会議の極意

朝、再び水くみ。だって、おいしい水でコーヒーを飲みたいです。ついでにポテトサラダをつくって、音楽を聴きながらゆっくり新聞を読む。みんながなかなか起きてこないので、久しぶりのゆっくりした朝です。
今日は午後から、某キリスト教系の人権教育関係の会議です。
ところが、蓋を開けると集まったのはたった3人。1時からの開始時間ですからみんな昼ご飯はまだ。結局「みんなでごはんを食べながら会議をしようか」ということになりました。で、京都駅近くの定食屋兼居酒屋に行って、会議。もちろん、わたしは軽く(?)呑みますけどね。
でも、ふだんは「あーだ、こーだ」となかなか話が決まらないのに、ものすごいペースで話が決まっていきます。そうか…。人数が少ないことと石橋をたたかないこと(笑)が、これほど決定的だったのか…。4時頃には昼ご飯(笑)も終わって突如決めた某所に打ちあわせ・仮予約までしてしまいました。
大きくことが進んだことで、みんな大満足。そして、夜は家に帰れて、これまた大満足(わたしだけ?)。よかったよかった。

自分の身を守るために

夜、パートナーと下の子どもが風邪のために医者に行ったので、上の子どもと二人でごはん。
今日のごはんは鍋。てか、こないだ鍋にしたらおいしかったからか、それともその時の野菜があまっていたからかわかりませんが、鍋が続いています。まぁ、おいしいし、あったまるからいいけどね。
ごはんの最中の話題は、昨日から今日にかけての社会の動きとか、今後予想される社会の動きとか。そんな話と自分の未来を重ねあわせて、上の子、かな〜り「将来は暗い」という感覚を持ったみたいです。で、わたしからの提言。

とりあえず、「いま」がそういう時だということを認識すること。そこから自分がなにができるのかを考えること。そこから道は開ける。もしもそれをしなければ、時代の中に巻き込まれていく。だから、まず認識することからはじめよう。

てことで、夕食後は数学の勉強(笑)。
去年はダメダメだった「三角形の合同の証明」がそれなりにできるようになっていて、ちょっと安心。

で、衆院も

通ったよ…。
なにより怖いのは、このことが職員室で話題にならないこと。
かつてだったら、ラジオなりテレビなりが鳴っていて、刻一刻と情勢を追う人もいただろうに、いまはみんな淡々と仕事をしています。もしかしたら、ネットで情勢を追う人もいないんじゃないでしょうか。
なんでこんなことになったんだろう…。
とりあえず、放課後、会う人ごとに「通っちまったよ」と声をかけました。

無力さ…

大学の頃から感じていました。時代のどうしようも流れの中で、はたして自分一人でなにができるんだろうという無力感。そんな思いをますます強くする今日の出来事でした。
いや、実はぜんぜん知らなかったんですよ。のんびりと子ども達といっしょにテレビを見ていて、「あ、津波警報や」としか知らなかったんです。さらにその後、「へ〜、松阪は60億円かぁ」とのんきに構えてました。と同時に、トップに来ないんだから、強行採決はなかったんだろうと思っていたのです。ところが、ネットニュースを見たら、すでに通っていた…。
先の衆議院選挙の結果が出た翌日に日記に書いたことが、いま現実のこととして展開されていることを、ひしひしと感じます。
学力低下少子高齢化・教育の荒廃・不景気etc…。すべてを「誰か」のせいにして、「誰か」をたたくことでよしとしてきた勢いは、とうとうそれらを含めすべてを「法律」のせいにして、「法律」を変えるところまで来ました。
いや、人のせいにするのはやめないといけないですね。少なくとも、わたしは。
後々、子どもたちから「あのとき、父ちゃんはなにもしなかったの?」と言われた時、「これくらいのことしかできなかったけど、それでもやった」と言える程度のことはしないといけないかなと思います。そして、それでもこの国に住むならば、「非国民」という称号を胸に生きていくしかないかとも思います。それが、残された「ひとりでもできる闘い」かもしれないです。

言ったからなにかあるの?

最近、校長さんの自殺が相次いでいますね。なんか暗澹たる気分になります。
ちょっと前までは「先生なんてぜったいするのイヤ!」とか言っている生徒に「まぁ、教員という仕事も悪くはないよ」と話していたんですけど、最近は「まぁ、よほどしたいんならとめないけど、やめたほうがいいんじゃない」という気分です。現役の教員がそんなことを言いたくなるような世の中ですから、そういう感じなんでしょうね。
で、「言ったから」っていうのは、「報告」にかかわる話です。
「できたこと」の報告をするのは、別にたいしたことじゃないです。もっとも、「できたこと」ばっかり報告するのは変だなぁと勘ぐられるかもしれませんが、それはまぁおいといて…。問題は「できなかったこと」の報告です。これ、しにくいですよね。でも、もしもきちんと相談できる人間関係があって、適当なアドバイスがもらえるなら、案外「できなかったこと」も報告しやすいのかもしません。
じゃぁ、イジメの話。
仮に、「ウチの学校でイジメがあります」という報告を、教育委員会にしたとしましょう。すると、教育委員会はどう動くか…。まずは「いじめられている子どもを守りなさい」とか「家庭訪問などにより、親の理解を得られるように、きちんと対処せよ」という話でしょうか。あとは「いじめている子どもの心の内面に迫れるように指導をせよ」という話でしょうか。
いや、こんなことは現場はやっているわけです。なんのアドバイスにもなっていないです。
で、さらに「より詳細な報告をあげよ」とかいう話が出てくる可能性もあります。これ、ほとんど意味がないし、逆に仕事の増量なわけです。そんな報告書をまとめているヒマがあったら、現場としては、生徒と話し込まなくちゃならないわけです。
となると、教育委員会に報告するメリットってなにもないです。
さらに、そのことが勤務評定とかかわってくるとすれば、デメリットの方が大きくなる。となると、だれが報告なんてするんでしょうか?
で、もしもなにか起こったとしても、結局頭を下げるのは現場*1です。教育委員会は責任をとってくれるわけじゃないです。ましてや、文部科学省が責任をとるかというと、んなわけがない。逆に、「指導」を強めるだけですわ。
となると、だれが「どこかに報告をしよう」と思うかということです。で、なにもなく穏便に過ぎたらそれでOKなわけです。だって、何かおこったとしたら、どうせ責任をとらなくちゃならないのは現場ですから。

もしも、報告をあげた時に、例えば至急にスクールカウンセラーを派遣する。あるいは、教員の増員をする。さらには、なんらかの予算措置をして、その事態に直接かかわっている教員の授業時数を軽減するなどの処置が執れるようにするという、具体的な支援をしてくれるならば、報告をあげる意味があります。んなもんないのに、逆に「なんでやねん」と責められるならば、ねぇ…。

「話をしない」人に対して「なぜ話をしない!」と怒るんじゃなくて、「なぜ話してくれないか」とその問いを自分に向けるような考え方をすることが大切だと思うし、それが教育にかかわる人間の発想だと思うんだけどなぁ。

*1:含む、校長

ないしょの箱

いまさらなんですが…。わたし話をする時に、いつでも「心の中につくった秘密の小箱」の話をします。ところが、前に「箱のこと、「心のノート」にあるよ」と言われたことがあって、気になっていました。調べてみると、石坂啓の文章で

低学年用のこのテキストの中に「ないしょの箱」というページがある。「あなたの心の中にないしょの箱はありますか」とくるので、もちろんないしょはあるだろうと思って見ていたが、前後の脈絡から見るとどうやらこれは「大人に対して秘密があってはいけないよ」というニュアンスらしいのだ。

というのがありました。
ちょっと反省。
なにが反省かというと、「箱」の話をする時に、きちんと最後まで言い切っていなかったなぁということなんです。
なぜわたしが「箱」の話をするかというと、ほとんど誰でも「箱」を持っているだろうなと思うからなんです。で、そんな箱があることすら忘れてしまうような生活を強いられている。でも、「その箱をもう一回見つめてみようよ」ということなんです。
それと、「箱の中身を見せあいっこしよう」と最後にくくります。もちろん「いやじゃ!」という人がいるのは当たり前。それはそれでいいんですよ。あれ、「見せたくても見せられない」という状況の人へ向けてのメッセージなんです。だから「語*れる*社会」なんですよね。
「語らなきゃならない社会」はとんでもないです。ただ、語りたいと思った時にそれが語れない社会は問題だと思うし、それをどう変えていくかということがわたしにとってのテーマです。
てことで、こりゃ言い訳だな(笑)。

履修のことなぁ…

個人的には、しゃーないんとちゃうの、という感じ。たしかに、必修科目を履修していないのはルール違反だけど、実際問題として、今の学習指導要領はひどすぎ…。あちこちで取りざたされていますが、小・中でやることがメチャクチャ少なくなって、大学の要求水準が変わっていないから、歪みが全部高校に来ます。で、学校現場はというと、自由化の波が来て「いい」生徒*1を集めないと生き残れない*2ということで、入試にあわさざるを得ない。となると、一番歪みが来るのは、一番「めんどくさい」教科ですわ。その結果があれかな。
でもまぁ、今回の話の対象になっているところって、基本的に未来のプチエリートを育てる学校だから、結局同情とかも集まるし、なんとかなるんとちゃいますか(笑)。

*1:ってなんやねんと思うけどね

*2:と思ってるだけだけだと思う。あまりにもミクロな考え方をしていると思うけどなぁ…

難関とはね…

あとひとつやらなきゃならないのは、人権学習の教材づくり。
前にも書きましたが、教材なんていうのは、基本的には「自分の伝えたい内容を、自分のやりたい手法で」やるための補助になるものだと思うんです。なので、他の人のつくった教材を使うことは至難の業だし、他の人が使いやすいようにつくるのもまた、至難の業です。
でも、やらなきゃならんので、しゃーないです。
で、どんな分野かというと、これが「結婚差別」なんですよね(笑)。
かつての自分だったら、「差別を乗り越えた結婚マンセー」みたいなテイストになっただろうと思うわけです。でも、今はぜんぜん違う切り口にしないといけないと思っています。やっぱり、まずは結婚制度そのものを問うことと、多様なパートナーシップのありようについて考えるところからスタートしなきゃならないと思っています。ましてや、導入で「あなたが結婚するとしたら〜」みたいな問いを発するなんていうのは、ぜったいやりたくありません。
ところが、ここで問題なのは、そういうわたし自身の考えとか思いを、担任さんと共有できるかどうかなんですよね。なによりも、ヘテロマッチョな考え方の人も担任さんの中にはいる可能性があるわけで、そういう人がわたしのつくった教材で「上辺だけ」なでてもあかんやろうと思うわけです。でも、そういう人にも使ってもらえる教材をつくらなくちゃならない。まぁジレンマですね。繰り返して言うけど、自分のためにつくるなら、なんぼでもできるんだけどなぁ…。
来週にはあげないといけないんだけど、どうしたもんかなぁ…。

そんなことより…

大阪市が決めたそうな。
これ、人員削減のための体のいい理由づけのような気がします。てか、ずっと「切り捨てる」ための理由を待っていたというほうが正しいのかも。
前にも書いたけど、なんで「あの人達だけ手厚いのはおかしい。だからやめろ」になるのかわからない。逆に「あの人達だけ手厚いのはおかしい。だから、うちらにも同じような施策をしろ」にならないのかなぁ。その結果、たとえば、加配とかの人員がムラから減って、他の「しんどい」ところにまわっても、それはしかたがないと思います。逆に、ムラでやってきたさまざまなノウハウが、他の「しんどい」ところにフィードバックされるなら、それはそれでええことやと思います。
でも、人員をカットして、予算が助かってとなると、最終的に「しんどいところ」の教育の質が下がるというのは、もう、火を見るより明らか。
でも、まぁ、いいんだろうね。大阪市を切り盛りしている人達も、バッシングをしている人達も、さらには政府にいる人達も、確信犯はそんな話は自分の生活には関係ないものね。そんな人達は、「バウチャー制」が導入されたら、たぶん自分にとっては有利に働くんじゃないかな。
もっとも、踊らされている人達は、「最後には自分にツケがまわってくるかもしれない」っていうことに気がついているんだろうか…。

ちょっとイライラ

連休の中日だというのに、朝からなんとなくイライラしていました。
なんというか…。「頼む人」って「これやっておいて」の一言なんですよね。ところが、それをこなす人は、それを実行するためにそうとうな時間を費やしなくちゃならない。しかも、わたし一人ですまないので、わたしから他の人へと仕事を振る場合は、他の人への依頼の重荷を背負うのはわたしだったりします。で、他の人に何かを頼んだら、当然その人からものを頼まれた時にはそれにこたえなくちゃならない。
ところがですね、最初に「頼んだ人」はそんなことがおこっているかどうかは気がつかない人がほとんどなんですよね。で、結果だけをもらって「ありがとう」の一言でおしまい。
そんなことが、ずいぶん長い間につもり積もっていて、たまに「もう、ええかげんにして!」と爆発することがあります。
ところが、「頼んだ人」は「なんでこんなことぐらいで…」と思うらしい。仕事というのは、微分的(瞬間の増加量)・積分的(たまりたまった量)の両方なんですよ。特に後者については、「頼んだ人」にはわからない。でも、「頼まれた人」にはものすごい重荷だったりします。
はぁ…。