基準を「否定」におくのか、「肯定」におくのか

どうやら今日、特例法が「改正」されたらしいですね。結局、「現に子がいないこと」→「現に未成年の子がいないこと」になりました。
ふぅむ…。
とりあえず、まずは確認ね。
わたし個人は別に戸籍上の性別を変えようとは思っていません。また、特例法そのものに対して「悪法である」という意見を持っています。と同時に、特例法の適用を受けようとする人を否定するつもりはまったくありません。なぜなら、特例法の適用を受けなきゃ生きていけないほど行きにくい世の中であるというふうに思っているからです。
おそらく、特例法の適用を受けることを希望する人とわたしとの違いは、そんなに大きくはないと思います。かたや、特例法の適用を受けて、とりあえずもう少しマシな人生にしていきたいと思う人。かたや、特例法の適用を受けなくても生きやすい世の中にしていきたいと思う人。いずれにしろ「もう少し生きやすくしたいなぁ」と思っているわけです。

で、今回の「改正」ですね。
根本的には何も変わっていないなぁということが第1印象。
どこかにある「理想の家族像/家庭像」を持ってきて、それに合致しないから「未成年の子がいたら認めない」。単にそれだけのことです。で、変わったのは「子どもが成人したら家庭から離れていくのでまぁええか」という、その程度のことだと思います。
続いての印象は、「子の福祉に反するなぁ」ということ。
子なし要件廃止を訴えた人々の中の少なくない人は、「子どもが成人していないからこそ、戸籍の性別を変更可能にしてほしい」という主張をしていたはずです。
もちろん、子どもたちを扶養していくためにお金を稼ぐには、「外見の性別」にあわせた書類上の性別の方がはるかにやりやすい。これは当然あるわけで。あともうひとつ。
この間父親のことでいろいろなところに電話するのですが、「息子さんですね」と応対されます(笑)。「いえ、子どもです」というのですがね。同様のことが、例えば子どもの学校から電話がかかってきた時も起こるわけで「お父さんですね」とくるわけです(笑)。いえ「親です」と答えるわけで。世間の中の親子関係には、常にそこに「父/息子」「母/娘」というのが付随するように思えるのです。なぜか「親御さん/お子さん」という性別を抜きにした呼称を使うことがほとんどない。
つまり、子どもが成人していないからこそ、親として存在しているからこそ、性別を常に問われ続けるからこそ、戸籍の性別を変更することが「混乱を回避する」ことにつながると、わたしは思うのです。
でも、それは「どこかにある理想の家族像/家庭像」に反するらしいですね。わたしには、その理由がよくわからないです。
さらに続いての印象は、「長いやろうなぁ」ということ。例えば、20歳で子どもができても40歳ですよ。まぁ「やりなおし」がきかない年齢に近づきますよね。「再チャレンジ」ってどこにいったんだろう…。

ところで、子なし要件が必要であるという論の中に必ず出てくるのが「こんなひどいヤツがいる」という話。
なんだかなぁ…。
例えば、ある人への評価を「あいつ、いろいろアカンところもあるけど、こんなエエところがあるよ」とするのか「あいつ、いろいろエエところはあるけど、ここがアカン」とするのか。わたしは前者でいたいと思います。なぜなら、わたし自身が「エエところ」と「アカンところ」を併せ持つ人間だからです。だからこそ、他者への評価も「エエところ」を基準にしたいなぁと思います。
「ひどいヤツがいる」からすべてのそこに属する人を認めないのは、少なくともわたし個人の考えとは違います。「ひどいヤツ」がいるかもしれないけど、「しんどい人」がいるからその人を救うことを優先していこうよという考えのほうが、よっぽど人に優しい世の中じゃないかと思うのですが…。

基準を「否定」におくのか「肯定」におくのか。そのことで、社会のありかたはずいぶんと変わると思うんだけどなぁ。

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