あきらめではなく

来週から中間試験です。一週間くらい前になると、ボチボチ試験範囲も終わりはじめて、復習の時間へと移行していきます。
先週試験範囲を終えて、今日から復習に入るクラスがひとつ。あした終わるクラスがひとつ。たぶん明後日終わるクラスがひとつ。
問題は、この「復習」の時間をどう使うかなんですよね。
ここで遊んでしまうヤツがいるんですが、たいていそういうヤツは試験はボロボロです。まぁ、何度も繰り返してるので、マヒしてるんでしょうね。で、「どうせできない」ってあきらめる。
そうそう。この間、こんなことを生徒に言いました。

君たちと大学生。あるいは大学生と大学院生の違いはなんだと思う?
勉強ができるかどうかじゃないよ。大学院生よりはるかに勉強ができる大学生はいるよ。大学生よりはるかに勉強ができる高校生はいるよ。違いはそこじゃない。違うのはね。
「わからない」と思った時にどうするかなんだ。
勉強ができない高校生や大学生は「わからない」と思った時にあきらめるんだ。でも、勉強ができないけど大学院まで行く人は、「わからない」と思った時「考える」んだ。そのほんの少しの違いなんだよ。

わかるかなぁ…^^;;。

器用さと不器用さ

はたしてわたしという人間は器用なんだろうか不器用なんだろうか。
たぶん「そら器用やろ」と言われてしまいそうなんですが、たぶん一概にはそうは言えないかも…。
たしかに器用なんですが、そして器用だからなんとかやってられるんですが、その「なんとか」ってなってしまうのは不器用だからなんじゃないかと。
例えば、AとBがあって、選択を迫られる。器用な人はどちらかを選択できる。もしかしたらその選択の根拠もきちんも説明できるかもしれない。あるいは、説明できないまでも、「選択した事実」そのものが態度表明でもあるし、それをまって説明とすることも可能です。
でも、選択はわたしにとってとても苦手なことなんです。選択しない方法はふたつあって、ふたつともとるか、ふたつとも捨てるか。でも、後者はたいていの場合「ふたつとも捨てる」ことの説明を必要とする。わたしはこれをする器用さがない。なので、「ふたつともとる」という選択肢しか残されていない。で、「なぜふたつともとるのか」という説明を求められたら、説明する器用さを持ちあわせていないので、沈黙と笑顔でごまかす(笑)。でもそれでは納得してもらえない。なので、「ふたつともとっても大丈夫」ということを現実にやりきるという「行為」で説明しようとする。
問題は、この「行為」をする器用さを持ちあわせていることです。なので、とりあえず納得してくれるんだけど、根本的な解決にはなっていない。単に解決を先送りにしているだけなんですよね。で、いずれ破綻する。
これ、たぶん不器用なんだと思うんですけどねぇ…。

教え子からのメール

わたし、基本的に冷たい人間というか、記憶力がないというか、そういう人なので、卒業生の記憶がほとんどない人間です。まぁ、卒業生と出会ったら、またそこで新たに関係をつくりなおせばいいかと思っているフシもあります。なので、卒業生からわたしに連絡をとってくることはほとんどありません。
そんなわたしのもとに、一通のメールがきました。
わたしにとっては、なぜかとても記憶に残る生徒でした。で、その卒業生もわたしのことが記憶に残っているそうな。
そのメールの中に、わたしがかつてその卒業生に伝えた言葉が書いてありました。
「美術と数学は遠いようで、実は1番近いところにあるんだよ」
あぁ、少し気恥ずかしいですね。数学の何たるかを未だに知らないわたしが、18年も前によくぞ言ったものだとは思います。
でも、数学が苦手で美術が得意だったその卒業生に、数学の魅力・数学の美しさを伝えたかったんです。そして、いまでもやっぱり
「美術と数学は遠いようで、実は1番近いところにあるんだよ」
って思ってます。

「やりたいこと」と「やること」と

朝、放送部に行って
「昨日、どうやった?」
みたいな会話。
昨日、地元の警察の人が来られて、防犯放送のアナウンスをしてほしいと。ついては収録してほしいと。
で、わたしは放送部室に連れて行って
「この人から話聞いて、ちゃんとしたげてね」
「あとは適当にどうぞ」
と言って部屋を出たのですが…。
その警察の方、わたしが去ったあと
「好き放題してるなぁ」
とつぶやいたとか。

いや、そりゃ好き放題してますよ。してますとも。でもねぇ…。
例えば放送部にかかわって好き放題するためには、長い歴史もあり、また歴史によっかからずに、いまもいろんなことをしているんですよ。それをすっ飛ばして、「パッと見て」好き放題はないだろうと。

教員って、自分がしたいことがあって、それにあう生徒を好む傾向にあるような気がします。その最たるものが「部活動」です。なので、部活動に力を入れる教員がいるのはよくわかります。あるいは、不本意な部活の顧問になるとテンションだだ下がりなのも、これまたよくわかります。
で、双方のやりたいことが一致しているかのように見えるから「(教員が)やらせる」ことと「(生徒が)やる」ことのギャップが少なくなる。で、「やらせる」ことは実は自分の「やらたいこと」っていう意識が飛んでしまって、「やらせる」=「生徒の(自己実現の)ため」ってなってしまう。
ところが、傍から見ると、その姿は「生徒のためにやってる」ように見えるし、とても手をかけているように見えるので、好き放題やっているようには見えないんですよね。
で、わたしはそういう方向をとりたくないんですよね。子どもたちが「やりたいこと」を探し実現するために、わたしはなにができるのかを考える。もちろんわたしにも「やりたいこと」はあるわけですが、そして目指す方向はあるわけですが、それは強制したくない。もしもわたしの「やりたいこと」と子どもたちの「やりたいこと」を一致させようとするなら、子どもたちが納得し、自ら選んだという意識を持つまでの「しかけ」をします。それは、対話やボヤキや妥協やあきらめや、時としてはケンカもあっていいと思っています。そうやってすりあわせてきた結果が「いま」なわけです。そこでは「(わたしが)やりたいこと」と「(生徒が)やる」ことの不一致を前提として、もしも一致すれば、それは「(生徒が)やりたいこと」だと思える。だから任せられる。
いや、違いますね。「いつきちゃんが言うんやからしゃーないな(笑)」ですね(^^)。そういう関係だってことです。で、生徒が「しゃーないな」ってつきあってくれる姿を見たら、そりゃ「好き放題やっている」ように見えるでしょう。だって、わたしが「やりたいこと」を子どもたちが「やってくれる」んですからね。

あ、そう言えば、どこぞのえらいさん(笑)が「やりたいこと」を聞いてくれないから「やらせる」みたいな通知を出したとか。
強制とチェック。その手法は「教員として」は最低のやり方ですな。

幸せってなんだっけ

かつて
「幸せーってなんだっけなんだっけ
ポン酢しょうゆのあるうちさ」
というコマーシャルがありました。
この「あるうち」の解釈をめぐって論争が一部でありました。つまり「ある家(うち)」なのか「ある間(うち)」なのかってことです。まぁ、関西圏だけかもしれませんが…。
でも、最近あらためて「幸せってなんだろう」「幸せをもたらすものってなんだろう」「幸せってどうやればできるんだろう」「人を幸せにすることって可能なんだろうか」。いろんなことを考えさせられました。

ポテサラサンドに見る具のあり方について一考察

今日は昼過ぎから、ずっと職場をウロウロしていました。なにがあるわけでもないのにウロウロ。でも、ウロウロしていると声をかけられて相談に乗ったり、突然「スポットライトがつかない」とか言われたり。はたまたやり残していた仕事に気づいたり、次の作業の段取りをしてみたり。座っているだけでは気づかないたくさんのことがあります。
座って気づくことと、ウロウロして気づくことです。
たぶん、傍から見たら何をしてるかわからない、というかヒマそうに見えるでしょうし、本人も何をしてるか分からないし、やった実感もありません。でも、どうやらなにかをしているみたいです。

こういう役割ってなんなのかなぁと思います。
例えば、板と板をぴったりあわせようとした時、板にささくれやザラツキがあるとぴったりあいません。そんな時、二つの方法があるように思います。ひとつは板の表面をきれいにやすりがけをする。もうひとつは不整合面に薄くパテみたいなものを塗って、ふたつをくっつきやすくする。
それぞれにメリットデメリットは、もちろんあります。そして、板の場合はその用途に応じた方法をとればいい。
じゃ、行事なんかの時はどうするか。二つの主張の不整合面、あるいは運営上の不整合面、さらには施設上の不整合面。たぶん、さまざまな不整合面がありうる。それらの不整合面をうまくつなげるためにはどうするか。
もちろんサンダーで削ったほうがきれいになるのはわかっています。でも、それはものごとの本質を変えることで整合させているような気がしてならないのです。できるならわたしは「パテ」でありたいなぁと思うのです。

と思った時…。
ポテサラサンドのポテサラは、はたして主役なのか脇役なのか?もしかしたら、ふたつのパンを整合させるためにポテサラは存在しているのか?とすると、ポテサラサンドの主役はパン?だからポテサラは、パンとパンをつなぐために薄く塗ればいい?
そういえば、コンビニのポテサラサンドのポテサラは薄いです。それがじつは正しい?釈然としないけど^^;;。
ま、わたしはオープンサンドが好きなので関係ないですけどね^^;;。

「バランス」ではダメなんだろうな

夜はいつものようにテレビっ子です。
月曜日は…。「プロフェッショナル」ですねぇ、なぜか。
にしても、「プロフェッショナル」って、なんとなくジェンダー臭が漂うんですよね。って考えると「プロジェクトX」もそうでした。
これ、はたしてNHKの問題なのかなぁ…。
もちろん「そういう題材」を「そういうとりあげ方」をするのはNHKの問題ではあるんだと思います。でも、そもそもこの国では「賃労働」そのものがジェンダー化されているのかなぁという気がしました。「プロフェッショナル」たちの働き方のワークライフバランスを欠いたこと(笑)。
もちろん「ワークライフバランスなんて考えてたら道は極められないんだよ!」って話はあるでしょうね。でも、「ワークライフバランスのプロフェッショナル」はプロフェッショナルとして認定されない。
なんだろ…。
どこかでなにか違った方向へ向かってしまったんじゃないかなぁと思いながらも、つい見てしまう番組なんですよね^^;;。
困ったものだ…。

「人生」と「人生訓」

夜、テレビをつけると美輪明宏黒柳徹子が並んでいます。すごいペアです。思わず見ちゃいました。
でも、見ながら、妙な違和感が…。
まぁ番組のつくりがそうだと言われたらそれまでなんですけど、若い(たぶん)人から見たら、美輪明宏って「教祖様」みたいな感じなのかなぁと思ってしまいました。
たしかに、美輪さんにしろ黒柳さんにしろ、それぞれの経験に基づいて語られる一言一言には「力」があります。その「力」に、ふと引き込まれそうになる自分がいることは確かです。
でも、
「ちょっと待てよ」
と思う自分がいることも確かです。なぜそんなことを感じるんだろう。あぁそうか…。20歳の若者とわたしの年齢差よりも、わたしと美輪さんの年齢差のほうが小さいんだ。
たぶん美輪さんが教祖になろうと思っているのではなく、美輪さんを知った「若い人」が美輪さんを教祖にしているんだ。というか、「教祖としての美輪さん」を必要としているんだ。
わたしはあの番組の前半にすごく魅力を感じました。なぜなら、美輪さんがご自分の「人生」を語られていたからです。いろんなことを考えさせられました。でも、後半はあまりおもしろくなかった。それは「人生訓」が語られているように感じたからなんです。でも、たぶん、「教祖としての美輪さん」を必要とする人は美輪さんが語る「人生訓」に魅力を感じるのかな。なぜなら、そのものズバリの言葉で教えてもらえるから。
そんなことをふと考えました。
美輪さん、途中で
「得るものがあれば失うものがある。だから今はじっとしてる」
って言っておられました。
なるほど…。

あー!なーつやすみ(^^)!

今日は最終おべんきょです。なので、終わってからセンセにも来てもらって打ち上げをしようと。
てことで、おべんきょの時間の前に買い出しです。
買い出しから帰る道すがら、おべんきょ仲間が
「いつきさん!このブルース、たまらんっす!」
とか言って、ビールの入った段ボールの上にスマホをおいて、ブルース聞きながら歩いていたんですけど…。
あー、おべんきょしてるんだなぁo(^^)o。たまらない気持ちになりました。
ちなみにおべんきょ仲間は
「2013年のおべんきょ風景ではないですね」
とか言ってましたけど(笑)。