某会議に出席

今日〜明日、某人権教育研究協議会の会議に参加です。
それにしても、我ながら「いろんなところに顔を出しているなぁ」とあきれるばかりなのですが…。でも、わたしのスタンスとしては、しかたないんだと思います。基本的には「自分からは切らない*1」という感じなんですよね。
ただ、この協議会はそれ以上の重みを持っているんです。
某在日外国人教育研究協議会*2がわたしの「現場」であるとするならば、この協議会は、わたしの「ふるさと」なんだと思います。
わたしが、はじめて「いつき」として「じんけんギョーカイ」に顔出しをしたのは、1999年に大阪で開催された全国セミナーでした。驚くべきことに、この協議会の人たちは、その日を境に、わたしを「いつき」として受け入れてくれました。いや、もしかしたら逆だったかもしれません。わたしが「いつき」になったからこそ受け入れてくれたのかもしれない。
いまでも忘れられないのは、ある人のポツリと漏らした言葉でした。
「やっぱりそうやったん。いつきさんが、なぜあんなに男だったのか、ようやくわかった」
その時は「なんで「やっぱり」やねん!」と思いながら、そして「別に無理して男してたわけじゃないよ」とも思いながら、その言葉を聞いていました。でも、その人にとっては、わたしが「いつき」になることで、わたしの「姿」を見ることができるようになったんでしょうね。
この協議会の人たちは、わたしを「連続した変化」の中で受けとめながら、「変化の中の転換点」もまたプラスに受けとめてくれているんです。
でも、もしかしたら、そこには長い「つきあいの歴史」があるんでしょうね。
わたしがこの協議会の交流集会にはじめて参加したのは、第1回が開催された1990年です。そこから20年間。その間には、「昔の名前」で部落の子や在日のこのことをレポートしたこともあります。一緒の部屋で雑魚寝をしながら熱い議論を闘わせたこともあります。そういう積み重ねがあったからこそ、今のわたしをまるっぽ受け入れてくれているんでしょうね。
でも、そういう「ふるさと」だから、縛りが少ないんですよね。「万難を排して来い!」という強制感がないんです。だから、つい甘えてしまう。で、「ゴメン、今回パス」みたいになっちゃうんですね。

と、長々書いてきたけど、会議の長さは相変わらずやなぁ…。まぁ、今回は夕食の後の会議がなかったからええけど(笑)。

あ、そのせいかどうか知りませんが、ダラダラ部屋で呑んでしゃべっているうちに寝てしまい、結局宿泊の予定がなかったのに泊まることになってしまいました*3。あ〜あ…。

*1:人からは切られる(笑)

*2:全然「某」じゃない(笑)

*3:といっても、なんとなくそうなりそうな気がしていたので、メガネは持って行ってた

ほんとうに脱稿!

長い長い間考えた「読書感想文」ようやく脱稿です。
最後に悩んだのが「タイトル」でした。
かつては、タイトルを考えてから文章を書きはじめていたのですが、最近はそれができなくなってしまったんですよね。特に今回は、「しばり」からはじめて、そこからテーマを探り出し、興味を持った点を絞り込んで文章化していったということで、いままでとはまったく違うアプローチだったんです。それだけに、タイトルは完全に後回しでした。
で、最終的に決めたタイトルが
「運命論を越えるとりくみ −選択する主体となるために−」
です。
もちろん、元ネタは西成高校のとりくみです。西成高校が「学校としてのとりくみ」であるならば、今回の読書感想文の内容は「地域・運動・施策としてのとりくみ」という感じなんですね。でも、その根本は「生まれに生き方を決められる」というのをどう乗り越えていくのかということだと思っています。
てことで、内容は、また某所にアップされると思いますので、そこへのリンクをはりますね。

にしても、H野さん、ここ読んでたのかぁ…(笑)。

某所からのメール

「偽善者」というタイトルのメールが、某グループあてに送られてきました。URLが貼ってあるだけのメールで、さすがにこわいので、ゴニョゴニョして開いてみると…。
笹川陽平なる人物のサイトでした。
ttp://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1734
「同性愛!! 二大超大国 アメリカと中国」と題するその中の一文。

私自身は、性同一性障害という不幸な病気を背負った人のいることは承知しているが、同性愛はどうしても理解できない。

あぁ…。
結局こういうことなんだ。こういう「分断」に対して、どう自分の位置をつくり、伝えていくのかだなぁ。

にしても、我ながら小器用だなぁ…

そんな中で、ふと思いついた例え。

例えば、シーソーが一番安定しているのは、片方が下がって地面についている状態。社会も同じで、強者と弱者がいる状態が一番安定している。でも、それが「望ましい状態」であるかというと、強者にとってはそうかもしれないが、弱者にとってはそうではない。
シーソーが水平を保とうと思うと、その水平を保ち続けるために、いろいろな力をそこに加え続けないといけない。社会も同じ。
フラットな社会を実現するためには、その状態をつくり、保ち続けるために、いろいろな人がそこに力を加え続けないといけない。

今度、授業で使ったろ(笑)。

ローテンション

なんだかやる気が出ません。
昨日は昨日で、なんとなく落ち込み加減で、家族にトゲのある視線を送ってしまっていたようです。ふぅ…。
今日は子どもたちはかなり気をつかっていたみたいですが、わたしの「トゲ」の原因をよくわかっているようです。まぁ、下の子については「早く宿題をすませろ!」みたいなものなんですがね…。
とりあえず、「読書感想文」は、そうとう程度できています。でも、もう一本原稿を抱えているんですよね。こちらは依頼文を半分読んだだけでおいてあります。
困ったことだ…。

ある検証

とりあえず、マイクロソフトインテルを使わない方向で、今後のことを考えたいなぁと。
で、当面買うかもしれないのが、いわゆるnetbook系のものです。
てことで、検証。
winXPvirtualboxを走らせる。そこにubuntuを入れる。で、wineをインストールして、npopが動くかどうか確認。
動きました。でも、同僚に言ったら笑われました(笑)。
さて、わたしが持っている元祖netbookLOOXは、CPUはクルーソーだし、OSを変ればいいわけね。
でも、USBのCD-ROMからの起動がややこしいらしい。
検証は続く。

おわったぁ!

この間、さんざん苦しんできた「読書感想文」ですが、突然小ネタの神様が降りてきて、突然書き終えました。
にしても、「なんだかなぁ」という感じがぬぐい切れません。
まぁ、今晩一晩寝かしたら、ちょっとは熟成するかな…。

終わってない…

朝、出がけのニュースでひとこと。「停戦?」
よかった。
と瞬間思いました。とにかく、爆弾で死ぬ危険性が、そうとう回避できたわけですからね。でも、ガザの置かれた状況は、実はなにひとつ変わっていないんですよね。
なにが怖いかというと、ニュースって「目新しいもの」にしか価値がないというところです。爆弾が雨あられと降り注いでいる間はニュースとしての価値があるかもしれないけど、停戦となると価値が下がる可能性がある。そのことによって、「今も続いている」にもかかわらず「過去のもの」とされてしまう。
少なくとも、これからもずっと観察しよう。そして、伝え続けよう。