恋愛相談

「カムアウトすべきかしないべきか」とかについていろいろ。
「多様性」についていろいろ。
にしても、いつもの通り、よっぱらいのおっさんになっていた希ガス…。あかんなぁ…。

恋愛相談” に2件のコメントがあります

  1. 「うーん」と30分ぐらい考え込んでしまったさとしです。
    意図はわかる。
    「安定した社会とフラットな社会は両立しない、ということか」と。
    いわゆる強者という人が弱体化すると本当の弱者が苦しむことになるというまさにその状態が「今」おきているわけで…。

    問題は「その状態をつくり保ち続けるためにそこに力を加え続けない。」ができる「いろいろな」人というのはかなり上位の「強者」の部類に入ること。「自分たちの利害をきちんと社会に問える力のある人」という強者。「発言できてしかも話を聞いてもらえる」という強者。「黙殺」が一番やばいわけだから…。下手をすると結局強者同士の力の争いになってしまう。

    たとえばマルチな才能をもつ人と、喜怒哀楽すら表現できない植物人間までふくめて「人間」なわけだけどそのモデリングをした場合の平均値は「小学3年生レベルの知能で生活できる」になると思う。つまり世間が想定している「普通の人」像よりかなり低い能力になる。ところがそれを社会参加の平均値にすると現代社会の仕組みは動かせないし、維持できない。小学3年生レベルでは発する言葉が第三者に届かないことが多いし、また「発する」という発想も方法もないからそれは「ない」ことになってしまう。

    「弱者」を認めるからはじめないといけない気がするし、対等な関係をつくるためには弱者個人の能力にこだわるのではなくて弱者をとりまくすべてをみるというか。障害者の親が優秀な経営者&活動家であることもある。それは「わが子の障害を〜」と戦った結果、「そういう強者」になってしまったというシナリオが結構多い気がする。

    そこまで見通した上での「フラットってどうよ?」かなあ…。
    すみません。つっこんでしまって…。

  2. いきなり聰くんでびっくりしましたよ(笑)。
    「強者」「弱者」という書き方が実はよくないんでしょうね。
    正確には「権力構造の網目」という社会構造なんだと思います。
    ややこしいのは、一人の人間をめぐって、ある側面で言えば「権力」の側にあり、ある側面では「被抑圧者」であることがある。たとえば、その時に、例えば、自らの「被抑圧者性」を脱出するために、権力を使ってさらに「強者」になっていくというのは、結局は権力構造の中にいつづけるということになるんだと思います。
    あと、権力構造が安定しているというのは、被抑圧者もまた権力構造の中にあることに安定感を見いだすということなんですよね。それは例えば、「あきらめ」や「服従」という形で、その権力構造を維持することに荷担をする。極端な物言いをすると、もしかしたら、権力構造って、自分の場所を確保しやすいのかもしれないです。

    で、表現の件ですが…。
    例えば、「植物人間」と言われる状態であっても、その人の存在そのものが、その人が意図しているかどうかは別として、ひとつの表現なんだと思います。そこからどういうメッセージを受けとるかは、受けとる側に委ねられている。
    わたしは、だれもがきっと表現する能力を持っていると思います。でも、「どうせ」とあきらめてしまっている。その潜在的な能力をエンパワーすることが大切なんだと思います。そして、「伝える」ためのスキルをともにつくりだしていく。それが、例えば「識字」なんですよね(もっとも、「字を習うと表現できなくなる」というおばちゃんがいたとか…)。
    で、そうやって表現されたものを受けとる力もまたつけていかないといけないと思うし、受けとったものを伝えるスキルもまた必要。
    そこに「教育(必ずしも学校教育とは違いますけどね)」というものがあると、わたしは思っているんですよね。

    そういう営みの中で「フラットな関係」をつくりだす、あるいは、権力構造の網目をほころばせていくんだと思うのですが…。
    ちょっとずれたかな?

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