やっかいなもの

朝起きていつもの通りコーヒーを淹れて。少しずつできることが増えてきたので、朝も余裕ができます。久しぶりの5分だけの二度寝。おふとんは気持ちいい。
でも、いつもの電車で出勤です。20分あとので行ってもいいはずなんですけど、なんとなくかな。
今日は昨日よりもキーボードが叩きやすいです。それだけ肩が動いてるってことですね。それと、指も広がってるのかな。考えてみると、もともとenterキーはかなり遠いから、手を動かして打ってたんですね。
しまったな、早まったなと思ったけど、昨日思わずポチッてしまったのが到着しました。なるほど。これはいいわ。こんな感じでキーボードが使えます。

ベストポジションです(笑)。
午後は会議。会議中に座り直そうと思った時にバランスを崩して上半身を右腕一本で支えてしまう事態に!うぐぐ。支えきれない。てか、ヤバイ!イヤな痛みがなかったから、大丈夫かな。大丈夫であってほしいな。

夜はちょぼやき会です。
今日、話をしてくれるのはM波さん。障害にかかわる話は聞いたことがあるけど、ご自身の話は個人的に断片を聞かせてもらったことはあるにしろ、まとまった話を聞くのははじめてです。楽しみです。
会場に着くとすでにおられます。なんかナーバスになっておられます。自分の話をするってそういうことなんですよね。それを越えて話をしてくださるということは、たぶん「ちょぼやき会」という「場」だからこそなのかな。
で、話の中身は…。テーマをひとことで言うなら「キリスト教」です。
自分の話をしようとするなら、親の話からしなくちゃできない。それは「パラムの会」でもそうだったし、この時もそうでした。
部落や在日に生まれることは選べないといいますが、実は宗教もそうだったりします。ただ、日本においてはそれを意識せずにすむ人が多数を占めています。だから「そんなことはないだろう」と思われがちです。なぜなら、宗教を意識する人は、たいていは「1世」だからです。でも、生まれながらに宗教を意識せざるを得ない人も少数ながらいる。そんな人はたいていは「2世」だったりします。そういう人にとっては選べないことなんです。それに対しては「そこに差別はない」という話はあるかもしれない。でも、そこじゃないんだな。葛藤なんです。
かつてパラムの会がやっていたことは、その葛藤を語るということでした。日本籍朝鮮人として生まれることは、国籍では差別されない生まれであるということなんです。すでにその時点で被差別者としての「資格」を失っている。でも、葛藤は残ります。つまり日本人として生きるのか、朝鮮人として生きるのか。そんな二者択一を迫られました/ます。かつて「朝鮮名を名のらない」ことはクローゼットとみなされてきました。しかし、金田智之さんが明らかにされたように、クローゼットとカミングアウトは排反ではないんです。つまり「朝鮮名を名のらない」が、そのまま日本人として生きること「ではない」ということです。金田さんの言うバレバレという生き方を、パラムの会では「叙述的自己表現」と言いました。その叙述的自己表現を通して、パラムの会の人たちは自らの当事者性を獲得していきました。そうやって、「当事者性」と「被差別者としての資格」を切り離していったんです。そこでキーとなるのは「葛藤」だったんだと思います。
てことで、M波さんの話を聞きながら、ずっと「あのときの自分はどうだったんだろう」ということを考えていました。
M波さんもわたしもキリスト教の2世です。そのことはずいぶん前に教えてもらっていました。ただ、当時はおそらくはとても深い葛藤の中におられた/おられるんだろうなということは伝わってきていました。というのは、わたしにも葛藤はなかったわけじゃないけど、そういうわたしの葛藤とは異なるというか、重ならないというか、そういう感じがあったんですね。あるいは、もっというならば、共感を拒絶するくらいの感じがあったような気がします。
でも、今日の話はまったく違いました。なによりすごいなと思ったのは、「かつての自分はNPOと出会った頃から現在までを「ええやん」と思ってたけど、今はすべての自分を「ええやん」と思っている」という言葉でした。じゃぁ、そういうM波さんになったのは、M波さんがその葛藤とひとりで対峙し続けたか。それは違うんですね。やはり、M波さんの葛藤と向きあう他者の存在があった。そしてそれは、決してM波さんにとって近くはあれ、完全にピアな存在ではなかった。そのことがもうひとつのキーになるんじゃないかなと思いました。
ただ、そういうM波さんの変化の背景にあるのは、やはり障害者解放運動なのかなとも思います。つまり「ひとりでがんばらなくていい」ということです。そういう意味では、過去が今の自分をつくるだけでなく、今の自分が過去を再構築し直すのかなとも思いました。
そしてもうひとつ、冒頭に言われた「ここだから話せる」ということ。つまり、安心して話せる場所であることと、なにより「聞く」人がいるってことです。プラマーじゃないけど、語りは相互行為なんだなってことです。
なんか、ほんとうに今日来てよかったなというか、この場にいてよかったなというか、この場があってよかったなというか、そんなことを思いました。
ただ、それにしてもキリスト教ってのはやっかいだな。葛藤を感じない人はそうでもないけど、なんらかの葛藤を抱えると、メッチャめんどくさい。

で、ちょぼやき会のあとは、いつもの崇仁新町です。今日はA久○さんも来ておられて、なかなか盛り上がったのですが、阿○Zさん、肩を叩くクセがあるのを忘れてました。きっちり骨折箇所を叩かれました。てか、三角巾で腕吊ってるのに2回も叩かれて、それも2回目のほうが強かったという。まぁええか。ガラスの破片入りの日本酒飲む人もいたからなぁ(笑)。
そんなこんなでUりんちゃんが帰るタイミングでわたしもバイバイ。
家に帰ると10時過ぎ。さぁ寝ましょう。というか、入院以来、寝るのが早いわ。