「分断」はどこからくるのか

「事件」というのは、簡単に言えば、店のお客さんからセクハラにあったということです。
他のお客さんがそのことに気づいて、トイレに行くフリをしながらセクハラ発言を繰り返している人のところに行って「ええ加減にしときや」と言って下さったあたりから、話は急激に「しんどく」なってきました。
お店の人たちも「やめときいや」と言って下さるし、隣に座っておられたお友だちも「やめときいや」と言って下さる。でも、「意地でもやめない」と言いながら、セクハラ発言を繰り返されます。
さて、こういう時ってどうなるんだろう。
もちろん、わたしもいずみちゃんも「防衛」にまわるわけです。
ただ、繰り返されるセクハラ発言に対して、その処し方をめぐって意見の対立が起きてくるんですね。
直接被害に遭っている人は、ある意味「あぁまたか…」となる。悲しい「慣れ」があるのかなぁ(;_;)。そして、そこをやり過ごす方策として「自分がいるからこういうことが起こる」→「自分が帰ればいい」となる。
でも、それははっきりと間違っているわけです。なので、わたしやいずみちゃんは「違う」となる。わたしに至っては、「ここに居続けることが闘うことなんだ」と言ってしまうわけでm(__)m*1
セクハラ被害者って、原理原則としては「加害者が悪い」ということがわかっているんだけど、繰り返される行為に対して、もっとも簡単な方策は「自分を責めること」だということを、だんだんと身につけて行かれるんでしょうね。
こうやって、「処し方」の対立は、わたしたち3人を分断しはじめます。なぜなら、その対立は、互いの立場性や生い立ち・体験の違いからスタートしているし、それを肌身に感じて理解することは、少なくとも「その瞬間・その場」においてはほとんど不可能に近いからです。
これ、悲しいよなぁと思います。
本来ならば、わたしたち3人が結束をしてセクハラに立ち向かっていかなければならないのに、逆にセクハラを受けるということを通して、互いの違いを思い知らされ、わたしたちが分断されていく。

その回路から立ち直っていくために何が必要かということについては、明日の日記に書くことにしましょう。

*1:まぁ、お酒が入っていたこともあるんですけどね

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