだけど、繰り返される行為に対して、もっとも簡単な方策は「自分を責めること」だということを、だんだんと身につけて行かれるんでしょうね。
こうやって、「処し方」の対立は、わたしたち3人を分断しはじめます。なぜなら、その対立は、互いの立場性や生い立ち・体験の違いからスタートしているし、それを肌身に感じて理解することは、少なくとも「その瞬間・その場」においてはほとんど不可能に近いからです。
これ、悲しいよなぁと思います。
本来ならば、わたしたち3人が結束をしてセクハラに立ち向かっていかなければならないのに、逆にセクハラを受けるということを通して、互いの違いを思い知らされ、わたしたちが分断されていく。

その回路から立ち直っていくために何が必要かということについては、明日の日記に書くことにしましょう。

*1:まぁ、お酒が入っていたこともあるんですけどね

玖伊屋のあけた日

目が覚めると9時過ぎ。久しぶりの寝坊です。でも、寝たのが5時頃だったらしいので、睡眠不足もいいところです。まぁなんとかなるか。
まずは参鶏湯で使った残りのもち米を使っておかゆづくり。たっぷりの水でグツグツ煮て、だし・塩・玉ねぎを入れて味付け。さらに、しあげにごま油をひとたらし。溶き卵を入れてふんわり混ぜたらできあがりです。
あとはいつもの通り、ダラダラと片づけて、今回の玖伊屋も終了。

で、いつもの場所へ移動。もちろん、約1時間の散歩つきです。今回は人数が多いので、途中電話で「行きます」と予約を入れておきました。
昼前に到着。すでにMりあさんとMすみさんが店の前で待っておられます。すみません、遅くなって。
で、まずはビールでカムパーイ→速やかにバクダンに移行→「おばちゃんおたふくスペシャル濃いめ」へ突入といういつものパターンがはじまります。
と、「こんにちは」と顔を出されたのが◯久Zさん。
もう、あとは飲んだくれモード全開です。M木ちゃんはストーブの上に座って「うふふ」と笑いはじめるは、S水委員長は「ごちゃ*1」を一口食べて「いままで食べた中でいちばんおいしい!」と力強く言い切られるわ。
時間が2時をまわったあたりから、ひとり、またひとりと帰りはじめられます。が、断固としてうごかない3人*2がいます(笑)。
途中、事件が起こって、それをめぐって、涙あり告白あり和解ありの激しい会話が続きます。
そうこうするうちに、カラオケタイムがはじまります。ってことは、7時やんか!でも、3人は動きません。どころか、歌い始めます。
そうそう、A◯澤さんがタガログ語で「ANAK」を歌っておられたんですが、あれ、もともとフィリピンの曲だったんですね。知らなかった。せっかくですから、わたしは日本語で*3
てなことやっているうちに、8時前。さすがにここらで解散です。

家に帰ったら、突然こみあげてくるものがあります(笑)。パートナーが「もう!あんたはここに寝とき!」と敷いてくれたふとんに倒れ込むように寝て、長い一日が終了です。

*1:ホルモン煮

*2:いずみちゃん・阿K◯さん・わたし

*3:杉田二郎ですよ