器用さと不器用さ

はたしてわたしという人間は器用なんだろうか不器用なんだろうか。
たぶん「そら器用やろ」と言われてしまいそうなんですが、たぶん一概にはそうは言えないかも…。
たしかに器用なんですが、そして器用だからなんとかやってられるんですが、その「なんとか」ってなってしまうのは不器用だからなんじゃないかと。
例えば、AとBがあって、選択を迫られる。器用な人はどちらかを選択できる。もしかしたらその選択の根拠もきちんも説明できるかもしれない。あるいは、説明できないまでも、「選択した事実」そのものが態度表明でもあるし、それをまって説明とすることも可能です。
でも、選択はわたしにとってとても苦手なことなんです。選択しない方法はふたつあって、ふたつともとるか、ふたつとも捨てるか。でも、後者はたいていの場合「ふたつとも捨てる」ことの説明を必要とする。わたしはこれをする器用さがない。なので、「ふたつともとる」という選択肢しか残されていない。で、「なぜふたつともとるのか」という説明を求められたら、説明する器用さを持ちあわせていないので、沈黙と笑顔でごまかす(笑)。でもそれでは納得してもらえない。なので、「ふたつともとっても大丈夫」ということを現実にやりきるという「行為」で説明しようとする。
問題は、この「行為」をする器用さを持ちあわせていることです。なので、とりあえず納得してくれるんだけど、根本的な解決にはなっていない。単に解決を先送りにしているだけなんですよね。で、いずれ破綻する。
これ、たぶん不器用なんだと思うんですけどねぇ…。

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