こんなのがあった

某所をフラフラしていたら、こんなものがありました。
http://kawango.hatenablog.com/entry/2013/01/18/084457
少々長いけど転載。

ナベタくん(仮)の選挙   ※大塚英志さんのメールの転載
※HPもフェイスブックもやっていないから、という大塚英志さんからメールで送られてきた文章をそのまま転載しました。

ぼくの昔の教え子にナベタくん(仮名)、という子がいる。

十年以上か、もう少し前、ぼくが専門学校で二年ほどラノベの書き方を教えていた時の生徒だ。真面目な子だから卒業後は書店でアルバイトをしつつ小説を書いている、という近況を聞いたのは七年か八年前だ。彼らと卒業後やっていた勉強会も、ぼくが神戸の大学に行くことになって止めてしまったので、この何年か何となく音信不通になっていた。

 ところが去年、ニコニコ動画の公式チャンネルで月イチのまんがの番組を公開録画で始めると、当時の教え子の姿がちらちらし出した。介護士をやっている奴や、中には誰でも知っている携帯ゲームを考案した奴もいたけど、ナベタくんは色々あって本屋のバイトも辞めて、ニートというか微妙に引きこもり状態だという話で、リハビリを兼ねて(?)会場に顔を出すようになった。昔から真面目すぎる奴だから本屋でのアルバイトで人間関係とか色々なことでちょっとだけ心療内科系のお世話になることになったらしく、なんていう彼のプロフィールは多分、今の時代、少しも珍しくはない。

 そのナベタくんが誰に言われるでもなく始めたのがブログで、そこまでは本当に普通なのだが、その内容がちょっと変わっていた。彼は東京郊外のとある市に住んでいて、住民票もそこにある。つまり選挙権もある。有権者のはしくれである。彼はその地元の市長選挙だか市議会選挙が始まると、候補一人一人の選挙事務所を訪ねていって、そこでの受け答えをブログに載せたのである。別にツテやコネがあったわけでもなく、直接選挙事務所に電話をしてアポをとり訪ねていく。大抵は門前払いだが、驚くのはそれでも会って話をしてくれる候補がいたことだ。質問はコンパクトにまとめ、それをブログに短く書き込む。

 ナベタくんには特定のイデオロギーや政治的背景はない。本当に見事にない。ぼくはその専門学校で政治の話は一切しなかったし、彼とそういう話をしたこともない。覚えているのは、いつも彼が四方を何かに囲まれた世界から主人公が何とか脱出しようというモチーフの小説を繰り返し書いていたことだけだ。仲々うまく描けなくて、それは今思えば何だかその後の彼の人生を象徴しているように思えるけれど。

 ナベタくんのブログは政治の話とはいえ、ネットでの政治の語り方と全く異質で「ネット右翼」でもないし、そもそも何か政治的主張が左右どちらかに対してあるわけでもない。ただ、選挙に出た人たちがどんなことを考えているか、特に地方選では少しもメディアは伝えてくれないから、それなら自分はヒマだし聞きにいってブログにでも書いたら誰かの役に立つかもしれない、ただ、それだけの動機で始めたのだ。だから「見たまま、聞いたまま」をそのまま書く。

 ぼくは去年、その話を聞いて、君の人生がそれでどう変わるわけでもないだろうけれど、とてもいいことをしているから次の選挙でもやるといいんじゃない、と夜中のマクドナルドで百円のコーヒーを奢って彼に話した記憶はある。

 さて、その「次の選挙」が実は去年末の衆議院選挙であった。ナベタくんは少し社会復帰したらバイトして安いカメラを買ってインタビューを動画でアップできたらいい、と考えていたようだ。そして選挙が近づき、本当に偶然だけど、ナベタくんは街中で彼の先輩とあった。先輩は社会人でナベタくんよりお金がある。何やってんのさ、オマエ、みたいな話の中で、この選挙のブログの話となった。先輩はその話を聞いて「とてもいいことだから」と、そのまま彼を家電量販店に連れていって一番安い動画の撮れるカメラを買ってくれたという。ナベタくんはとても恐縮したけれど、何だか背中を世の中に押された気がした。

 ナベタくんの暮らす市が含まれる選挙区には主だった政党が皆候補を立てていた。市議会選挙だったら数十票で結果がひっくり返ることだってあるから、ナベタくんのようなよくわからない青年だって一応「一票」なのだからと、相手をしてくれる候補もいたけれど、今度は国政選挙である。

 そもそも彼はアルバイト先で対人関係でのトラブルがあって以来、調子を崩していて、ぼくの教え子だけれどぼくとは正反対で全く押しの強いタイプではない。それでも勇気を出して一人一人の選挙事務所に電話をし、訪ねていった。結局、ちゃんと話してくれたのは日本共産党の候補だけだった。けれども断られ方も色々で、それもそのまま脚色せずに文章にして、候補者のポスターの上にテロップで載せた。生まれて初めて動画を編集し、ニコニコ動画YouTubeに自力でアップした。どうにも不格好な動画だけれど、とにかく全部自力でやった。

 各候補の対応の中で日本未来の党の事務所の対応は、どうもナベタくんの話を聞く限りやや心なかったようだ。もちろん一人一人の有権者のアポにいちいち対応できない、というのはその通りだけれど、彼に向かって指を差して怒ったことは、同じように昔、アルバイト先で指を差されてなじられた経験を持っていたナベタくんにはちょっとショックで、その後丸一日、足が震え、心が折れかけたみたいだ。逆に自民党などは断り方もソツがないな、と感心するし、ナベタくんに一時間近い時間を割いて真面目に話してくれた共産党の人は親切すぎる。ニコ動で「やべ、共産党の人、やさしすぎ」なんていうコメントがあったぐらいだ。

 ここまで読むと、何だかナベタくんのやっていることを昔のマイケル・ムーアのアポ無し取材のように感じる人もいるかもしれないが、全く違う。本当におそるおそる、思いっきり腰が引けている。そこが実はとてもいいし、共感できる。

 ナベタくんは優しく話してくれた人も、何となく足蹴にされた人もなるべくニュートラルにその経緯を書き、そしてインタビューに応じてくれた共産党の人の動画を含め、一本の動画にまとめた。そうすると直接候補の話を聞けなくても、やはりその候補なり政党の有権者への態度は伝わってくる。選挙演説や政見放送ではわからない生の情報がそこにある。少なくともそれは誰に一票を投じるか、とても大切な基準になる。

 結局、選挙当日までに動画を見てくれたのは、ニコ動とYouTube合わせて一〇〇〇人に満たない。何だ共産党の宣伝じゃない、というコメントもあったが、別に公明党でも未来でも話してくれればそのままナベタくんはネットに載せた。未来の党の人の対応に批判が集まったが、無論、未来の党を叩くことが目的ではない。全て「ありのまま」だ。質問がつまらない、というコメントもあったが、それは今後の課題だし、だったら「こういうことを訊くべきだ」と言ってほしい、とナベタくんは思う。ナベタくんも、もう少し勉強しなきゃいけないけどね。ヒマ人しかできない、という声もある。しかし、ニートだから時間だけはあるのだ。そう考えると、ニートも社会の役に立つ。時間以外は先輩に買ってもらったカメラだけが、今のところナベタくんが持っている全てだ。

 それでも書き込みの中には「とてもすごいことをしているのかもしれない」という声も少しだけあった。ぼくもそう思っている。

 ぼくはもうこれ以上、繰り返さないが、柳田國男が何故、日本人がちゃんと選挙がやれないのかを第一回目の普通選挙の時に憤った話をしたのか、と思う。柳田は自分の見たことや感じたことを正しく記録し、それを持ちよってみんなで考える仕組みを作るしかこの国の選挙は正しい形にならないと考え、彼は民俗学にそれを託した。けれど民俗学はただの「学問」になってしまった。

 でも柳田の考えたことはできないことなのか。

 ぼくには、ナベタくんがたった一人でやったことは柳田國男の考えたことの実践のように思う。一人一人の選挙民が「選挙群」として考えなしに空気を読んで投票する愚かしさを、昭和の初めからこの国はずっとしてきている。ナベタくんは自分の選挙区で誰に投票したらいいか判断する材料をニコ動を使ってニュートラルに提供しようとした。繰り返すが、彼にイデオロギーがあるわけではない。しかし「考えるため」の材料を人々に提供し、そして考えてもらう、という彼のスタンスはとても正しい。ニコ動で柳田の理想が形になった気がした。

 もちろん候補にしてみれば素性の知れないニート青年にいちいち対応していられない、というのは正論だ。ナベタくんを諫めた未来の人の対応にもその意味で一理ある。例えば「名刺もないのか」とその人に言われ、ナベタくんはそうか名刺か、と思い、生まれて初めて名刺を作った。彼は名刺をどこに注文していいかも知らなかったので、その時だけぼくは相談に乗ったのだが、「webジャーナリスト」とでも書いとけば少しは対応マシにならないかな、とぼくが言ったのに対して、ナベタくんはそれは違うと思いますと考え込んだ。そして結局「市民」という肩書きの名刺を作った。住所と携帯の番号とサイトのアドレスが書いてある。「市民」なんてすっかり死語か胡散臭いものになってしまったけど、ナベタくんの「市民」はカッコいい。ぼくは彼の話を聞いて、どこかで「物書き」という特権に甘えている自分が恥ずかしくなった。

 ここでもちょっといい話がある。生まれて初めて自分で名刺を作ろうとした彼は、ぼくにタウンページでも探せよ、と言われ、電話帳の広告を見て「格安」と書いてあった会社を訪ねていった。そこで「市民」という肩書きの名刺を作ろうとするナベタくんは、印刷会社の人にあれこれと聞かれた。まあ、怪しいし、不審に思う。ナベタくんは一時間ぐらい自分が何をしてどうしてこの名刺を作ろうとしているのかを真面目に話した。印刷会社の人は最後に「自分は実は在日なので選挙権がない。けれども君のやっていることは正しいよ」と言って名刺の印刷を引き受けてくれた、という。出来過ぎのようだが、本当の話だ。また、誰かが背中を押したのかもしれない。

 ぼくの周りのどちらかといえば左翼やリベラルの人たちは、今回の選挙の結果に本当に呆然としている。そして、実は「右」の人でもちょっとあり得ない、とことばを失っている印象がある。ぼくはというと去年の初めに散々「土人」だ「愚民」だと悪態をついたから、絶望することももうなかったが、けれども単にニヒリズムに陥らずに済んだのはナベタくんの行動のおかげだ。

 何だか自分が放り出した教え子に、いいかげん「土人」って言ってても仕方ないでしょ、と叱られた気さえした。ナベタくんはこの国の選挙に一つの可能性を示した。

 例えば、次の選挙でネットが解禁される可能性は高い。そうすると橋下徹ツイッターが象徴するように、有権者をいかに自分の優位な方に動員するか、プロパガンダ合戦になる。実際、ネットを使った選挙とは、候補者や政党がどうネットを使うか、にしか議論はなく、有権者がどうネットを使うか、ましてや特定の候補や政権のためでなく選挙をまともに行うにはどうネットを使えばいいのか、という発想は全くない。ニコ動だって、結局、小池百合子の「断髪式」を生中継するかしないか、レベルの対応しか今回だって出来ていない。この先もそうだろう。ぼくはその意味で半端にNHKにでもなろうとしてる「情報の送り手」としてのドワンゴに少しも期待していない。しかし、ナベタくんが使って見せたように、この国の選挙を少しだけマトモにするためにニコ動は使える。YouTubeもだ。

 例えば、だ。次の選挙で全ての選挙区にナベタくんみたいなニートくんがカメラを抱え、一人一人の候補にアポをとり、同じ質問をし、答えてくれた人はそのまま、断られた人はその経緯をなるべくニュートラルに平等に動画に挙げていく。質問もたくさんだと迷惑がかかるから、日本中同じものと地域に根ざしたもの三つぐらいがいいかもしれない。

 とにかくフェアに、ニュートラルに、がルールだ。

 そういう動画が全ての選挙区にアップされたとして、それでも次の選挙は少しも変わらないだろうか。この国の民主主義は相変わらずこのままだろうか。確かに何人もが同じことをしても仕方ないから調整も必要だし、特定の陣営の人が紛れ込むリスクもある。編集のちょっとしたニュアンスでバイアスをかけることだって出来なくはない。

 そういうリスクや問題点を一つ一つ挙げていったらキリがない。けれども、ぼくはナベタくんがこの国の選挙や民主主義についてwebを使って少なくともやってみる価値のある答えを出した、と思う。

 ぼくの友人でリベラルな人の中には「もう亡命したい」とか「有権者一人一人に訴えていくなんて、橋下や安倍相手にそんな正攻法はやってられない」という思いつめた声がけっこうある。しかし、ぼくは何だか少しも絶望していない。ナベタくんみたいな人が日本に現れることに、この国の民主主義の可能性を託してみたい気になってしまう。「それどころじゃない」のかもしれないけれど、でも、こういう足場を作っていくことでしか民主主義も選挙も変わってはいかない。

 そういうわけで、この文章は「全文をまとめて、かつ、修正とかは一切しないこと」を条件に、サイトや印刷物にいくらでも転載してかまわない。

 ナベタくんの動画は、

youtube衆議院選挙東京第25区の候補者に会って質問できるか やってみた」

http://www.youtube.com/watch?v=iI6nOYOmXEE&feature=youtu.be

ニコニコ動画衆議院選挙東京第25区の候補者に会って質問できるか やってみた」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm19560813?mypage_nicorepo

 で、見ることができる。ぼくが今、こういう文章を書いていること自体、ナベタくんは知らない(依頼された原稿ではないのだ)。ぼくもこっそり背中を押してみる。

 ぼくは『愚民社会』のあとがきで、どうしたらいいかなんて自分で考えろ、と書いた。ナベタくんは多分、ぼくの本なんか読んでさえいない。ぼくの本など読まない彼は、しかし自分で考えれば「答え」などいくらでも転がっていることをわかっている。

「ナベタくんの選挙」が、さて、どこまで広がるか。広がらないかもしれない。それでも少なくとも、次もまた彼は一人で候補者に電話をして、断られたりしながらカメラを回すと思う。

不思議なこと

夜、新聞を見ていたら「教育再生実行会議」なるものについての記事があったのですが…。
メンバーみたら「プロ」がいない。いや、わたしがここで言うプロは教育学の研究者のことなんですがね。
なぜ素人に論議をまかせるのか、なぜ研究の成果に学ぼうとしないのか、わたしにはよくわからない。まぁ、研究の成果に学ぼうとしないことが教育の再生につながるとお考えなんだろうけとわど、そうして「再生」された教育って…。なぁ…。

今年も今日が来た

「先の戦争」と言えば「応仁の乱」という話は有名ですが*1、わたしにとっては「先の地震」と言えば、やはり「阪神淡路大震災」です。
いや、
「何言ってるねん!東日本大震災やろ!」
という向きもおられるでしょうが、あくまでも「わたしにとって」でして。たぶん阪神淡路大震災をある程度の切実さを持って経験していない人にとって
「じゃ、その前の地震は?」
って聞かれたら、あれからもいろんな地震があったから、いろいろ出てくるだろうと思うのです。なんと言うか、みんなが一色に塗り固められなくてもいいかと。
てな話はいいとして…。
今年も語ることにしました。
というのは、この間聞いた講演中に、「災害を語れるのは災害を経験した人」というくだりがあったけらなんですよね。で、3種類の経験者がいる。ひとつは「被災者」。でも、被災しないに越したことはないし、被災といっても程度の差もあるし、なによりなんだかんだ言って少ない。で、もうひとつは「ボランティア経験者」。被災はしていないけど、現地に行くことによってわかることがたくさんある。でも、誰もが行けるわけではない。で、三つ目が「災害について語られたことを聞いた人」。「これであれば、誰でもできる」と言われたのですが、実は誰でもできるわけではない。誰かが語ってくれないと、三つ目の人にはなれない。とするならば、ひとつめふたつめの人は、三つ目の人のために語らなきゃならんだろうと思うわけです。
てことで、いつもの話をしたわけですが…。
「そうそう」と思ってつけ加えたこと。

なんかね、みんな「がんばろう日本」って言うんだけど、一体誰が何をがんばるのかわからない。ちなみに、「絆」とかいうのもあるけど、わたしは「絆」って言葉はきらいなんだ。
阪神淡路大震災の時は、たしかに「がんばろう」って言ってたけど、あれは「がんばろう神戸」だった。誰のために声を発しているのかわかったし、誰ががんばるのか、それは神戸の人も「がんばろう」と思っただろうし、神戸の人ではないわたしも「がんばろう」と思えた。
でも、「がんばろう日本」には、そういうリアルさがない。
では、リアルさがない中で、誰が何のために「がんばろう日本」と言っているのか。
わたしはそこになんとなく「他の意図」を感じてならない。簡単に言えば、震災を利用して、あるいはそこまではいかないかもしれないけど、きっかけとして、なにか他の意図を持って「がんばろう」と言っているような気がしてならないんだ。

なんというか…。
たぶん、言葉は大きく広げずに、対象を絞ることでリアルさを持ち、意図が明確になる気がします。そして、それが誠実さにつながるのかもしれないとも。
自戒の念を込めて…。

*1:ほんまかいな^^;;。

「感じる」ことと「考える」ことと

「aとbか3の倍数⇒a+bは3の倍数」
「⇒って、見たことあるな?」
「ならばや」
「そう。これ、命題や。命題は、偽であることを示す時は反例が必要だった。では、真を示す時はなにが必要とおもう?」
「…」
「証明や」
「えー(T_T)。証明ー(T_T)」
「あのな」
てことで語ってしまいました。

証明って、ほんとうはやらなきゃならないことなんや。
君たちが話す時「なんとなく」とか「〜と感じる」とか「〜と思う」って言うやろ。でも、それは人との対話にはならんのや。なぜなら、「なぜ」に答えられないからや。
それに対して「〜と考える」は違う。これは「これこれこうだから、こう考えた」と言うことができる。だから対話が成り立つ。
つまり、「感じる」「思う」と「考える」には大きな違いがある。そして「考える」ことが対話を成り立たせるために必要なんだ。そしてその中にある「なぜこう考えたか」というところのことを「証明」というんだ。証明するためには、いくら実例を並べてもダメなんだ。でもその代わり、一般化したものをひとつ示せばいい。
そして、それが「感じる」「思う」と「考える」の違いなんだ。
いいかい、「証明」を学ぶことは、人との対話の手法を学ぶことなんだ。
じゃあやるよ。

もちろん元本はこの本です。ありがと!K田さん!

はきだめ

別に、なにがどうということではないのですが…。
いや、たんに数学の教科書(カリキュラム)のことです。
今年から高校数学は新カリの先行実施で、今までなかった分野が入ってきています。まぁ、もどってきたとも言うのですが^^;;。
それにしても、見事にバラバラ。いや、今のカリが「どこかでこけても、それが次以降に影響しない」というスタンスでつくられているのはわかっているんですがね。でも、そうすることで系統がなくなってしまう。それってなんだかなぁと思うわけです。
3学期に残しておいたのが、整数問題と図形。前半は整数問題をやります。
おもしろいですよ。確かに。でも、「整数とは」からはじまって、「約数と倍数」みたいな話をやるわけです。
「それ、前にやったやん」
そのとーりです(笑)。しゃーないから
「数学っちゅうのはな、螺旋階段でな」
ってごまかすわけです(笑)。
でも結局あれやろ。「数学A」って、他のところでやらなかったことをポイボイ放り込んだだけのこととちゃうん?「特定不能の〜」みたいに。
まぁ、そういうところが必要なのはわかってはいるんですがね…。
ま、せめてこの部分、楽しませてもらいましょうかo(^^)o

支配とは

朝、空を見上げると月。遥か彼方にオレンジ色に輝く山がほんの少しだけ見えました。山の朝は上の方から明けていきます。

振り向くと、太陽はまだ稜線の下にあります。

夜と朝が同居する時間は、やがて太陽にすべてを支配される昼へと変わっていきます。
やがて、太陽の支配が終わる頃、再び夕方と夜が同居する時間が来ます。

幾度めだろう

授業のはじめに…。
わたしが代表するわけではないんだけど、一有権者として君たちに謝らないといけないことがある。
昨日をもって、日本は本当に戦前になった。これからは「戦争のできる国づくり」が着々と進んでいくだろう。それは例えば徴兵制というかたちで出てくるかもしれない。わたしは年齢的に徴兵されることはないだろうけど、多分君たちは兵隊にならなければならないかもしれない。銃で人を殺すとはどういうことか。友だちの友だちにイラク帰還兵がいる。その人は、今も戦場のことがフラッシュバックするという。戦争というのは、一人の個人の人生をそういう形で変えてしまう。
では、どうすればいいのか。「best」の選択をしないこと。なぜなら、もしも「best」が誤りであった時、すべてをご破算しなくてはならないから。だから「better」の選択をすること。「better」ならやり直しが効く。
今回の選挙はみんなが「best」を求めようとした。でも、そんなものはあるわけがない。なぜそうなったか。
そもそも議会制民主主義とはとてもまわりくどいものだ。選挙で人を選び、その人たちが議論を戦わせ、それぞれが考える「best」から妥協することで「better」を選択する。なぜそういう制度になったのか。それは「そう簡単に変わらない」ことが安全を担保するということを戦争の経験から学んだからだ。
だから、選挙は大切なんだ。友だちのお父さんが「民主党は期待に応えなかった。お灸を据えないといけない」と言ったらしい。その発想はまちがっている。選挙はファン投票ではないんだ。
「平和をつくる一票」はとても難しいかもしれない。でも、「戦争を避ける一票」ならありうるかもしれない。そして、その一票をどう選ぶのか。それは、時代を見て、社会を見て、考えること。それ以外に方法はない。
このクラスの子は全員日本国籍を持っているはずだ。だから、数年後に選挙権を持つ。一枚の投票用紙を目の前にした時、できれば「なんか言ってたな」と思い出してもらえたらうれしい。

じゃぁ授業をはじめましょう。

刃の上の日

「チェンジ!」という言葉は、とても心地良く聞こえる。でも、安易に変わる世界はとてもこわい。その反省にたってつくられた制度が議会制民主主義だと、わたしは思っている。
安易に変わりそうな時はそうではないやり方で、とうてい変わりそうにない時はそうではないやりかたで。
時代の風に左右されるやり方かもしれないけど、現実的な解はそこから考えないとどうしようもない。
そこから考える解は…。
とにかく、一票の重さを考える。その一票を奪われている友だちがたくさんいるからこそ。

時計の針

朝の電車の時間って、案外いろんなことを考えることができます。
昨日「自分史を書くこと」について呑み友だちからメールをもらって、それからずっとそのことについて考えています。
そう言えば、子どもの頃については、けっこうトピック的なことは覚えているのですが、仕事をするようになってからは、あまり記憶がないんですよね。いや、あるんだけど、前後関係がいまひとつわからない。
出来事って、多分に相互に依存するから、あるトピックはそれにつながるものと一緒に捉えておかないと、たぶんミスをします。もちろん「書く」という具体的な作業の時は「つながるもの」をあえて省略することもあるわけですが、自分の中ではつなげておかないといけない。そんな気がしています。
で、考えてみると、自分の中でも仕事の上でも一番「区切り」のないときって、やっぱりあるんですね。なので、2ヶ月ほど前にパソコンの中をサルベージして「前後関係」=「つながり」を確認するための「時系列表」をつくってみました。
で、わかったこと。
「ゆっくりのんびり」
なんて、ウソじゃん(笑)。
でも、自分の中では、とてもゆっくりのんびりやっていたんですよね。その「ズレ」って、なんなんだろう…。
もしかしたら、あの頃から、自分の中の時計の針の進み方がズレはじめたのかもしれない。

自立とは^^;;

今日は一時間目の授業が終わったら、そのまま出張です。てことで、ジャンパーとリュックを持って教室へ。授業が終わったら、隣の教室の教員に荷物を預けて駅までひとっ走り。
午前の会議には20分遅れで参加。

午前の会議と午後の会議の間は少々時間があります。せっかくなので、地元の小学校に行って、校長さんと雑談。ついでにパソコンを借りて、夜のおべんきょのペーパーをプリントアウト。てか、こっちがメインの用事だな^^;;。にしても、ある意味部外者に快くパソコンとプリンタを貸してくれるって、メッチャうれしいです。ありがとうございますm(__)m

午後の出張に行くべく駅に向かったら、ちょうど電車が出たところ。
「わちゃー(T_T)」
と思ったら、そこにいた知り合いが
「仕事行く途中やし、乗せてったるで」
とのありがたい言葉をかけてくださいました。
てことで、無事午後の会議に参加。
会議の最後に
「すんません。どなたか最寄りの駅まで乗せてくださいm(__)m」
すぐに
「ええよ」
のお言葉。

こんな時に思い出す言葉は…。「風の旅人」の宇都宮さんの言葉ですね。

「ほんとうの自立とは、他者の力をどれだけ借りられるかにかかっている」

今日、何人の人がわたしに力を貸してくれたかな。その数は、もしかしたらわたしの「幸せさ」の指標かもしれないです。