「当事者外」の存在

「交流会」をやる時に、ピアで固めるのか、そうしないのか。
わたしのギョーカイの伝統的には、ピアで固めるという作風がつよいんじゃないかな。
例えば、朝鮮人の子どもたちのみを集めて、そこで話をする。それ、すごく大切だと思います。そして、かつてわたしもそのことを強く主張をしてきました。
でも最近、「そうではない方法」へと、わたし自身は移行しています。
ひとつは、「当事者外」の存在は邪魔ではないということ。逆に、「当事者外」の存在にはピアサポートでは得られないメリットがあるということ。だって、「世間」は「当事者外」によって構成をされているんだから。理解ある「当事者外」と一緒に生きられなくて、どうやって理解ない「当事者外」に囲まれて生きていくのかという認識かな。
もうひとつは、「当事者性はひとつに限定されない」ということ。このことは、「当事者外」という存在そのものを否定すると思います。まぁ言ってみれば、誰もが「当事者」であるということになるでしょうか。大切なのは、それぞれがもつ「当事者性」をどう重ねていくかということが大切なんじゃないかなぁと思うのです。その中で、「この場ではこれをメインに据えて話をしていこう」という合意をつくっていく。それはある時は部落問題であり、ある時は在日外国人問題であり、ある時はセクシュアリティの問題である。

などと書いていたら、だんだんゴチャゴチャしてきたな…。

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