先日、id:Yasuda_Naotoさんが書いてくださったコメントなんですが…。
「当事者」を属性ではなく、関係性だけで考える。
…というのが、分かりやすいなあ。私は。
ふわーっとして良くないですか?
という話です。
たしかに、「属性」は本質的に存在するものではなく、「関係性」の中で相対的にあるものだと思います。そこのところを無視して「属性」を「本質的に備わるもの」≒「絶対的なもの」と考えると無理が生じます。その無理に無自覚なまま考えを進めていくことは、「外部」に対しては「立場の絶対性」を引き起こし、「内部」に対しては「排他性」を引き起こすのではなかと思います。
前者については、やはりこのあたりを出さざるを得ないかなと思います。
で、後者については、前に書いたこのあたりの話とつながるでしょうか。結局、「内部」での「違い」をよりどころにして自らを「純化」すると同時に、他者を切り捨てていくことにつながっていくように思われてなりません。
結局は、「当事者」とは誰か?ということなんでしょうね。それを「属性」で考えずに「関係性」≒「相対化」で考えていくということになるのでしょうか。
となると、まさに自らのことをあらわすためには「ひとつの言葉」では不可能で、自分と他者とのかかわりや自分と社会とのかかわり、自分と自分史のかかわりをたんねんに語る必要が出てくる。というか、そうしないと「自分」をあらわすことができなくなる。そして、そのことによって「雑多な自分」というか、ひとつの言葉であらわしきれなかった「あまりの部分としての自分」をあらわすことに近づいていく。
それを互いに重ねあわせていくことが、「関係性」を深める作業になる。
のかな?
これ、アイデンティティの問題としては、極めて正しいと思うんですよね。ところが、どうやらそれだけではすまない問題が一方である。それが、関係性の中に潜む権力関係なんだと思うのです*1。
ここで、マイノリティvsマジョリティという「関係性」というよりも「対立」の構図が出てくる。そして、マイノリティがマイノリティであるゆえんを「属性」に「帰属」させていく。
個人的には、ジレンマなんですよ。でも、そのジレンマを乗り越えるのではなく、バランスをとることで「属性」に依拠しない、「関係性」をつむぐ営みをしていきたいとは思っています。
あぁ、竜頭蛇尾だorz