定型をはずす

ちまたで小堀さんの謝辞が話題になっているようです。まぁ、定型をはずすという話はキライではないです。ただ、多くの人が指摘しているように、そのあとの「自分に感謝」のくだりが、新自由主義での定型にみごとにはまっているというのが悲しいです。
てか、定型をはずすのはほんとうに難しいです。大学の話なので、研究に引きつけるなら、論文って定型を維持したまま新規性を追求するわけです。定型をはずしたら論文じゃなくなってしまう。もちろん、その定型を崩すのはかまわないけど、論文じゃなくなるので、エッセイとかルポになるんですよね。
ふと思い出したのが、うちのある卒業生の卒業式における答辞です。高校の答辞は数人でつくるし教員のチェックも入るので、そんなに自由にはならない。でも、その子は「ぜったいに同和学習について入れる」と言い続け、同和学習のことと、自らの部落民宣言やそこでできた友だちとの出会い直しの話を入れました。さらにその子は答辞を読む担当で、当日
「せんせい、最後のところ、読み間違えるしな」
と言ってきました。なんのことかわかったので
「わかった」
と答えました。読み間違えた箇所は日付の箇所で、元号を読み間違えて西暦で読んじゃいました。
わたしはこれも立派な「定型はずし」だと思っています。
個人的には「定型はずし」という意味では上野千鶴子さんの方が好きだなぁ。

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