ゆく人来る人

今年もこの日が来ました。離任式&分掌発表の日です。
前にずらりと並んだ人の中には無茶言った相手ももちろんいます。今日欠席してる人の中にも、職場の中ではめずらしく仲のいい人がいたり。そんな感じの離任式のあと、衝撃の支店長の移動がわかったり。マジでびっくりしました。
今の支店長は職場の後輩で(笑)、メッチャいい人です。管理職が何を管理しなくちゃならないかをよくわかってる人です。たぶん自分の振り出しのガッコに支店長として帰ってきて、もっといたかったんだろな。
「これまであちこち行かされて、「宮仕えはこんなもん」と割り切ってたけど、今回は堪えた」と言いながら涙を浮かべておられたけど、ほんとにそうだったんだろな。
その後、分掌の会議。山岳部の顧問が来られて、かなりうれしい。あと、人権副担当が新卒の講師で、支店長から「育てたって」と言われたので、いろいろやりますか。
教科の会議も無事終わりました。教務の時間割担当の方にはすみませんしかないです^^;。
夜はリハビリ。「いたた!」と言いながらも、ほんとに可動域が広がりました。やはり定期的にやってもらわないとあきませんね。
そんなこんなで終わった1日でした。

それにしても、世間はひどいことになってるな。在庫管理の和牛券とか、バランスを欠くからお魚券とか、ほんまに何を考えてるのかわからん。

定型をはずす

ちまたで小堀さんの謝辞が話題になっているようです。まぁ、定型をはずすという話はキライではないです。ただ、多くの人が指摘しているように、そのあとの「自分に感謝」のくだりが、新自由主義での定型にみごとにはまっているというのが悲しいです。
てか、定型をはずすのはほんとうに難しいです。大学の話なので、研究に引きつけるなら、論文って定型を維持したまま新規性を追求するわけです。定型をはずしたら論文じゃなくなってしまう。もちろん、その定型を崩すのはかまわないけど、論文じゃなくなるので、エッセイとかルポになるんですよね。
ふと思い出したのが、うちのある卒業生の卒業式における答辞です。高校の答辞は数人でつくるし教員のチェックも入るので、そんなに自由にはならない。でも、その子は「ぜったいに同和学習について入れる」と言い続け、同和学習のことと、自らの部落民宣言やそこでできた友だちとの出会い直しの話を入れました。さらにその子は答辞を読む担当で、当日
「せんせい、最後のところ、読み間違えるしな」
と言ってきました。なんのことかわかったので
「わかった」
と答えました。読み間違えた箇所は日付の箇所で、元号を読み間違えて西暦で読んじゃいました。
わたしはこれも立派な「定型はずし」だと思っています。
個人的には「定型はずし」という意味では上野千鶴子さんの方が好きだなぁ。