学校に行く道すがら、バイクに乗りながら考えていました。
バイクに乗る時、わたしは「死ぬかもしれない」と思いながら乗っています。では、車に乗る時…。「殺すかもしれない」と思いながら乗っています。自転車に乗る時は…。「殺されるかもしれない」と思いながら乗っています。
車は、「強者」の論理かなと思います。自転車は「弱者」の論理かなと思います。
自転車に乗っている時は、「殺されるかもしれない」と思いながらも、どこかで「守られている」というふうに思うことがあります。だから、無茶ができてしまう。でも、守ってくれるのは「強者」である「車」です。
「強者」である「車」に乗っている時、「殺すかもしれない」よりも優先する価値観、例えば「急いでいる」という価値観が優先した時、必要以上にアクセルを踏み、「殺すかもしれない」という思いは、どこかに忘れ去られてしまいます。その時、はたして「弱者」である「自転車」を「守る」ことはできるでしょうか。答えは、言うまでもなく「No」です。
「自転車」が「守ってくれるかもしれない」と考える相手は、「車」です。すなわち、「弱者」の立場になってしまうと、「強者」におもねるしかできなくなってしまいます。
バイクに乗る時、「死ぬかもしれない」と思いながら、わたしは同時に「殺すかもしれない」と思います。そして、自分の身を守るには、自分が注意深く走り続けるしかありません。「急いでいる」という時にも、「死ぬかもしれない」という思いを吹っ切ることができません。その思いは「殺すかもしれない」という思いと、常に同居してくれます。
バイクは、「強者」にも「弱者」にもなり得ます。その微妙なバランスの上に、バイクのライディングがあると思います。
日: 2005年9月12日
予想通りの…
しかし、ここまでとはねぇ…。
思わず今日の授業で演説をぶってしまいました。
大人達の一部を代表して、まず諸君に謝らなくちゃならないことがある。わたし達が君たちに残せたものは、戦争だけだった。昨日をもって、日本はいよいよ本格的に「戦前」になった。
今後、教育基本法改悪・憲法改悪などを通じて、「強者の論理」がまかり通る社会ができていく。だれもが「強者」になれるわけではない。「強者」は実は、一人しかいない。残りすべては、実は「弱者」である。しかし、そうした社会を求めたのは、実はわたしたちだった。
なぜか?わたしたちはヒーローを求めてしまった。そして、合法的に選ばれた「ヒーロー」を生み出してしまった。これは、かつてドイツがワイマール憲法下で歩んだ道と同じである。
わたしは、いずれあと20年、30年後には死んでしまう。死なないまでも、すでに戦争は行かない年齢になっているだろう。しかし、戦争に行くことになるのは諸君である。そして、その後に続くのは、わたしの上の中2の子どもであり、下の小2の子どもである。だからこそ、いま、話さなくてはならない。
わたしたちが生き残る可能性は、それでもまだある。諸君の中の大部分は、やがて選挙権を持つ。ちなみに、少数でははあるけど、在日外国人の人がこの中にいるかもしれない。残念ながら、在日外国人の人たちは選挙権がない。わたしたちは在日外国人の人々を巻き添えにしていることを、たいへん申し訳なく思う。だからこそ、諸君が選挙権を行使できるようになった時は、ぜひとも「やさしい」選択をしてほしい。無関心になることもなく、皮肉なものの見方をすることもなく、ヒーローにまかせるのでもなく、現実にきちんと向きあってほしい。
かつて、こういう話を諸君にしようと思ったことは、何度もあった。でも、話さなかった。なぜか。「聞いてくれない人」がいることに絶望し、だんだん話さなくなったからだ。でも、それはまちがっていた。教室の中にたった一人でも聞いてくれる人がいるならば、その人に向かって話すべきだった。そのことを怠ってきたことが、今、この時代を迎えることになってしまった。
もしも、諸君が4年後、国の行き先を選択する権利ができた時、今日のこの話を、ほんの少しでいいから思い出してくれるとうれしい。じゃぁ、授業に入ります。