温故知新の続き

12月16日の日記で引用した文章の続きがわかりました。
やすいちさんから教えてもらったもう一冊の本をようやく見つけました。

今度は、だれもが反対できない民主主義という一番美しい名まえを借りて、こうするのがみんなのためだと言って、人々をあやつろうとするだろう。弁舌でおだてたり、金力で誘惑したり、世の中をわざと混乱におとしいれ、その混乱に乗してじょうずに宣伝したり、手を変え、品を変えて、自分の野望をなんとか物にしようとするものが出て来ないとは限らない。そういう野望を打ち破るにはどうしたらいいであろうか。

の続きです。
とりあえず、長くなりますが引用します。

それを打ち破る方法は、ただ一つある。それは、国民のみんなが政治的に賢明になることである。人に言われて、その通りに動くのではなく、自分の判断で、正しいものと正しくないものとをかみ分けることができるようになることである。民主主義は「国民のための政治」であるが、何が、「国民のための政治」であるかを自分で判断できないようでは民主国家の国民とはいわれない。国民の一人ひとりが自分で考え、自分たちの意志で物事を決めて行く。
(中略)
だから、民主主義は独裁主義の正反対であるが、しかし、民主主義にも決して権威がないわけではない。ただ、民主主義では、権威は、賢明で自主的に行動する国民の側にある。それは、下から上への権威である。それは被政治者の承認による政治である。そこでは、すべての政治の機能が、社会を構成するすべての人々の意見に基づき、すべての人々の利益のために合理的に行われる。政治の上では、万事の調子が、「なんじ臣民」から「われら国民」に変わる。国民は、自由に選ばれた代表者を通して、国民自らを支配する。
(中略)
もちろん理論だけから言うと、独裁者や「情深い支配者」がその国民に対して、公共の福祉にかなった政治をするということは、ありうることであろう。しかし、独裁主義の制度の中に国民のための政治の保障を求めることは、常に失敗に終わったし、また、いつの時代にも必ずまちがいである。歴史の教えるところによれば、一部の者に政治上の権威の独占を許せば、その結果は必ず独裁主義になるし、独裁主義になると戦争になりやすい。だから、国民のための政治を実現するためのただ一つの確実な道は、政治を国民の政治たらしめ、国民による政治を行うことである。
(中略)
全体主義の特色は、個人よりも国家を重んずる点にある。世の中で一番貴いものは、強大な国家であり、個人は国家を強大ならしめるための手段であるとみる。国際車はそのために必要とあれば、個人を犠牲にしてもかまわないと考える。もっとも、そう言っただけでは、国民が忠実に働かないといけないから、独裁者といわれる人々は、国家さえ強くなれば、すぐに国民の生活も高まるようになると約束する。あとでこの約束が守れなくなっても、言い訳はいくらでもできる。もう少しのしんぼうだ。もう5年、いや、もう10年がまんすれば、万事うまく行く、などと言う。それもむずかしければ、現在の国民は、子孫の繁栄にために犠牲にならなけれなばらないと言う。その間にも、独裁者達の権力欲は際限もなく広がっていく。やがて、祖国を列国の包囲から守れとか、もっと生命線をひろげなければならない、とか言って、いよいよ戦争をするようになる。過去の日本でも、すべてがそういう調子で、一部の権力者達の考えているとおりに運んで行った。
つまり、全体主義は、国家が栄えるにつれて国民が栄えるという。そうして、戦争という大ばくちを打って、元も子もなくしてしまう。
これに反して、民主主義は、国民が栄えるにつれて国家も栄えるという考え方の上に立つ。民主主義は、消して個人を無視したり、軽んじたりしない。それは、個人の価値と尊厳とに対する深い尊敬をその根本としている。すべての個人が、その持っている最もよいものを、のびのびと発展させる平等の機会を与えられるにつれて、国民の全体としての知識も道徳も高まり、経済も盛んになり、その結果として必ず国家も栄える。つまるところ、国家の繁栄は主として国民の人間としての強さと高さとによってもたらされるのである。
(後略)

この箇所、Yちゃんと待ち合わせている四条河原町の角で座って読んでいたのですが、思わず泣きかけましたよ。
『民主主義』というのは、上巻と下巻にわかれていて、現在出ている本はその合本です。全部で379ページに及ぶ本ですが、これを1948年から1953年まで中学校・高校の社会科の教科書として使っていたんです。
なぜ1953年以降、この教科書が使われなくなったか。
まさに、それは日本の政治が大きく舵取りをする中で、邪魔になったからなんだと思います。1950年にできた警察予備隊は、1952年に保安隊になり、1954年に防衛庁自衛隊ができます。1952年には破防法も公布されています。そういう時期に、この教科書は使われなくなったんだということです。
すでに遅いのか、それともまだ間にあうのか。日本がさらに大きく舵取りをしている今、でも、小さな一歩からその舵を逆のほうに切っていきはじめないといけなんだと、あらためて感じます。

数学の授業で…

もちろん、冬休みですから、授業はありません。
単に、数学の授業をしながら、自分は何を伝えているのかなぁとボンヤリ振り返っているだけのことです。
現行のカリキュラムって、前後のつながりとかすごく少なくしてあるんです。たぶん、「一ヶ所つまずいても、他のところに影響を及ぼさないように」という配慮なんでしょうが、あきませんね。んなことやっていたら。
結局、すべての公式なり規則なりが「天から降ってきた」みたいな感じが出てしまうんです。やっぱり、「あのときあそこでやったことが、当時は「なんじゃ?」と思ったのに、ここで出てきたか」みたいな、そういうのがないと面白くないんです。
あと、演算の基礎みたいなものが、すごく脆弱な感じもします。例えば、足し算とかけ算の違いとか…。そのあたりをきちんと教え、定着させていないから、「2x=1」を解いたら「x=-1」なんていう答を出したり「x^3+2x^2+x」を因数分解したら「x(x^2+2x)」とかいう答を出したりするようになるんです。
特に後者はすごく多いですね。これ、係数で省略できるものが「1」であるということが、いまひとつわかっていないんです。あるいは、前者についていうならば、四則演算の記号で省略できるのが「×」であるということが、いまひとつわかっていないんです。
おそらく、「単位元*1」が演算によって異なるなんていう話をしていないわけですわ。だから「逆元*2」についても触れていない。だから、「移項」というのが、単にテクニックになってしまう*3
もちろん、実際の教科指導では、単純にテクニックでいいと思うんだけど、でも、どこかでこういうことに触れておかないと、すべてが「天から降ってきたテクニック」になりかねないと思うんです。
だから、最近は折にふれてこういう話をします。
そして、結論は

でもね、いいかい。
省略するのは簡単なんだ。大切なのは、省略されているものを見つけること。
いいかい。
語られていることだけを追っかけるのは簡単なんだ。でも、語られていないこと、隠されていることを見つけ、その言葉に耳を傾けることが大切なんだ。
そのためは、いつも耳を澄ましていること、アンテナを張りつづけていること。
いいかい?

しかし、こんな教科指導してていいのかなぁ(笑)。

*1:Aと演算した結果がAになる、みたいな。

*2:Aと演算した結果が単位元になる、みたいな。

*3:実際には、逆元を演算することで移項を実現しているんですよね。

非国民にとっての教育基本法

今日、公布&施行ですか。
ここ*1にもあったように、この日を心に刻んで、許さないことは許さない生き方をしなくちゃと思います。振り返ってみると、この1年の「時代」の流れは、わたしが忘れていたことを思い出させてくれた1年、わたしがわたしをとりもどした1年でもありました。
そういう意味で、感謝をします。ありがとう。

*1:最近、id:kaikai00さんのブログをずっと読ませていていただいています。ありがとうございます。

温故知新…

その後、家に帰ったら一通の封筒が来ていました。そこに、ある本のコピーが入っていました。それを転載します。

人間社会の文化の程度が低い時代には、支配者達はその動機を少しも隠そうとしなかった。部落の酋長や専制時代の国王は、もっと強大な権力を得、もっと大規模な掠奪をしたいという簡単明白な理由から、露骨にかれらの人民達を酷使したり、戦争にかり立てたりした。ところが、文明が向上し、人知が発達して来るにつれて、専制主義や独裁主義のやり方もだんだんとじょうずになって来る。独裁者達は、かれらの貪欲な、傲慢な動機を露骨に示さないで、それを道徳だの、国家の名誉だの、民族の繁栄だのというよそ行きの着物で飾るほうが、いっそう都合がよいし、効果も上げるということを発見した。帝国の栄光を守るというような美名の下に、人々は服従し、馬車うまのように働き、一命を投げ出して戦った。しかし、それはいったいなんのためだったろう。かれらは、独裁者の野望にあやつられているとは知らないで、そうすることが義務だと考え、そうして死んで行ったのである。
現にそういうふうにして日本も無謀極まる戦争を始め、その戦争は最も悲惨な敗北に終わり、国民のすべてが独裁政治によってもたらされた塗炭の苦しみを骨身にしみて味わった。これからの日本では、そういうことは二度と再び起こらないと思うかもしれない。しかし、そう言って安心していることはできない。独裁主義は、民主化されたはずの今後の日本にも、いつ、どこから忍びこんで来るかわからないのである。独裁政治を利用とする者は、今度はまたやり方を変えて、もっとじょうずになるだろう。今度は、だれもが反対できない民主主義という一番美しい名まえを借りて、こうするのがみんなのためだと言って、人々をあやつろうとするだろう。弁舌でおだてたり、金力で誘惑したり、世の中をわざと混乱におとしいれ、その混乱に乗してじょうずに宣伝したり、手を変え、品を変えて、自分の野望をなんとか物にしようとするものが出て来ないとは限らない。そういう野望を打ち破るにはどうしたらいいであろうか。

さて、ここで問題です。この文章の出典はなんでしょう?

実は奥付によると、

文部省著作教科書『民主主義 上』
1948年10月30日文部省検定済
著作権所有 著作兼発行者文部省
発行所 教育図書株式会社

となっています。
戦争体験から学んだ文部省は、次の世代のファシズムをこのように予測をしていたということです。そして、時代はその通りになっています。
でも、その歴史を、いまならばまだ変えられるかもしれない。その望みが残っている間になんとかしなくちゃ…。

レクイエム

本当にここまで来た。あっという間だった。心の底から「怒り」がわきあがってくる。
「怒り」は国会の「中の人」に向かうだけじゃない。マスコミにも向かう。
この間のマスコミの教基法にかかわる報道は、国会内部の「与党と野党の攻防」にのみ矮小化されていた。でも、ほんとうに攻防をしていたのは、国会の外側にいる何万の人間と「中の人」の日常感覚の対立にあった。しかし、そのことは一切報道されなかった。おそらく、教基法は「ニュースとして無価値」という判断をしていたんだろう。そして、価値のある報道は松坂のことだったりしたんだろう。それが報道のあり方であるとするならば、日本のマスコミはその程度のことということだ。
もっとも小さい声を拾い上げることが「人権」だとわたしは考える。そのようなわたしの考えに基づくならば、いまのマスコミの報道は「人権」と真っ向から反する態度をとりつづけてきたと、わたしは考える。そして、それが今回の「改悪」を後押しする要因のうちのひとつになったと、わたしは考えている。
敗北感を抱きながら、渋谷に行った時、号外はまかれていなかった。スタンドに並ぶ新聞の一面は、いつもとかわらない内容でしかなかった。いじめの問題や教員の待遇の問題をはじめとして、これほどまでに「教育」に「関心」を持ちながら、その教育の基本にかかわる路線の変更にはまったく関心がない。これが、この国の教育に対する姿勢であるとするならば、すでに、この国の教育はその終焉を迎えているとしか、わたしには考えられない。
2006年12月15日は、日本の教育の「死への行進」がはじまった、その大きな一歩の日として、いつの日か記憶されることだと思う。いや、この日が「過去のこと」として記憶されるその日を、一日も早くとりもどすための闘いが、今日からはじまった。

全同教・2日目・アピール採択

全同教では、全日程が終わったあと、アピールの採択をします。この文章、昼に配られたのですが、案の定、教基法のことにひとことも触れられていません。なんぼなんでもあかんやろうと思っていたのですが、他にもそう思う人はたくさんいたみたいで、「ひとこと話をしよう」というメールが回ってきました。
実は、金曜日の夜、京都でビラまきをしようという話があったのですが、「全同教に行くので参加できない。そのかわり、それぞれの場所でそれぞれのできることをしよう」というメールを返しておいたんです。てことは、ここはやるしかないです(笑)。
司会者がアピール文を読むと、会場から拍手が…。その時は、ここ以外にありません。
異議あり!」
マジで勇気いりますね。全同教の場においてすら。
「このアピール文には教基法についてひとことも触れられていない。いま、このとき、このようなアピール文でいいとは思えない。わたしは採択に同意できない。ぜひとも事務局に伝えてほしい」。
続いて、埼玉からも「同じ意見です」という声が。よかったよ、ひとりにならなくて…。
司会者から、「暫定的に採択と言うことで」というわけのわからない提起があって*1、とりあえず暫定的に採択されてアピールの採択終了。
あぁ、それにしても今回もいろいろかんでしまったよorz。
帰りの駅のホームで、埼玉の人から声をかけられました。「実は、埼玉の日教組教研の時、会場係だったんです」。どこにでも知りあいはいるんだなぁ…。

*1:実は、司会者は友達で、あらかじめ話をすることは伝えてあったし、司会者本人が一番腹を立てていたんです。はらわたが煮えくりかえる気分だっただろうと思います。

「つなぐ」ということ

でも、宇和島の人たちの話を聞きながら、「うらやましい」と思ってしまったのは、やっぱり「伝える」「つなぐ」ということについてなんですよね。「親から子へ、子から孫へ」というのがよく言われるのですが、セクマイのギョーカイではあり得ないことです。でも、そうした「つながり」から学ぶことはたくさんあります。
セクマイのギョーカイでは、そうした「つながり」を、血縁や地縁、あるいは民族とは別に、自覚的につくりだしていく必要があります。
部落や在日の場合、世代間で価値観の対立があったとしても、それを越える別の「つながり」というものをまだしもつくりやすいのかもしれないけど、セクマイの場合はそうはいかない。そこの対立は、決定的な対立になってしまいます。しかも、「前の世代を越える」という形だったらまだしも、「前の世代を否定」という形での対立になると、「つながり」というものがまったくなくなってしまう*1
でも、誰かが誰かとつなぐ役割を担わないといけないと思うのですよ。もしもその一端を担うことができるなら、やはりやらなきゃならんかなぁと思ってしまう今日この頃です…。
そうそう、特別報告のトリを努めたK口くんの話の最後の一文。「自分は部落民として生きることを「選んだ」。こんな自分をちょっぴり誇れる気がします」っていうの、すごくよかった!

*1:そういう意味では、やはり障碍者運動から学ぶべきところがたくさんあるのかなぁ。

外と中

中にいたら外のことがわからないことがたくさんあります。もちろん逆のこともまた言えるわけで。
例えば、それは学校。中のことは外からはわからないし、外のことも中からはわかりにくい。
例えば、それはギョーカイ*1。々
例えば、それは議会。たぶん、国会議事堂でのやりとりも同じなんだろうなぁ。国会をヒューマンチェーンで取り巻いても、その声は国会の中には届かない。国会の中で通用するのは、まわりを取り巻いている人たちにはわからない価値観とか力関係とか論理とかなんでしょうね。そして、どんどん数の横暴とそこへの妥協をする人たちによって勝手にことが決められていく。
1年ちょっと前の衆議院選挙の時の予感が、ほんとうにいま現実のことになっていく。

*1:なんの業界かはここでは言いませんけどね・笑

結局タニンゴトだよなぁ…

教育再生会議*1がいじめへの8項目の緊急提言をまとめたそうな。
曰く「いじめた側の子どもに対して、指導、懲戒の基準を明確にし、毅然とした対応をとる」とか、「傍観する行為をも許さない」とか、「過程や地域と一体となって解決にとりくむ」とか。
こんなん「いまさら」な話ばっかりですわ。いままでこんなことはさんざん言ってきたことです。てか、「いじめ」を「差別」に置き換えたら、言われる前にとりくんできました。こんなことを、いまさら「緊急提言」とか言われてもなぁ。
それと思ったこと。
なぜイジメが起こるかという根本的なところは放置して、表面上をなぞって「起きたことへの対応策」を強化することによって対応しようとしている。簡単に言えば「罰則規定」を強化して防止しようとしているということ。こんなことやっても、ひずみはどこかに出てきます。
なぜこんな提言が出てきたんだろう。
結局、みなさん直接かかわっていない人なんですよね。なので、傍観者的なわけです。
簡単に言うと、こういう感じ。

Aさん「いじめなんて、いじめるヤツが悪いんやんけ!」
Bさん「そやそや!」
Cさん「ほな、いじめたヤツには厳しい罰を与えたらええんとちゃうか?」
Bさん「そやそや!」
解決
Aさん「端で見ているヤツも同罪やで!」
Bさん「そやそや!」
Cさん「ほな、「端で見てたらアカン」て指導ささんとアカンで!」
Bさん「そやそや!」
解決
Aさん「だいたい、教師が悪い!放置するとか助長するなんてもってのほかや!」
全 員「そやそや!そんなヤツは処分したらええ!」
解決
Aさん「あとは、家庭や。もっと家庭がしっかりせんとあかん!」
全 員「そやそや!ほなそれも言うとこ!」
解決

まぁこんな感じじゃないですか?
イジメの構造が重層的だったり、立場が流動的だったりするなんていうことについての考察はどうやらなさそうです。誰かのせいにしたり、強制力を働かせたらそれで解決するわけで、その対象として唯一教師だけが「処分の対象」となります。また、こんなとき例えば「共働き」をすぐに問題にするんですが*2、共働きをしないと教育費はおろか、日々の暮らしもままならない経済の状況には言及せずに、簡単に「家庭の教育力」を求めます。そして、「いじめ←→いじめらる」という関係が、実は経済とか権力関係という形で、大人の社会にも存在し、自分たちもその網の目の中で生きているという観点。ましてや、自分たちが「いじめる側にいる(かもしれない)」という自分自身への洞察が決定的に欠如しているように思われてなりません。
常に「自分は足を踏んでいるかもしれない」という想像力を働かせるところからしか、実はイジメの克服・加差別の克服はないと、わたしは思っているんだけどなぁ。自分たちは永遠に「正義」で、まわりを「評価」しているようにしか思えない提言では、結局イジメを増長することにしかならないんだと思うんだけどなぁ。
まぁ、「美しい日本」っていうのは、そういう「正しさ」のまかり通る国なんだろうとは思いますけどね。こうやって「教育を再生」しようとしているのかと思うと、マジ、書いていてイヤになってきた。

*1:このネーミングもひどいなぁ。「結論ありき」だし。

*2:これ、問題にするのもなんだかなぁ。場合によっては、共働き家庭の子どもの方がはるかにしっかりしていたりすることもありますしね。